破之節 陸 『手』
「お題目はけっこうね」
内心の怖気を振り払い、維は努めてぶっきらぼうに室長の話を断った。
「で、その崇高なキジンケーカクとやらの最中に、わざわざ顕醒に喧嘩売った理由はなんなのよ?」
「これは閑話休題。私達が《母体》と呼ぶ女性体……《鬼》の下腹部と同化している彼女が誰なのか、御存知?」
維は目を見開き、今度こそ言葉を失った。
セレネからの書状……あれは顕醒を誘き出すためだけの噓ではなかったわけだ。
「私達の調べでは、彼女の名前はアラハギノゾミ」
あらはぎのぞみ──その音を『荒萩望』という字で、容易に思い描けてしまう。
「彼女には弟がいるわね。アキラという名前の」
荒萩晃……知っている。維はその人物を、「誰よりも」と添えられるくらいに知っている。
「この晃くん。不幸にもご両親とともに死亡したことになっているけれど、最近になってようやく、生きていることが判ったのよ。とある組織が身柄を隠していたこともね」
「言ったはずよ。もったいぶった言い方すんなって」
「そうね。じゃぁ単刀直入に訊きましょうか。荒萩晃──いえ、顕醒という人は、何者?」
思わず「は?」と、素っ頓狂な声を出してしまった。
「彼の力は私も聞き及んでいるわ。でも分からないのは、その原理。彼の使う《気》とは何なのかしら。念動? 念法? セレネや漸遠……じっさいに彼と相対したラハ=ラトでさえも把握できていない」
「それ、門外漢のアタシが知ってると思って?」
「だから、彼の正体だけでも教えていただけないかしら。猛者揃いで知られる衆の闘者のなかでも、彼の力は飛び抜けている。その理由をね」
「まるでアイツが神か悪魔かってでも言いたげね」
「それは言い過ぎよ」《室長》は苦笑する「たとえば、私達が立てた仮説のひとつはこう。二十三年前、彼は《鬼》に接触した。その際に何かがあって、彼は《鬼》の力の一部を得た──奪ったか、与えられたかしてね」
ふふ……と、維は思わず含み笑いを漏らしていた。
ようやく《室長》の目的が読めた。彼女達は《鬼》の力のみならず、顕醒の力をも手に入れたいのだ。だが同時に、顕醒という存在を最大の脅威と見なしてもいる。どういう理由でか彼の姉が《鬼》と融合している以上、遅かれ早かれ衝突は避けられないと察して焦ったのだ。
「なにがおかしくて?」
「あんたらこそ考えすぎよ。ホント、勘違いされやすい奴だけど、ここまでくるとギネス級ね」
「そっちこそ、随分ともったいぶった言い方をするのね」
カチン、と維のなかで火花が弾けた。
「香音さんにも同じこと訊いたんでしょ? でも信じられなかった。だから、こうやってアタシらを攫ってまで、確かめようとした。怖いんでしょ?」
「まさか。私達が慎重になるのは、彼の力が貴重だと感じているからよ」
「いいえ、怖がってる」
《室長》の確言を、維は断言でもって斬り捨てた。
「認められないのよ──アイツは異能者でも、天才でもない、ただの凡人だって」
「ありえない!」
そう叫んだのは《室長》ではなかった。いつの間にか彼女のそばに現れていたセレネである。
「その女を殺して。今すぐ!」
「セレネ? あなたどうしたの──?」
「そこにいる全員! 私が許す。そいつを殺せ!」
《室長》を無視して、セレネはモニターの向こうに叫んだ。
「あらあら、痴話喧嘩?」
突如発生した向こうの諍いを皮肉りつつ、維は身構えた。
部屋の空気がワッと湧いていた。
最初から、部屋のなかは数多の妖種でいっぱいだった。香音を拷問していた連中である。維と《室長》との会話にこそ割って入らなかったものの、次の獲物が顕醒のパートナーとあって、誰も彼もが見るからに殺気を漲らせつつ焦れていた。
そして彼らへの〝おあずけ〟はたった今、セレネの号令によって解かれたのだ。
まさにミリアンの言っていた「あんたの番」が来たのだ。しかも、それは手順をすっ飛ばされて、さっそく処刑タイムに入ったらしい。
──殺ス──ヨウヤク殺セル──待ッテタゾ──やつニ俺ト同ジ苦シミヲ──味ワワセテヤル──思イ知ラセテヤル──
口々に怨嗟を漏らしながら、執行人達がじりじりと迫ってくる。粘液まみれの牙が、ねじくれた爪が、有刺鉄線のような舌が、何のための器官かも判らない太い管が、これ見よがしにチラつかせられる。
タタデ殺スモノカ──ズタボロニ引キ裂イテヤル──手足ノ先カラ──切リ刻ンデ──喰ッテヤル──食イ殺シテヤル──
(来やがれ……全員ぶっ潰してやる!)
