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敍之節 參 『取』


     Side Ormu


 ──時間を、顕醒が別荘の跡地に着いた直後へと戻す。

 暗い部屋のなか、布一枚ごしの朱璃の胸を、凰鵡は頬で感じていた。

 パジャマ代わりにと貸した自分のTシャツ。息をするたび、嗅ぎ馴れた柔軟剤の匂いでは誤魔化せないほどの彼女の芳香が鼻孔を貫き、心臓を叩いて、頭を朦朧とさせる。

 どうして、こうなったのだろう。家に行きたいと言われて、断れずに肯いていた。

 師や維以外の誰かを家に入れるのは初めてだ。あまり掃除できていない自室を見られるのが恥ずかしかったが、好きな女の子が家のなかにいるという状況には、なんとなく誇らしさも感じた。

 それでも──正真正銘のふたりきりになってさえ──特別なことは何もなかった。テレビを見ながら一緒に夕飯を作ったり、ゲームをしたり、外では口に出来ない互いの任務や衆のこと、そして他人のことについて延々と話し合った。

 ただし、凰鵡が翔のことに触れるたび、朱璃は目に見えるほど素っ気ない返事で、話題を別のものへと移した。

 朱璃も翔を避けているのか。そう思うと、凰鵡の胸はますます苦しくなった。

 自分の知らないうちに、ふたりは仲違いしたのだろうか。だとしたら……それは、あまりにも悲しくて、寂しいことだ。

 ──朱璃さん、翔と何かあったの?

 真実を確かめたい一方で、それを問い糾すのも怖い。遠慮や怯えを抱えながら、凰鵡は朱璃に合わせるしかなかった。乞われるまま一緒にシャワーを浴び、譲ろうとしたベッドにも引き込まれ……今こうして、彼女の体を真っ向から感じさせられている。

 それでも、ふたりはまだ一線を超えていない。

 キスもした。裸も見せ合った。だがその先は駄目だと、凰鵡の心は超然たるブレーキを掛ける。そんな凰鵡を察しているのか、朱璃のほうも無理に踏み込んでは来なかった。

 セックスは、してみたいと思う。思春期の若者としてはまったく平凡で、かつ強烈な欲求だ。まして朱璃とは相思相愛を確かめ合った仲である。そんな相手の体を前にして肉欲を押し留めるには、それと同等か、より強力な欲求や感情に根差した理性を抱いていなければならない。理性もまた、欲と情の発露なのである。

 畢竟ひっきょう、凰鵡が肉欲を制していられるのは、それに相反する強い欲求と感情を、ふたつも抱えているからだった。

 ひとつは兄、顕醒への憧れである。だが、かつてのような心を引き裂く恋慕ではない。純然たる敬慕だ。ことに《気》の真実を知らされてから、それはますます強くなっていた。

 あのストイックさと鉄の精神こそ〝兄に有って自分に無いもの〟、不動を極めるのに不可欠な要素なのだ。そう確信するようになっていた。

これには、凰鵡自身の変化が大きく関わっていた。気分の波が、以前よりも激しくなっているのだ。月経によるものではない。オメガと融合したためだ。兄と零子にも相談したが、同じことを言われた。

 オメガから受け継いだのは霊力だけではなかった。記憶や、そこに紐付けられた感情、形成されていた人格をも、凰鵡は吸収していた。アイデンティティの混乱こそ起きなかったものの、精神は少なからぬ影響を受けた。

 オメガの気性は、あの時の凰鵡から見ても、不安定で激しやすいものだった。それが不運な出自によるものと知れば一概に責めことは出来ないが、それでも不安定な心と強大な力の取り合わせが結果として甚大な被害をもたらし、多くの命を奪ってしまったのは変えようのない事実だ。凰鵡自身も天風鳴夜の奸計に掛かってラムダを葬ってしまった。あの惨事を繰り返すわけにはいかない──オメガに「自分が守る」と誓ったうえでも。

