窮之節 漆 『童』
Side Weilan & Ormu
「どうなっているの?!」
数分前に嗜めた部下の言動を、《室長》は自身の口で再現していた。
モニターのなかでは第三層に集結した鬼女童達による波状攻撃が展開されていた。その総勢は一〇〇を下らない。一体ですら恐るべき戦闘力を誇る《ピット》自慢の兵士である。
だが攻撃を仕掛けるたび、彼女達の反応は瞬く間に消えてゆく。
その一方で、被害に見合うだけの成果はいまだ微塵も得られていない。
噂に聞く不動の《気》は、まるで見えなかった。目にも止まらぬ速さ……などという領域の問題ですらなかった。
顕醒はただ歩いているだけだった。襲いかかる鬼女童達に対しても拳ひとつ繰り出さない。
にもかかわらず、鬼女童のほうが勝手に消滅してゆくのだ。
そして、その現象からは、何のエネルギーも検出されなかった。
脳波、熱、大気中の通電……超能力や神通力がいくら超常的とされる力であっても、物理的な影響力を持っている以上、そこには何かしらの〝科学的に観測可能な力場〟が発生する。《ピット》のコンピューターの処理能力と、蓄えられたデータをもってすれば、それら力場の性質から逆算して相手の能力を突き止めることすら可能だ。
だがここへきて、顕醒の操る《気》の正体を解明しようという《室長》の目論見は、完全に外れた。
顕醒には霊力の揺らぎすら感じられなかった。
霊力とは、体力と対を成す〝生命力の側面〟である。また超能力や神通力とも密接に関わっていて、それらが発現される際には多少なりとも昂ぶりを見せる。物理的な活動をする際には筋肉が動くのとおなじだ。いくら不動が他に類を見ない異能の技術だったとしても、霊力の高揚なしに発現できるはずがないのだ。
「まさか……事象の地平面とでも……」
そこに何かがあって、何かが起こっていることは分かる。だが決して観測できない。
《室長》にすれば、そんな状況を否定したい一心から漏らしてしまったひと言だっただろう。それが逆に場を凍りつかせていた。
事象の地平面とは、大質量星ブラックホールの重力値が最大に達する領域、《シュヴァルツシルト半径》の境界を指す。その内側に入ったものは光ですら脱出は不可能。目視は無論のこと、内部の事象を知るすべての手段が断たれるため、「知ることの出来ない彼方」という意味で〝地平面〟と呼ばれるのだ。
顕醒の操る《気》もまた、いっさいの観測を拒絶する現象であったとしたら……
「ありえない。ありえないわよ……」
光も電波も閉じ込めてしまうほどの重力場を顕醒が一時的に生み出しているのなら、たとえそれがどんなに一瞬のことであったとしても、周囲には何かしらの影響が出るはずだ。実際のブラックホールもそれ自体ではなく、周囲の星や光の動きで存在を観測されているのだから。
ならばセレネの言うとおり、意志だけで相手を消し去っているというのか。それも霊力や念波すら感じさせないほどの、平坦な意志ひとつで。
神だとでもいうのか。ありえない。そんなものは、あってはならない。
そのとき、壁にもたれていた漸遠がスッと姿勢を正した。
ラハ=ラトはコートの裾を握るセレネの手をほどいた。
「行くのね……」
セレネの声には、諦観と確信が籠もっていた。
「待ちなさい。勝算はあるの?」
《室長》がふたりに問う。
「是非に及ばん。退路もなく、術策も詮ないとあれば、もはや直に相見えるのみ。もとより私はそのために貴殿らへ与した。カラス男はどうか知らんがな」
カラス呼ばわりされたラハ=ラトは相変わらずひと言も発さない。
「私も行くわ。仲間達も一緒よ」
セレネが声を上げた。身体の震えはまだ収まらないものの、眼には決然たる闘志が甦っていた。
「あなたの言うとおりね。この時のために、こんな場所にずっと隠れていたんですもの」
「助太刀、感謝する」