もとはといえば、彼らも顕醒による非道の犠牲者かもしれない。それでも維の闘争心に躊躇はなかった。
いかなる事情があろうとも、香音を辱め、凰鵡や朱璃を怖がらせた時点で、彼らは維の〝敵〟なのだ。
数は多い。なかにはこちらが苦手とする精神波や窒息で攻めてくるものもいるだろう。四肢を封じられた状態で、はたしてどこまで対抗できるか。
否、やるのだ。たとえ手足を切り刻まれたとしても、ここを突破して他の三人を助け出し、この謎の施設から脱出してやる。
妖種の一体が長い爪を維の体にあてがった。さらに別の一体がゴムチューブのような嘴を顔に伸ばしてくる。
忌まわしい口吻を受けながら、鋭い鋒に服を引き裂かれて、維はその裸体を曝した──はずだった。
──ガアァッ?! ──ギェエ!
いざその時という寸前で、二体は光に包まれ、短い悲鳴を残して消え去った。
何が起こったのだ。そのさまを目の当たりにした全員が思考をパンクさせて動きを止めた。維も当然、そのなかのひとりである。それでも彼女の直感は、瞬時にこの現象の正体に辿り着いた。
(顕醒────)
出がけの交わり。あのときに気を授けられていたのだ。
(まぁた人に黙ってアイツは! あんがとね!)
そうと確信するや、維は手足に絡む触手へと念を送った。
(消えな!)
肉の縄が光となって弾け飛んだ。念った瞬間、本当に消えたのだ。
快哉と戦慄が同時に体を駆け抜ける。恐ろしい力だ。これが真なる《不動の気》か。
──ナンダ、何ヲシヤガッタ──マサカ、コノ女モアイツト同ジ──ソンナばかナ──シカシ現ニ──
思いがけぬ事態に恐れをなし、妖種達は完全に立ち竦む。
こいつらも全員消してやろうか。
(──あぶないあぶない!)
心に湧いた殺意を押しとどめて脱出路を探す。
だが、最初に目覚めた部屋と同じで、扉らしきものは何処にもない。思えば、自分と入れ替えるように香音を連れて行ったときも、ラハ=ラト達は鬼女童をひとり連れていた。あれが転送装置の役割を果たしているのだ。
なら、このまま缶詰か──維が舌打ちをしかけたときだった。
不意に、部屋全体が揺れた。
地震か──と感じた数秒後には、騒々しいアラートが鳴り響いた。
「第五層で異常爆発! 繰り返す。第五層で異常爆発! 付近の職員は詳細を確認せよ!」
事故だろうか。《ピット》の構造が分からない以上、近いのか遠いのかも想像できないのが悔しい。
(──え?)
その瞬間、こんどは維のなかに、あるイメージが流れ込んできた。
3Dで描かれた建物の構造図だ。しかし地上の建造物ではないらしい──七階建てという多階層にもかかわらず、逆円錐形をしているとは。
(ここか!)
維は確信した。これは《ピット》の見取り図だ。
すると答え合わせのように、図像のなかで自分のいる位置がハッキリと感じられた。まるで立体のカーナビゲーションだ。
(こっちの壁の裏に廊下──!)