 だからこそ、いま自分に必要なのは強い自制心なのだ。兄とて維と交際を始めたのは不動を極めたあとのことである。まだ未熟な自分には、朱璃の好意を受け入れはしても、情に耽っている暇などないのだ。

 そして顕醒に並んでもうひとり、凰鵡の心を捉えて放さない人物がいる。

 大鳥翔である。ここで自分が朱璃を抱いてしまえば、今でさえ危うい三人の関係が、取り返しのつかないものになってしまうのではないか。そのことが、凰鵡にはたまらなく恐ろしい。

 友を失うことへの恐怖──それが凰鵡を思いとどまらせるふたつめの激情なのだ。

朱璃との愛情や肉欲は、友情を振り切ってまで手にする必要があるのだろうか。顕醒を求めていた頃からは信じられない考え方だが、初恋が散ったからこそ身についた思慮深さであり、それは成長の証だと言えなくもない。

 だが「朱璃を得れば翔を失う」という理屈の根幹に、ある誤解が横たわっていることに凰鵡は気付いていなかった。


「まだ翔くんのこと、考えてるの?」


 とつぜん睫毛を揺らしてきた朱璃の声に、凰鵡の胸はひときわビクンと震える。こっちの心を読んだのだろうか。


「……どうしたらいいか、わからない」


 動揺で言葉が震える。弱気になっているのが自分でも分かる。


「翔くんに直接訊くしか、ないんじゃないかな?」


 そんなことは、もうやっている。朱璃が思っているほど、自分と翔の距離は遠くはない……はずだ。


「気のせいだ、って言われる。いつも……」

「じゃぁやっぱりそうなんだよ──」

「──そんなことないッ」


 なかば叫ぶように朱璃を遮ってしまった。


「だって翔……最近、ボクのほうを見てくれない。お風呂だって、一緒に入ってくれないんだよ?」


 惜しげもなく、所謂〝裸の付き合い〟の話を口にする。生理中こそ避けるものの、翔とともに支部の浴場に入ることは凰鵡にとって〝男らしさ〟を示し、アイデンティティの一部を立脚させるための大事な要素だった。

 だがここ一ヶ月、凰鵡が誘っても翔は理由を付けてさり気なく断る、ということが続いていた。トレーニング直後でさえ、汗を洗い流すことさえなく家に帰ってしまう。一度ならば違和感も覚えまいが、二度三度と続けば不安にもなる。拒否されていると感じるのは当然のことだ。


「ひょっとして、翔……ボク達のことに気付いてるんじゃないかな。それで……」


 図らずも、その点において凰鵡と朱璃の見解は一致していた。

翔は気付いている──だが、そこに連なる第二の前提には、大きすぎる齟齬が生じていた。


「ボク、あのとき朱璃さんに好きって言ってもらえて、すごく嬉しかったし、いまでも大好きだよ。けど……それで翔を傷つけちゃったんだ」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ。だって──」


 自責に囚われた心に、他人の諭しは侫言ねいげんでしかない。


「──翔も、朱璃さんのことが好きなんだよ」


 それが凰鵡の根底にある誤謬だった。

本人に確かめたわけではないが、そう仮定すれば、すべてに説明がついてしまう。

 想い人を奪ってしまった。花脊はなせ由希ゆき金花かばなけい──ただの失恋よりもずっと悍ましい痛みを味わってきた翔の心に、自分はみっつ目の傷を刻み込もうとしているのだ。


「違うよ。私と翔くんは本当に、ただの友達。翔くんはずっと──」


 慌てて、朱璃は真実を告げようとする。

 だが、その言葉も凰鵡の耳には届かなかった──こんどは精神的な障壁でなく、物理的な妨害によって。


「──朱璃さん動かないで!」


 凰鵡はベッドから跳ね起きた。その手のなかに倶利伽羅竜王が出現する。

 竜頭が光刃を吐き、闇から振り下ろされた短い木刀を受け止めて、切り裂いた。


「ちっ」


 襲撃者は舌打ちをして天井へと跳びあがり、そのまま逆さに張り付いた。

 ラバースーツのような戦闘服の女だった。凰鵡には知る由もないが、数日前、鳴夜やセレネとともに何処かの暗室にいたひとりである。

 だが、それとは別の理由で、凰鵡は彼女を知っていた。


(この人……漸遠ぜのん!)