三人は揃って姿を闇に変え、その場から消えた。
「わざわざ命を捨てる気……? 狂ってるわ」
静まりかえった部屋のなかに、《室長》の侮蔑が重く響いた。
すると次の瞬間、その重々しい空気を引き裂くような悲鳴が、通信機用のスピーカーから迸った。
「こちら祭祀班! 救援を──ああああァァァ!」
絶叫に、モーターの駆動音が被さる。
「祭祀班! 祭祀班応答願います?!」
オペレーターが呼びかけるよりも早く、《室長》は窓へと飛びついた。
その眼が大きく見ひらかれ、震えた。
穴底は地獄の様相を呈していた。《鬼》の直下に設えられた祭壇は血肉の供物台と化し、周囲には何人ぶんもの烏帽子や衣服の切れ端が散乱していた。
祭祀班の長である宮司も今まさに同じ運命を辿るところだった。
幾本ものロボットアームが彼に群がり──まるで手遊びに蟻の肢をもぎ取る幼子のように──その肉体を解体しはじめた。
「いますぐ動力を切って! だれが動かしているの?!」
「誰も触っていません! どうなって……電源を落としたのに動いています!」
管理室のスピーカーは断末魔の叫びを流し続ける。だが、助けを求めてこちらを見上げる宮司の視線からは、誰もが目を逸らした。
愕然とする《室長》達を嘲笑うように、《ピット》の崩壊はなおも加速する。
「全層に多数の活動反応……全部、鬼女童?! 何処からこんなに?!」
「《鬼》の生体反応……八〇を突破! な、なんだ……?」
とつぜん、室内にあるモニターというモニターが一斉にブラックアウトした。
システムダウンか。だが、息を呑む職員らの目の前で、こんどは真っ黒い画面に、文字が現れてゆく。
タイピングの初心者がゆっくりと打つように、カナでひと文字ずつ……
『ミナ シネ』……と。
零子の悲鳴が空に上がった。
「ウェイは《扉》を維持せぇ!」
孤月が駆け寄った。祭場の外周からも医療班が雪崩れ込んでくる。
仰向けに倒れた零子の呪帯には血が滲んでいた。それを剥がそうと医師が慎重にハサミを入れてゆく一方で、孤月は零子のこめかみに指を当てて解呪の文言を唱える。
(麻霧老師、どうかご無事で……どうか)
揺れる心を抑え込み、巍狼はなおも眼前の《扉》に集中する。だが周囲の声は否応なく意識へと入り込み、その一念を引き裂かんばかりに掻き乱す。
「《鬼》が……《鬼》が……」
ようやく呪帯を解かれ、真っ赤に染めた眼で青空を仰ぎながら、零子は譫言のように呟いた。
「レイ、光を見るな。目ぇ瞑っとり」
孤月の手が双眸を覆う。そのおかげで少し落ち着いたか、零子は今度はハッキリと言葉を紡いだ。
「おばさま、《鬼》が目覚めました……早くみんなを避難させて……」
Side Yui , Ormu & Shou
体を走った寒気に、維は思わず立ち止まって辺りを見回した。幅の広い殺風景な通路には自分ただひとり。敵の気配はない。
ここまでの道中に、追ってきた者と立ち塞がった者は、漏れなく殴り倒してきた。いずれもヒトだったが、見た目に反するような身体能力の高さが不気味だった。違法な強壮剤でも打たれているのだろうか。
とはいえ妖種と相対するのに比べれば、実弾や刃の嵐に曝されることなど維にはワケない。凰鵡と朱璃の援護になるかと思って、途中からは逃げるよりむしろ敵を探して殴り倒す側に回ってみたが、そのせいでこの第五層へ上がってくるのに時間がかかってしまった。
妖種達が追ってこなかったのは予想外だった。出掛けの脅しが相当に効いたのか。漸遠とラハ=ラトあたりなら、無視して捕まえに来そうなモノだが。
だが、いま空気が変わったように感じたのは、いよいよ連中のお出ましということか。
「う……ッ!」
ふたたび走り出した直後、飛び込んだ部屋の様相に、維は眉を顰めて唸った。