自分に何が起こっているのか疑うより先に、背後の壁へと蹴りを入れた。
ドッ、と光を散らし、重い破砕音をあげて白壁が弾けとぶ。果たして、硬質な鈍色をした広い通路が姿を現した。
「追っかけてきたら殺す!」
妖種達を恫喝しながら維は部屋を飛び出した。
だが、いざ剥き出しになった壁の内側を目にした瞬間、怖気に心を貫かれた。
折り曲げられたもの、開かれたもの、引き延ばされたもの、切り刻まれて隙間に捻じ込まれたもの…………
綺麗に整えられた《ピット》の内壁。その中身は、肉と骨の集合体だった。
この施設を構成する建材は、何十体(あるいは何百、何千、何万)もの《鬼女童》だったのだ。
Side Ormu & Others
凰鵡は茫然としたまま、崩れるようにへたり込んだ。
白い監房は跡形もなく消え去り、壁も床も天井も、その無惨な内実を露わにしていた。
だが狂気の人体建築も、いまの凰鵡にとっては取るに足らないものだった。
「朱璃さん……」
返事は来ない。おおよそ半球状をした直径約十メートルの空間には凰鵡ひとりきり。朱璃とミリアンの姿は、どこにもない。
(そんな……そんな………)
目を堅く瞑って首を横に振る。悪夢か、幻覚であって欲しかった。
また、やってしまった。ミリアンが朱璃を玩具にしようとするのが許せなかったばかりに、怒りをコントロール出来なかった。
霊力の暴走。ラムダを巻き込んでしまったときのように、今度は朱璃を────
「あ……ああ……!」
慟哭というには、あまりに力ない声だった。
鬼女童達が剥き出しになっているのにも構わず床に突っ伏し、額を擦りつけ、頭を掻き毟って悶えた。
噓だ、噓だ、噓だ…………軋る歯の間から絞り出すように、言葉にならぬ呪詛を吐く。
無駄だった。何ひとつ噓にはならない。
朱璃を、殺してしまった。好きだと言ってくれた──大好きな──愛していた──友達として、同僚として、恋人として──その彼女を、自分が、この手で。
(ボクは…………)
今度こそ、否定しようがなかった。自分は化け物だ。誰も彼もを見境なく消してしまう、正真正銘の化け物なのだ。
(朱璃さん、ごめん……)
震える手で、己の喉を掴んだ。軟骨の膨らみと、動脈の蠢きを指先に感じる。練気を使うまでもない。自分の握力なら、その首根など簡単に握りつぶせる。
(ボクも──)
死のう。そして、もし天国があるのなら、そこで彼女に謝ろう。それが今の自分に出来る、唯一の償いだ。
目を瞑り、息を止め、すべてを捨てて、腕に力を籠めた。
「凰鵡くん?」
指を止めた。幻聴だと思った。この期に及んで「死にたくない」と訴える自分の弱さが聞かせた妄想だ、と。
だが、凰鵡はその弱さに縋った。恐る恐る瞼を開き、滲む世界のなかに、彼女を見た。
「凰鵡くん、どうしたの? ここは……?」
何が起こっているのか、まるで判らなかった。
「朱璃さん?」
服を失い、髪もほどけた朱璃が、そこにいた。
無事だったのだ──否、たしかに彼女は消滅したはずだ。
嬉しさと疑わしさの狭間で、凰鵡の思考は停滞する。
「何があったの? 私、どうして……」
朱璃もまた混乱していた。自分の体を精いっぱい両腕で隠しつつ辺りを見回し、その光景にまた頬を引きつらせる。
何が……なぜ……どうなって…………終わりの見えない謎を心に抱えながら、凰鵡と朱璃は互いに顔を見合わせる。
だが問いに対する解はついに見出されぬまま、にわかに激動をはじめた世界は、その濁流の懐へと、ふたりを抱き込んだ。
「え──?」「なに、これ?」
ふたりは同時に声を上げていた。
維と同じく、脳裏に《ピット》の見取り図が流れ込んできたのだ。
そして自分達の居場所と、さらには進むべき道筋が示される。
(これは──!)
凰鵡のなかに閃くものがあった。
──凰鵡!
その瞬間、心に声が響いた。力強いそのひと言で、閃きと確信が凰鵡を貫いた。
(倶利伽羅竜王!)
今いちど宝剣を呼ぶ。金色の鈷杵が掌に現れ、竜の顎が光を吐いた。
(こっちか!)