 面識はない。それだけの名うて(、、、)ということだ。

 《三世さんぜ大観流だいかんりゅう漸遠ぜのん》──闇から闇へと受け継がれる暗殺忍術を極めた妖種ハンターである。

 その漸遠がなぜ──どこから──どうやって──

 いくつもの疑問が意識を駆け巡るが、問いただす暇は与えられなかった。


「いやぁッ!」


 寒気のような〝流れ〟を感じた瞬間、ベッドから悲鳴が上がった。

 巨大な肉塊でできた蜘蛛のような怪物が朱璃にのしかかり、その肢足のなかに彼女を閉じ込めていた。


「朱璃さ──?!」


 剣を薙ぎ払おうとして、凰鵡は動きを止めてしまった。

肉塊の頂点に、ヒトの顔があった。

 それは、山房で兄が「姉さん」と呼んだ、あの少女の顔だった。


「あうッ!」


 困惑と逡巡のうちに、凰鵡の体はベッドからぐんと遠ざかって、壁に叩き付けられた。

 漸遠の手が首に掛かっていた。呼吸が止まり、視界が収縮する。

 暗転しそうになる意識を奮い立たせ、凰鵡は握りしめた剣を腰元から突き上げる。

 が、それよりも一瞬早く、手首を掴まれていた。

 膝が来る──そう感じて、可能な限り胴体を捻る。


「ぉあッ?!」


 来たのは顔面への頭突きだった。意識にフラッシュが走り、コンマの遅れで鈍痛が鼻に広がる。

 空いた左手で反撃しようとすれば、体を振られて拳が逸れる。蹴り込もうとすれば膝でブロックされ、そのまま腹を蹴り返される。首に掛かったままの腕を狙っても、その一瞬だけ外されて、すぐにまた摑みなおされる。防戦とすら呼べぬ一方的な劣勢だった。


(強い……!)


 流れを読む力がまるで通用しない。抗うたびに打つ手が無くなってゆく。その絶望感に、戦意はどんどん蝕まれてゆく。

 これが三世大観流か──その力を、凰鵡は噂でしか聞いたことがなかった。

 優れた忍術の一派というだけではない。その継承者全員が《未来視》を会得しているという。なかでも、いずれ頭目の座を継ぐと言われる筆頭実力者こそが、今まさに相対している漸遠なのだ。

 結局、三〇秒と経たずに凰鵡は抵抗する気力を失い、壁に磔にされた。震えの止まらない足はかろうじて爪先立ちを許されている。喉も依然として押さえられたままだ。気を抜くと首吊りになる。


「凰鵡くん! 凰鵡くん──!」


 朱璃の叫び声が遠い。


「なんで……?」


 息をするのもやっとの喉から、かろうじて問いを吐いた。


「殺しはせん──少なくとも今はな。一緒に来てもらう」


 よかった……と安堵してしまう。自分も朱璃も、また命を繋いでいられる。今はただ、相手の言葉を信じて、従うほかにない。

 頭上に〝流れ〟を感じた。

 天井から落ちてくる二体目の肉塊。バックリと開かれた口の奥に広がる無窮の闇が、凰鵡を呑み込んだ。



     Side Yui & Ilma



 ひとけのない真夜中の裏通りを、藐都イルマとふたりきりで歩く。そんな日が来ようとは思っても見なかった。しかも彼の妻、香音を捜して。


「匂いはここで途切れてる」


 イルマが足を止めた。住宅街のなか、公園と疏水に挟まれた小道。一見すると開けているが、植樹の枝葉が左右に繁っていて、遠目には遮蔽物が多い。

 案外と、昼でも人通りは少ないのかもしれない。もし、ここで人が突然消えたとしたら、その事実に誰が気付けるだろう……この界隈にいると、こういう都会の死角が日々、気になる。