壁一面に、何台ものモニターが並んで、別々の風景を映しだしていた。警備員の監視室だろうか。維は足を止め、数多の映像のなかに凰鵡と朱璃の姿を探す。
数秒を経て分かったのは、これらは警備用ではなく、《ピット》内にある、いくつもの研究施設を観察するためのモニターらしいということだった。
「なによコレ……!」
ある映像の一群が、維の顔を歪めさせた。
映し出されているのは一種の食品加工場だった。巨大なコンテナから始まり、なかに詰め込まれた食材はクレーンのようなロボアームに鷲掴みにされてミートチョッパーへと放り込まれると、ミキサーを通って真っ白いペーストになるや、今度は枝分かれするベルトコンベアを流れて、それぞれの成形機へと消えてゆく。やがて、あるものは四角く固められて豆腐のように、あるものは赤身の付いたハンバーグの種肉へと姿を変えた。またあるものはシンプルな団子状に、あるものはパン生地のように、あるものは小さな錠剤に。
何種類もの食品が、その全自動加工場のなかで生み出されていた。
だが、それらのおおもとはたったひとつ──コンテナに満載された、鬼女童達だった。
室長が語っていた《鬼盡計画》の目的のひとつは〝食糧問題〟の解決。その一端がこれか。建材にされているのを見たときも「狂っている」と感じたが、まさかこれほどとは思わなかった。
この《ピット》では、日々生み出される鬼女童を食料にしていたのだ。
警備員達の奇妙な強さにも合点がいった。知ってか知らずかはともかく、恐らくここの職員は全員、鬼女童の肉体を摂取することで、その身体能力の幾ばくかを獲得しているのだ。ラハ=ラト達が本来持っていないはずの空間転移を使っていたのも、そのためだろう。
食料にして強化剤。この鬼女童の加工食を糧にすることで、ただのヒトすらも身体能力を簡単に高めることが出来る。つまりは一般人の強兵化だ。計画目的のひとつ〝防衛力〟とは、ただ鬼女童を生きた兵器として運用することだけではなかったらしい。
「じゃぁ〝エネルギー〟ってのは──?」
視線を左右に巡らせて、それを見つけた。数基のモニターの外枠に、ご丁寧にも『GENERATOR ROOM』と書かれている。
が、そこに映っているのが何なのかを、維は一瞬、理解できなかった。
細くて透明な円筒形の容器のなかに、身体を上下に分断された鬼女童が入れられていた。肉体の断面は闇の渦を巻いて、上半身からは大量の水が流れ落ていた。そして水は途中でリング状の機器を通り、下半身の断面へと消える。
〝魔法の蛇口〟が維の頭に思い浮かんだ。宙に浮いた蛇口から水が流れ続ける、仕掛け噴水だ。
それでようやく、これが発電機なのだと維は気付いた。
鬼女童の肉体は空間転移のための《扉》になる。そして《扉》には必ず、入口と出口がある。
上半身を出口に、下半身を入口に設定し、それらを垂直に配置すれば、下半身から入ったものは上半身から出現して下半身へと落下。その運動は際限なく繰り返される。
リング状の機械はおそらく水流から電力を取り出す装置だろう。機器の摩耗を無視すれば、外部からの作用なしに安定して発電し続けられる。じつにシンプルな永久機関だ。
むろん円筒は一機だけではなかった。部屋を俯瞰するカメラ視点からは、画面の端から端までを、同じ型の発電機が埋め尽くしているのが見えた。水力発電の出力の弱さを数で補おうとしたのだろう。
これが〝エネルギー〟への解決策か。ここで試験運用をし、ゆくゆくは全国へ配備しようと計画していたのか。
「何層にあんのよここ──ッ?!」
食料工場に発電所、これらの悍ましい施設を今すぐに叩き潰してやりたい衝動に、拳を握りしめる。
と、その瞬間、上から破砕音が鳴り響き、気配が落ちてきた。
味方のものではない、と直感で悟るや、維は振り仰ぎながら拳を突き上げた。迸る光のなかに、天井の破片と少女の影が消えた。
(鬼女童──?!)