頭のなかの地図が指し示す方角へと刃を揮う。肉の壁が切り開かれ、天井の高い大部屋に繋がった。
「朱璃さんごめん!」
刃を収めるや、朱璃を抱いて走った。
「捕虜が逃げたぞ!」
飛び出してきたふたりに、大部屋にいた男達が騒然となる。
朱璃の裸が彼らの眼に曝されることを申し訳なく感じつつも、凰鵡は走った。大部屋から通路へと出る。ここからまっすぐ行って、突き当たりを左に──
「凰鵡くん、これって……」
「大丈夫。こういうの、前にもあった……!」
その時とは少し違うが、この感覚には憶えがある。
いつか翔とともに駆け抜けた異空間の校舎と同じだ。この《ピット》に干渉している誰かの念が、自分達を出口へ導いているのだ。
そしてたった今、心に聞こえた声……
間違いない。今度もまた、誰よりも頼れる人が助けに来てくれたのだ。
管理室のなかは《ピット》の何処よりも激しい混乱に見舞われていた。
維が妖種を消し飛ばしたかと思えば、今度は凰鵡達の監房が閃光とともに通信を絶ったのだ。
「ミリアン! ミリアン、なにがあったの?!」
室長がインカムに呼びかけるも応答はない。
そして予期せぬ災厄は、まるでこの機を狙っていたかのように畳み掛けてきた。
「第一層に異常な時空歪曲が発生!」
「《ピット》全域に、データにない霊力の波動を確認!」
「触媒への負荷値、四十五に上昇! 原因不明!」
「第一層の全職員の生体信号に異常検知! 活動反応消滅!」
「第二層で小規模の爆発多数! 原因不明!」
「現世への転移用の鬼女童、全機が機能不全! 《ピット》からの脱出が出来ません!」
オペレーター達が次々に異常を報告する。
どれが単独のアクシデントで、どれとどれが連鎖した事象なのか、即座に理解出来るものはひとりもいなかった。
だが同時に、誰もが、ある予感に震えていた。
何者かが、この《ピット》に侵攻を開始したのではないか。
直後、それは最悪の形で確定に変わった。
「こちら第二層Dブロック! 緊急事態。至急、応援請う!」
逼迫した叫び声が通信機から迸る。声の背後に重なって聞こえるのは、幾重もの破壊音と悲鳴だろうか──答えは、是であった。
「攻撃を受けている! 被害甚大! 侵入者は顕醒! 繰り返す! 侵入者は顕醒!」
──約三〇秒前。
《ピット》の〝第一層〟とは、七層あるうちの〝最上層〟を指す。そこはおもに職員の居住区や、生活のための共同空間として使用されている。
広々とした食堂はそのとき、鬼盡計画の初動成功の報で大いに沸いていた。非番の者にはアルコール飲料が無料で支給されていた。あちらこちらで職員同士が互いの努力を称え合い、これまでの苦役を労い合った。
そこに、最初の揺れが来た。凰鵡が起こした爆発であると知らない職員達は、驚きと不安をもって動きを止めた。なぜなら《ピット》に地震はないからだ。
「第五層で異常爆発!」
ほどなくして鳴り響くアラート。事故か。だが四層も下の出来事だ。緊急マニュアルに従って、まず最寄りの誰かが状況を確認しに行くだろう。自分達は慌てず、次の報に備えていればいい。誰もがあくまで冷静に身構えた直後だった。
天井で闇が口を開け、長身の男を床へと吐き出した。
それが何者か、その場にいる全員が知っていた。
最重要警戒対象──衆闘者筆頭、人呼んで《鬼不動・顕醒》。
困惑と疑念が駆け抜けたと同時に、光が世界を薙ぎ払った。
食堂だけではない。壁の裏側……通路の先……階層の果てから果てに至るまでが、真一文字に斬り裂かれ、その刃に触れた人間をことごとく光の塵に変えた。高所にいたか、床に寝そべってでもいない限り、避けようはなかった。
顕醒による宝剣・倶利伽羅竜王のただのひと振りで、《ピット》第一層は事実上、壊滅したのだ。