「……妙な名残があるわね」


 維は目を閉じて痕跡を探る。


「争った感じじゃないわ。オバケとかの霊障でもなさそう。異空間への《扉》の跡に近い。偶発的に開いたのに呑み込まれたか、それを操る妖種に引き込まれた」

「くそッ、どうりで僕には判らないはずだ」


 溜息交じりにイルマが首を振る。嗅覚に関しては右に出るものがない一方で、霊感や直感は鈍い。そのため、物理を離れた現象である異空間に対しては力が及ばない。種族の特性ゆえの限界だった。


「開き直せるかい?」

「ゴメンだけどアタシじゃ無理ね。応援を呼ぶわ。最近ヒマだし、香音さんのことだったら男連中がメチャクチャ集まりそう」

「それはそれは。旦那としては嬉しい悲鳴だね」


 光明が見えたためか、ふたりの口調に、いつもの軽さが少し甦る。

 だが維が尻ポケットからスマートフォンを取り出した瞬間、それは闇から飛来した何かによって真っぷたつになった。

 咄嗟に硬化した維の掌で止まったのは、赤黒い刃だった。


(やば──!)


 まんまと不意打ちされたことに気付いた瞬間、刃は形を崩し、幾本にも分裂して維の全身に絡みついた。


「ちッ!」


 即座に手首の捻りで手刀を走らせ、異形の縄を断ちに掛かる。

 切れた。だが断面は即座に再接続されて、さらには手全体を包み込んでくる。


「ラハ=ラトか?!」


 襲撃者の正体を悟ったイルマが縄の一ヶ所を鷲づかみにする。

 じゅ、と焼けるような音が立ち、縄全体が震えた。イルマの掌から発せられる妖香が相手の組織を急速に蝕んでゆく。


「後ろ!」


 維が叫ぶより早く、イルマも匂いで察して、身をひるがえしていた。

 その小脇を、二本目の刃が駆け抜ける。

 サーベルを握るのは、漆黒の装束で全身を覆い隠した長身の怪人である。

 イルマの予測は当たっていた。妖種にして用心棒──《命脈無き血嵐のラハ=ラト》。その出自は謎に包まれているが、実体は〝生きた血液〟だと言われている。「命脈無き」と呼ばれるのは、みずからの肉体であるはずの血液を自在に操って武器とし、またどんな攻撃にも耐えうる不死性を持っているとされるからだ。

 げんに維を捕らえる縄も、イルマを狙った刃も、すべて黒衣の袖や裾から伸びていた。本体から枝分かれした肉体の一部なのだ。

そして、仮面の裏から伸びた枝が、もう一本────


(しまった?!)


 いまの一撃がフェイントだと悟った直後には、イルマの呼吸は止まっていた。

 四方八方から伸びてきた血色の鎗が、美妖の身体を蜂の巣にした。


「イルマ──」


 維の呼び声は、真上から落ちてきた巨大な肉塊によって覆い隠された。



     Side Shitou & Shou



 木々がトンネルを造る荒れ地の坂を一キロほども登った先に、角張った灰色の建物が浮かび上がった。

 灯りはない。ひと気もない。風化を待つ骸のように、くたびれた体を、ただ闇と静寂のなかに横たえている。何千何万とある、捨ておかれた一時代の遺構だ。


「ここ?」

「ああ……」 


 夜陰のなか、叔父と甥が言葉を交わす。

 依頼人の話では、妖種達の失踪が相次いでいるのはこの近辺でのこと。地域を聞かされた瞬間から、紫籐の脳裏には、目の前の廃屋が思い浮かんでいた。

 かつては〝癲狂院てんきょういん〟と呼ばれていた類の施設だ。それも現代の価値観からすればかなり悪質な部類で、開業当時には患者に対する日常的な暴力や、新治療と称した無認可の施術が、なかば公然と行われていたという記録が残っている。物証はないが、病院の体を装った旧帝国軍部の人体実験場だったのではないかとすら言われている。