この階層の守備役かと思ったが、違うらしい。わざわざ天井を突き破ってきたうえに、一瞬見えたその姿は、どこか歪だった。
まさか、と思う間もなく、部屋のいたる所で壁と床が打ち破られた。その奧から少女の群れがぞろぞろと這い出してくる。天井からもさらにぼたぼたと落ちてくる。肢の欠けた者、痛々しい縫い跡を残す者、他者と融合したままの者──建材にされていた鬼女童達が息を吹き返したのだ。
「ゾンビ映画かっての──!」
迎え討とうにも数が多すぎる。敵の殲滅も施設破壊もひとまず諦めて、維は一目散に部屋を出た。
なぜ今さら、鬼女童達が甦ったのか、その理由までは知る由もない。
無人の通路を三人は駆ける。翔が先導し、朱璃を抱えた凰鵡があとにつづいた。裸だった朱璃には職員用の白衣が着せられていた。殺して奪った──わけではなく、途中にあったリネン室から失敬したものだ。
前を行く親友の背中を、凰鵡は複雑な気持ちで見つめる。助けに来てくれたことは嬉しい。だが、それを素直に喜べなかった。つい先だって、彼は何の躊躇いもなくヒトを撃ったのだ。自分達を助けるためと言えばそれまでだが、さりとても翔は眉ひとつ動かさなかった。
いまの翔のことを、凰鵡は怖い、とさえ感じていた。
「ここだ」
翔が脇道に入り、その奧の扉を開けた。たちまち、轟音と強風が凰鵡達を包んだ。
金網張りの床と天井、その裏で唸りを上げる巨大な回転翼──空調室だ。
層ごとに区切られてはいるが、どうやら《ピット》を上から下まで貫いているらしい。さすがに階段室と違って分散させるわけにはいかなかったのだろう。これは盲点だった。
「これで一気に上まで行く」
翔が親指で示すほうを見れば、部屋を縦断する長い鉄梯子が壁に据え付けられていた。メンテナンス用だろうか。そこだけは上も下も天窓状に開かれていて、ひと息に何層も昇って行けるようだった。なるほど、翔もここを伝って第四層まで来たのか、と凰鵡は合点する。
「え、それで昇るの……?」
凰鵡とは対照的に、朱璃は声を引き攣らせる。無理もない。この階層だけでも天井の高さは目測で一〇メートル。おまけに安全柵も命綱もなし。万が一にでも足を踏み外せば、最下層まで一直線に……という事態になりかねない。
「朱璃ちゃんは俺が。凰鵡は後ろを頼む」
「うん。朱璃さん」
凰鵡に言われて、朱璃はしぶしぶ彼の腕から翔の背中へと乗り換えた。
「翔くん大丈夫なの?」
「そっちこそ、ちゃんとしがみついてろよ。あ、髪は前で掴んでろ」
銃をベルトに挟み、朱璃を背に負い、翔は梯子の桟に手足を掛けた。
と、その時、閉めておいた部屋の扉が、勢いよく開かれた。
「Bエリア空調室に目標発見!」
警備員達が雪崩れ込んでくる。
「翔、行って!」
凰鵡が敵群に突っ込んだ。瞬きする間もないローリングソバットで先頭のひとりを後続へと吹き飛ばし、隊列を崩す。
「くそッ、お前もちゃんと来いよ!」
あらためて翔は梯子を昇り始める。女子とはいえ人をひとり背負っているとは思えない速さで、ぐんぐん天井へ近づいてゆく。
(翔……すごい)
目の端に友の様子を捉えて凰鵡は感嘆する。訓練に明け暮れていた成果か、少し前とは桁違いの身体能力だ。
「構わん撃て!」
焦った警備隊がいっせいに拳銃を構える。が、それらは火を噴くより早く、光の剣によって主の手元から弾き落とされた。
凰鵡の揮う倶利伽羅竜王だ。不殺の念を受けて吐き出されたその刃に切断力はない。まるで木刀か竹刀のように男達の腕を叩いてゆく。
「凰鵡! 来い!」
天井の穴から降ってくる声に向かって凰鵡は跳んだ。梯子へと取りつけば、第三層への入口は目の前である。一〇メートルの高さを感じさせない大跳躍だ。
直後、足下の状況が一変した。
「あああ──?!」
警備隊の後列から血と悲鳴が噴き上がった。
「な、なん……ぎゃぁぁ!」
「こいつら、どこから?!」
突然の襲撃者の正体は鬼女童だった。それも群れをなして、通路のほうから水流のように押し寄せてくる。そのどれもが体を欠損させていたり、他者と融合していた。
突然の惨状に、凰鵡は動けなくなった。何が起こっているのだ──いや、それ以前に、彼らを助けるべきだろうか。
だが鬼女童の一体がキッと凰鵡を振り仰いだ瞬間、迷いは恐怖に、逡巡は焦躁に塗り替えられた。
「凰鵡くん!」
「ふたりとも急いで!」
朱璃へ叫び返しながら天窓に飛び込む。四層の天井と三層の床とのあいだで回転する巨大なファンに引き込まれそうになるのを堪えつつ、さらに梯子を昇る。
こちらを見た鬼女童の眼が、頭から離れない。
人形のような無表情……だがその瞳の奧には、憎悪と怒りが燃えているように、凰鵡には感じられた。
誰への? 何への? 自分達を道具にし、生きながらに壁へ埋めた《ピット》の人々に対してか?