「──凰鵡」
その呼び声に応じたかのように、宝剣は光に包まれて消えた。
Side Weilan , Irma & Others
衆第一支部の中庭には、朝の青空に似つかわしくない重々しい空気が垂れ込めていた。
注連縄を四角に張り巡らせた結界。内側には茣蓙が敷かれ、零子、孤月、巍狼の三人が中央を向いて座している。周囲には万一の場合に備えて、医療班や警備部の面々が固唾を呑んで待機していた。
まるで石燕の『丑時参』だ──斜向かいの零子を目の隅に捉えながら、巍狼は思った。
藁人形も五寸釘もない。頭に燭灯を頂いてもいない。唯一それらしいのは、身を包む白装束。目には呪灰の眼鏡の代わりに、呪紋を刻み込んだ帯を巻いている。
「ウェイ、念を乱すな」
孤月に諭され、巍狼は意識を目の前に集中しなおす。向かい合うふたりのあいだでは、空間を抉り取るかのような闇が渦を巻いていた。
異空間への|《扉》《ポータル》、一種のワームホールである。
敵の本拠たる《ピット》は異空間のなかに造られた世界──顕醒が凰鵡や維の居場所を掴めない時点でそれは予測されていた。問題は、《ピット》と現世を行き来するための扉は鬼女童にしか作り出せぬよう施されていたことだ。この不便さこそが、連中が二〇数年に渡って秘匿性を維持してこられた由縁なのだろう。
だが事ここに至って、秘密の鍵は衆に渡った。支部に帰還した直後には、顕醒は鬼女童の胴体を霊科班に提出していた。罠役に見せるためだけに頭部を別にしていたのだろうか。先読みが巧みというレベルを超えた周到さに、巍狼は寒気すら覚える。だが彼のおかげで突入作戦が迅速に準備され、実行されたのは事実だ。
鬼女童から解析された《ピット》の座標をもとに、その胴体を触媒にして孤月が扉を開いて維持する。巍狼はその助手を務めていた。
零子には眼力の強化術が施された。扉を通じて《ピット》全体を霊視し、構造を把握すると同時に霊的な干渉を仕掛けて、仲間の行動を援護するのだ。
呪帯に覆い隠された瞳には、いったい何が見えているのだろう。《ピット》のすべてか、それとも紫籐の眼と命を奪った張本人か。巍狼には判らない。
判ることがあるとすれば、いま零子を突き動かしているのは使命感だけではない、ということだ。
普段は菩薩のような零子が時折見せる苛烈な一面。それはリーダーとしての責任感や決断力の表れであり、皆を守りたいという彼女の優しさの裏返し──言うなれば仏の忿怒相──だと、巍狼は思っていた。
だが今度に限って、それは当てはまらないらしい。
丑時参──あの妄執に取り憑かれた女の図像が重なって、引き剥がせない。
「あの人から眼を奪ったことを……後悔なさい」
作戦開始の直前、呪帯を眼に巻いた零子が独り言のように囁いた言葉が、巍狼の心をざわつかせていた。
(どうか、ご無事で)
うねる扉を見つめ、その奥に突入していった彼らの無事を、巍狼は祈った。
甘美な口づけで香音は目を覚ました。
「お待たせ」
目の前に、夫の貌があった。気を失っているうちに、助けが来たらしい。
今まで自分を責め苛んでいた男達は、ベッドの足下に転がっていた。
誰も彼もが白眼を剥き、身を振るわけながら、のたうち回っていた。波打つ男体の海だ。
「助け──」「もう、やめ……!」
口々に助けを乞うている。イルマの素顔と、振りまかれた妖香にやられたのだ、とすぐに分かった。狂わされた脳からは快楽と苦痛とが同時に、とめどなく溢れ出しているはずだ。心も身体もぐちゃぐちゃに掻き乱され、それは死ぬまで続くだろう。哀れとは思うまい。
「維は無事……?」
第一声で他人の身を案じた香音に、イルマは苦笑いを返した。