 取り壊そうにも、来るまでの道がすでに封鎖されてしまい、今さら重機を入れることも出来ないというわけだ。紫籐達の車も、はるか下方の峠道に留めたままである。

 先んじて資料集めと周辺の散策を行っていたために、日はすっかり落ちきっている。この暗さに一抹の不安を感じつつも、紫籐は〝当たり〟を確信していた。常人には捉えられない陽炎のようなねじれ(、、、)が、扉を失った正面玄関から奥へと続いている。強い力の名残だ。


「おじさん、どうする?」


 甥の問いに、数秒、思案する。

 名残から邪念のようなものは感じられないが、闘者の応援を請うべきだろうか。 

 顕醒は不在、維は別命を遂行中。だが彼らだけが第一区の戦力ではない。非番の者も大勢いる。凰鵡もいまや主力の一角になりつつある。喚べばすぐに駆けつけてくれるだろう。だが結局、紫籐は己のなかの要請案を却下した。


「行こう。私から離れるな」


 妖種の関与を示す確証を掴むのは自分達に課せられた仕事だ。名残や不安を感じた都度に闘者を喚ぶようなら、衆に情報員がいる意味はない。

 その一員としての責任と覚悟は、言葉ではなく行動で示してゆかねばならない──後ろにいる未来の後継者に対して。

 甥が追従してくるのを背中で感じつつ、紫籐は廃屋に近づき、玄関をくぐった。

 落ち葉、土埃、ガラス片、そこかしこの部屋から引きずり出されてきた機材、明らかに外部から投棄された電化製品などの粗大ゴミ、大小の猥雑な殴り書き、壁や調度品の裂傷に殴打痕。数十年に渡る放逐と侵入者達による狼藉。内部はまさにはらわた(、、、、)を喰い荒らされた屍のようだった。

 名残を辿って、さらに何枚かの扉を抜けつつ、奥へ、奥へと進む。やがて、錆と傷にまみれた重厚な二枚扉の前へと辿り着いた。閉ざされた扉に窓はなく、室内は窺い知れない。天井近くに掲げられた銘板には『処置室』の三文字がかろうじて残っている。

 紫籐は右手の指先で片側のノブに触れ、軽く引いた。ガタ……と鈍く囁いて、戸が止まる。錠が掛けられたままだ。


「ここだけ鍵?」


 翔が呟く。紫籐も同じ疑念を抱く。ここまでの荒らされようを鑑みれば、この扉だけが破られず置かれているのは、むしろ不自然である。

 開けてみるか。ジャケットの内側に手を入れる。呑み込んでいる拳銃……ではなく、所謂ピッキングツールを出すためだ。

 そのさなかに、何気なく甥と眼を合わせる。

 瞬間、状況は一変した。

 こちらを見る翔の瞳。そこに映りこんだ自分──その背後に現れた女の姿。

 そして紫籐は悟った────これは罠だ、と。


(翔!)


 女を視認してからの一秒にも満たない時間のなかで、紫籐は思考をフル回転させる。

 ツールを出そうとした手首の向きを急転回させてホルスターに伸ばし、眼の力を解放する。

 《正中眼せいちゅうがん》──紫籐の双眸に宿る、必中の魔力を宿す邪眼だ。焦点を合わせた相手に向かって己から射出したものはすべて、物理法則に反してでも命中する──それが、たとえ鏡像であってもだ。

 ゆえに懐から発砲するだけで、甥の瞳に映る女を撃つことも出来た。

 だが、撃てなかった。紫籐にとってそれは甥に向けて撃つことと同義だった。もし引金を絞る瞬間に瞬きをされたら────

 銃把を放した手で、紫籐は翔を突き飛ばした。

 ドッ、と……重い衝撃がいくつも、胴体を貫いた。


「おじ……ッ?!」


 突き飛ばされた翔の目には、叔父の上半身から何本もの角が生えたように見えた。

 事実、生えてはいた──紫籐の背に抱きついた妖種の胸から。

 少女と見えた姿は崩れてぶよぶよの肉塊に変異し、顔面すら縦に割れて、紫籐の後頭部を咥え込んでいた。


(おじさん──ッ!!)