違う──なぜか凰鵡はそう思った。眼が合ったあの瞬間から、怨嗟のような思念が心を揺さぶってくる。恨めしげな誰かの声が、自分を呼んでいる。
精神感応か、それとも恐怖が聞かせている幻聴に過ぎないのか。
ダン、ダン、ダン──力強い音が、梯子を通じて体に響く。
反射的に下を見て、凰鵡は後悔した。
鬼女童が昇ってくる。折れた頸をだらんだらんと左右に揺らし、捻れた腕を叩き付けながら踏桟を握って、徐々に迫ってくる。
額に張り付く血濡れの前髪。その合間から覗く、瞬きのない眼は、確実に凰鵡を見ていた。
「うぁ……あ……!」
悲鳴を殺しながら、凰鵡はさらに上へ、上へと逃げる。
(どうして? どうして……?)
この妖種達と自分とのあいだに、何の関係があるのだ? 理由がまるで分からない。分からないがゆえに、凰鵡は怯えるしかない。
(翔、早く……早く上がって!)
叫びが口に出かける。さっきは充分に速いと思った友の動きが、いまはただただ焦りを助長する。
第三層の天井を抜け、第二層の床下から出た。あと一層だ。逃げきれる。大丈夫、逃げきれる……! ひたすら自分に言い聞かせる。
が、凰鵡は忘れていた──鬼女童に、距離は関係ないことを。
「あ──!」
最後の天窓を間近にして、足に何かが巻き付いた。
長い黒髪……否、紙縒りのように細く捻じられ、引き伸ばされた、鬼女童の頭だった。
その下から、さらにその下からも、血濡れの鬼女童達が攀じ昇ってくる。
迫り来る、同じ顔の女の群れ。
(いやだ! 来るな!)
凰鵡のなかにかつての恐怖が甦る。朱璃と初めて逢ったときのこと。圧倒的な数と力の前に喫した大敗。あのとき、兄と維に助けられていなければ──
「凰鵡!」
頭上からの声が、凰鵡を〝今〟に引き戻した。
ハッと仰ぎ見れば、逆さまの翔と眼が合った。天窓の縁に脚を掛けて上半身を垂らしている。
その手には、あの異銃が握られていた。
咄嗟に凰鵡は壁へと身を寄せる。
引金が絞られ、目も眩む光条が背をかすめて、妖種の群れを一直線に呑み込んだ。
その威力に、凰鵡はあらためて驚嘆する。脚を捉えていた先頭の者から真下の者まで、さらには鉄梯子や壁の一部までが灼き消されていた。まさに兄の《無極の殺法》の縮小版だ。
事実、いまの異銃には、その顕醒の血が籠められている──ここまでの道中に翔自身がそう教えてくれた。
大鳥拓馬の腕が変異した異銃は、内部に注入された血液からじかに弾丸を精製する。そして最近の調査で、〝弾丸の威力は血の提供者の霊力に比例して上昇する〟ことが新たに判明していた。
「凰鵡、早く」
「ん……うん」
天窓の奧へと引っ込んだ翔の半身を追って、凰鵡も最後の数段を上がりきる。
「凰鵡くん、よかった……」
翔の背から降りていた朱璃が、安堵の溜息を吐く。
ようやく第一層に辿り着いたのだ。
「うん。翔……ありがと」
凰鵡は右手を差し出した。翔に助けられたのはこれで何度目だろう。やはり頼りになる親友だ。嫌われていると感じていたのは杞憂だったのかもしれない。
だが、凰鵡の安心は、一気に霧散した。
翔の顔には、欠片ほどの笑みもなかった。握手すら躊躇っているように見えた。
三人のあいだを静寂が貫く。不安と、戸惑いと、逡巡──たった数秒の沈黙のなかで、みっつの心は擦れ違いながら、決して触れあうことなく、歪に絡み合う。
その結び目が解かれる暇は、与えられなかった。
「──ッ?!」
背後から伸びてきた何かが、凰鵡の体を包み込んだ。
「凰鵡!」
翔が左手で凰鵡の右腕を掴む。
が、そのまま地面に引き倒された。
凄まじい力だった。当然である。それは虚空を穿つ闇から伸びた、あまりにも巨大な手──否、手の形を成した、鬼女童達の集合体だった。
「凰鵡くん! 翔くん……!」
幾人もの女の顔が浮き出た悍ましい形状に、朱璃は立ち竦む。
(クソが──!)