「まずはキミを脱出させる。文句は言わせない」
香音を抱えたままベッドからベッドへと跳び移る。
「こ、殺せ……」「許し──ッ」「ごめんなさ……ァ」
慈悲を請う下界の妄者達へと、天上の美貌が振り向く。
「やだねッ」
笑顔で「あかんべー」をして、イルマは淫猥の館をあとにしようとしたが……ふと、眉を顰めた。
床には悶え震える男ども。それはいい。
だが、さっきまであれだけいたはずの鬼女童が、ひとり残らず消え去っているのは、どういうことだ。
管理室の混乱は終息するどころか、時間を経るごとにますます激しくなるばかりだった。
「第二層Dブロックが突破されました。顕醒はEブロックに侵攻!」
「第二層Bブロックに新たな侵入者確認! 捕虜が奪われました!」
「五層から脱走した捕虜二名が四層へ移動! 第六層の一名も五層に上がりました。どちらも上層への階段を目指している模様です!」
「鬼の生体反応がなおも上昇中!」「触媒への負荷値も五〇を超えました!」
「脱出用の鬼女童はいまだ機能不全。いったい何がどうなってるんだ?!」
最後のオペレーターの悲鳴は、その場にいるほぼ全員の総意だった。
「落ち着きなさい!」《室長》が叫ぶ「運用中の鬼女童をすべて防衛戦仕様に切り替えて。第三層に集結させ、顕醒を迎撃します。各層の警備員は捕虜の確保に専念。漸遠とラハ=ラトをここへ呼んで。ミリアンも呼び続けてちょうだい。祭祀班は今すぐ鬼の鎮静を」
最後の指令に、宮司姿の男が「は」と一礼し、闇と化してその場から消えた。
すると入れ違うように、漸遠とラハ=ラトのふたりが現れた。
「ラハ=ラト!」
即座に、セレネが黒衣の裾へと縋り付いた。
「逃げましょう! 無理よ! あの男には勝てない!」
《室長》のみならず、誰もが唖然として目を瞠る。
「セレネ、どうしたのだ?」
漸遠がしゃがみ込んで小さな肩に手を置く。
「アイツは人間じゃない。アイツの弟もそうよ! 私達、みんな殺される!」
瞬間、その場にいた全員がハッとして、数秒のあいだ動きを止めた。
「バカな……」
漸遠が絞り出すような声を上げる。セレネが凰鵡から聞き出した不動の真相を、皆の脳裏に直接伝えたのだ。
「念動……いえ、現実を操作するとでも──」
《室長》も頬を強張らせ、眼を左右に泳がせる。
「──けれどまだ彼個人の認識に過ぎないわ。客観的事実とは言えない」
「私の力を疑う気?!」
「そうではない」
《室長》に食ってかかるセレネを、漸遠が諭す。
「あの男が弟にそう信じさせ、我らを謀っている可能性もある」
「それは……」
「とにかく」《室長》が言った「それが真実かどうかは、これから明らかになるわ」
「第二層沈黙! 顕醒が第三層に侵攻、鬼女童の防衛戦と接触しました!」
オペレーターの報告に《室長》は「よろしい」と答え、悠然と向き直った。
「全監視システムを第三層に集中! 顕醒の一挙手一投足をあらゆる点からモニタリング。彼の力の正体を、ここで曝くのよ!」
Side Ormu & Weilan
凰鵡は焦っていた。
頭のなかの構造図によれば、ゴールは最上階の第一層。自分達が脱出した部屋は第五層。階段を見つけて第四層に昇れたはいいものの、そこでおしまいだった。
階段が各層でバラバラに配置されているのだ。侵入者対策だろうか。エレベーターもなく、おかげでこの第四層を走り回るハメになっている。
警備と思しき連中にも捕捉されてしまった。相手は銃持ち。こちらは朱璃を抱えている。応戦は避けたい。なんとか撒こうとして、かれこれ一分ほど逃げ回っているが、向こうもかなりの手練れか、常人とは思えない駿足で追いすがってくる。
(しまった──!)