 叫ぶより先に、翔は懐から銃を抜く。

 その間にも、妖種は両手を紫籐の顔へと回し、「だーれだ」をするように、指を眼鏡の内側へ滑り込ませようとする。

 その手首を、紫籐は掴んで止める。力が入りきらない。胸が燃えるような苦痛を訴え、意識を奪おうとする。心臓へのひと突きこそ免れたが、肺がやられた。息が出来ない。

 くぐもった銃声が連続し、顔の周囲で衝撃波が走った。

 翔が妖種を撃ち抜いていた。見事な精密射撃だ。


(うっそだろ?!)


 困惑したのは撃った当人だった。六連射した弾丸はすべて、妖種の顔面と両腕を直撃した。装填している弾丸に籠められた呪力が、人智を超えた肉体をたしかに破砕した。

 が、被弾の衝撃で怯みこそすれど、銃痕は瞬きをする間に再生した。なんという強靭さか。


「くそがぁッ!」


 怒号を上げ、手首からボールペン型の暗器を出す。自分の拳銃は弾切れだ──〝親父の腕〟を持ってこなかった悔恨ごと、敵を斬り刻んでやるつもりだった。


「しょう! わたしのを取れ!」


 妖種に躍りかかろうとした翔を、血濡れの叫び声が止めた。

 ハッとして翔は目標を切り替え、叔父の懐に飛び込んだ。ジャケットの内側に手を滑り込ませ、ぬるりとした生暖かい液体に手を濡らしながら、ホルスターの銃を抜き取った。セイフティを外し、至近距離から妖種の左腕に三発見舞う。

 破壊と再生。動きは多少鈍ったようだが、敵は退かない。

 これでは、どうすればいい? 弱点はないのか? 逡巡と恐怖に動きを止めながらも、翔は感覚を総動員して活路を見出そうとする。


「わたしをやれ!」


 叔父が何を言ったのか、すぐに理解できなかった。


「眼だ! わたしの両眼を、潰せ!」


 真っ赤に染まる唇のあいだからさらに血を迸らせ、紫籐は声を張り上げる。


「──なんで?!」

「こいつの狙いは、わたしの眼だ……! 奪われれば、恐ろしいことになる……ッ、絶対に……渡すなァ」


 息が切れる。ただでさえ弱っている腕から、さらに力が失われてゆく。ありったけの気力をもって息を吸おうとしても、穿たれた胸に溜まってゆく血が酸素を滞らせる。

 撃て、翔──まともに喋れていたら、何度そう叫んでいるだろう。

 撃たせたくない。撃たれたいわけがない。それでも翔は、撃たねばならない。自分も撃たれねばならない──あの時の拓馬と同じように。


「おじさん……!」


 だというのに翔は躊躇っている。今にも泣き出さんばかりの表情で、唇と銃口を震わせている。

 出来ない──誰か助けてくれ──揺れる眼がそう叫んでいる。


(翔──ッ!!)


 崩れそうになる意識を、紫籐は双眸に注ぎ込んだ。

 銀光を帯びた瞳で、まっすぐに甥を見据える。最愛の存在を残して、すべてが消える。痛みも、恐怖も、余計な何もかもが、翔ひとりの彼方へと去る。

 閉ざされたその世界のなかで、紫籐は最後の吐息を振り絞った。


「甘ったれるな──ァ」


 本当ならば、こんな状況で届くはずのない虫の息だ。

 邪眼の力は、声にも乗るのだろうか。考えたこともない。だが、いま伝えねばならない。その一心で賭けた。


「これがお前の選んだ世界だ……拓馬に示した覚悟は、何処へ行った」


 翔が眼を見開く。瞳から、躊躇と恐怖が消えた。


(それでいい)