倒れた姿勢のまま、翔は右手の得物を前へと突き出す。
その発射を阻止するかのように巨腕が波打ち、翔はいっそう強く金網に叩き付けられた。衝撃と激痛で意識がフラッシュして、異銃が右手から吹き飛んだ。
まだだ──焦点が戻りきらない視界のなか、翔は手探りで金網の合間に指を滑り込ませる。
直後には、身体がぐんと引っ張られた。左手に凰鵡を、右手には金網を握りしめたまま、翔は両腕を一文字に開かされた。引き裂かれるような痛みが腕の隅々を駆け抜け、往復し、滞留し、責め苛む。
それでも翔は手を放さない。歯を食いしばり、呻きを殺し、全身全霊でもって抗った。
絶対に凰鵡は渡さない。その執念ひとつで気力を燃やし続けた。
「翔、もういい! 手を放して!」
凰鵡の叫びが執念を揺るがす。
だが、出来るわけがない──凰鵡自身の頼みでも、聞くわけにはいかない。ここで放したら、もう二度と逢えない気がする。そうなったら自分は、自分自身を、絶対に許せない──たとえその心が自分のものにならなかったとしても、だ。
「翔、ボクを見て!」
翔は目を開いた。瞼を固く閉ざしていたことすら忘れていた。
何かが、意識を貫いていった気がした。その射線を辿るように、視線を向ける。
巨腕に鷲掴みにされながら、凰鵡は微笑んでいた。
「朱璃さんをお願い」
その言葉は、いまの翔には何よりも痛い。
だが、凰鵡らしいと思った。
「翔くんダメ! 放さないで!」
朱璃が動いた。転がった異銃を拾い上げ、引金に指を掛ける。
「……出て! お願い──大鳥さん、お願い!」
無理だった。たとえどんなに近しい者であったとしても、亡き父の腕だった銃は、息子以外の射手を認めない。
そして朱璃の願いは虚しく、凰鵡は穏やかに告げた。
「ボクは大丈夫だから………信じて」
最後のひと言が、翔の執念を砕いた。
違う、と感じた。今までの、無理に強がって自分を犠牲にしてきた凰鵡とは決定的に違う……と。
決意の差だけではない。その眼には、確固たる自信が見えた。
例えて言うなら顕醒のような──否、彼のような泰然さこそないが、着実に彼へと近づいていることを匂わせる意志の力が、今の凰鵡にはある。
遠い。目の前にいるのに、これまでにないくらい、凰鵡が遠くに思える。もう自分には追いつけない、手の届かない存在になってしまったのか。
……なら、自分が繋ぎ止めて何になる。解き放ってやればいい。凰鵡自身が望んだように、どこまでも……どこまでも高みへ昇れるように。遠くへ行けるように。
(これで、いいんだよな)
心の声に、翔は従った。
「ありがとう」
巨腕が凰鵡を闇の奧へと連れ去った。
「凰鵡くん──!」
追いすがる朱璃の目の前で扉が閉じ、虚空に還った。
翔は無言のまま立ち上がる。
その頬に、朱璃の平手が入った。
「バカ! 翔くん、なんで放したの?!」
二発、三発と追い打ちが掛かる。
「きみだって……きみだって……!」
打つごとに弱まってゆく手が、最後には縋り付くように、シャツの胸を掴んだ。
「朱璃ちゃん、行こう」
その手を握り、異銃を受け取って、翔は空調室の出口へと歩み出した。
凰鵡を信じる。そこに噓はない。
その一方で、「だとしても」という反骨の火は、心の奥底から消えなかった。