直線の狭い通路の先に、追っ手の一群が現れた。回り込まれたのだ。
素足を床に軋らせてターンする。が、引き返そうと思った矢先、後ろからも別の部隊が詰め駆けてきた。
挟み撃ちにされた──しかも逃げ場のない隘路で。
「こちらC班。Dエリア十五番通路で捕虜を追い込んだ。応援頼む」
隊員のひとりがインカムに呼びかける。銃口の群れが、じわじわと両側から迫ってくる。
もはや袋のネズミ。身を縮めるように凰鵡はその場に片膝を突いた。
「凰鵡くん……」
朱璃も身を強張らせて、いっそうきつくしがみついてくる。
やるしかない。凰鵡は奥歯を噛み締め、一方の隊を見据えた。
消えろ──と、思い切って念を飛ばす。意志を相手に伝え、意のままにする。それが真の不動の気。その力で、自分はさっきもミリアンを消し飛ばした。
だが、今度は何も起こらない。包囲が狭まる。
(やらないと……やるんだ……!)
強く自分に言い聞かせ、殺意をひねり出す。それでも無理だった。
消したくない──こんな時でさえ、心のどこかではそう思ってしまう。人を消す……殺すという、その行為自体がどうしても怖いのだ。
怒りに我を忘れでもしない限り、自分には出来ない。そのことを、凰鵡は思い知らされた。
ヒュゥッ! ──とつぜん、軽快な口笛が通路に響きわたった。
場違いなその音色に、全員の意識が一瞬、停滞する。
「……ッ?!」
一条の光が、凰鵡と朱璃の頭上を駆け抜けた。
狭い通路とはいえ、その横幅を埋めるほどの、太いレーザービームだ。
兄の気弾か──と思ったが、そうではなかった。
「ひ……」
光が消えるや、朱璃が顔を引き攣らせた。
追跡者達の体がつぎつぎに崩れ落ちた。誰もが胸から上を失っていた。
凰鵡には信じられなかった──威力もさりながら、その射手が彼《、》であるという事実に愕然とする。
「こっちだ!」
通路の奥から手招きする大鳥翔。逆の手には、彼の父親の腕だった異形の大型銃が握られていた。その得物で、彼は確かにいま、何の躊躇いもなく──警告すらなく──生身のヒトを撃ち抜いたのだ。
*
──時を、数十分前に戻す。
「顕醒さん!」
地下から戻った顕醒達を、廊下で呼び止めた者がいた。
「頼む! 俺も連れていってくれ!」
翔だった。
「きみ……まさか、聞いていたのかい?」
イルマが眉根を顰めて訝る。
「申し訳ありません。彼には知る権利があると判断して、僕が教えました」
巍狼が豊かな後ろ髪から一枚の符を取り出した。描かれている呪紋の力は〝聴覚の共有〟。本来は二枚ひと組の呪符であり、巍狼はその片割れをラウンジで翔に渡していた。
「やれやれ、これはまた……いや、ダメだ」
イルマが首を横に振る。
「突入するのは顕醒とボクで充分だ。キミの出る幕じゃない。それくらい自分でも判っているだろう?」
翔が瞼を細める。容赦ない言われようだが、正論には違いない。悔しさを堪えているのが巍狼には手に取るように分かる。
「紫籐さんのことは残念だったけれど……いや、だからこそ、ボクらに任せて──」
イルマの説得が途切れた。
大鳥翔が膝を折り、手を突き、頭を下げていた。
「翔さん……ッ」
巍狼はたまらず駆け寄って抱き起こそうとする。だが、翔は根を下ろしたかのようにビクともしない。
「後生だ……お願いします」
床に落とされるその声音には、何の感情も見えなかった。それだけ押し殺されているのだ。
数秒の沈黙が流れた。
イルマがフゥッと溜息を吐き、腕を掲げる。香りで眠らせる気か──巍狼は奥歯を噛みつつも、仕方がないと諦めた。もとはといえば情に揺り動かされて自分が撒いた種であるが、翔がこうまで思い切ってくるとは予想外だった。彼自身の安全を考えれば、イルマの強行手段はむしろ救いにすら思える。
だが、イルマの腕は止められた。
その手首を、顕醒が掴んでいた。
「け……ッ!」
半端に開いたまま唇が制止する。気を流され、発言を封じられたらしい。
「副支部長、管理課に連絡を願います──〝大鳥翔専用銃を中庭へ持ってくるように〟と」
顕醒からの要請に、巍狼は即座に反応できなかった。彼は何を考えているのだ。
「私の権限と判断において、翔を作戦に同行させます」