 ようやく紫籐は安堵し、力を解いた。

 妖種の手が右目を覆った。眼球と眼窩のすきまに入り込んだ五指が、ぐるりと、ヒトの手には有り得ない弧を描く。

 ぶつん──神経の断たれる音が聞こえた気がした。コンマの遅れで顔の右半分を激痛が支配する。それに反応することさえ、紫籐にはもう出来なかった。


「ぁあああ──ッ!!」


 甥の絶叫とともに、閃光が左眼に飛び込んでくる。世界が弾けて、頭の後ろへと駆け抜けた。

 ようやく妖種が紫籐を解放した。奪った片眼を口に入れ、荒れ果てた通路の奥へと跳び退ってゆく。


「──あああああ!」


 翔は吼え続けた。崩れ落ちる叔父を抱き留め、遠ざかる妖種へ何度も引金を絞った。

 だが、怒りで呪弾の威力が上がるはずもない。手足や胴体に被弾しつつも、意に介さぬとばかりに妖種は己の姿を闇に変え、その向こうへと消えていった。


「……しょ……」

「おじさん!」


 虚空に向けて殺意を注ぎつづける翔の意識を、紫籐のかぼそい声が引き戻した。


「しっかりして! いま医療班を呼ぶ!」


 叔父を床に横たえ、翔は端末を取り出す。

 が、発信する前に、その指を止めた。

 顔の前で、紫籐の手がさまよっていた。

 その瞬間に、翔はすべてを受け容れていた。

 銃も端末も床に置いて、叔父の手を取った。その掌を自分の頬に当てながら、彼の唇に耳を澄ませた。


「おま…ぁ……」


 どんなに集中しても、それは余喘と変わりがない。それでも、翔には分かった。


「ああ、大丈夫。オレは大丈夫だよ」


 そう答える甥へ、紫籐は微笑みを返す。

 ふたつの巌窟と化した両目──翔はそこに、いつもの叔父の優しい瞳を、たしかに見た気がした。


「あいしている……いきて…………」


 それが紫籐導星の、今生における最後の言葉となった。




 私室のベッドで、零子は跳ね起きた。

 突風に眠りを吹き飛ばされたような気分だった。

 両手で顔を覆い、眼球がちゃんとあるかを確認する。

見えているにもかかわらず、そうしてしまうほどの虚無感が眼窩に拡がっていた。


(みちさん──!)


 予感に突き動かされるままサイドボードの端末を取り、凄まじい速度で文面を打つ。

 『緊急 紫籐導星と大鳥翔の所在地を支給確認、保護してください』

 誤字を直すこともなく支部の全メンバーに一斉送信した。大混乱が起こるかもしれないが、構わなかった。

 端末を握りしめ、ただひたすらに祈りながら、零子は結末を待った。



     Side ???



 赤い絨毯敷きの部屋だった。

 その片隅に、闇の渦と、青銀色の輝きが湧いた。闇はドレス姿の幼女へ、光はラフな格好の青年へと、それぞれ姿を変えた。


「なん……なのよアイツッ、どうやって……!」


 セレネはその場に膝を突き、激しく噎せた。顕醒の念によるダメージが、まだ体を駆け巡っていた。

 そんな彼女を無視して青年は部屋を通り抜け、壁付けのコンソールパネルに指を着けた。上部のモニターに、こことは違う一室の様子が映し出される。


「向こうも成功か。へぇ、みんな可愛いじゃん」


 画面のなかでは、三人ぶんの人影がベッドに横たわっていた。


「このポニテの子、とくにいいな。決めた。あの子もーらい──ッて」


 恥ずかしげもなく欲望を垂れ流す喉元に、何処からか現れた漸遠の手刀が添えられる。


「はは、やきもち? うぐ」


 手刀が指を広げて、頸を鷲掴んだ。


「捕獲対象の私物化はルール違反だ。ミリアン」


 落ち着いた語調とは裏腹に、漸遠の眼と声音はメスのように鋭い。


「ちょ……こっちはあの顕醒とやり合ったんだ。ボーナス強請ねだってもバチは当たらないだろ?」


 顔を歪めつつ青年──ミリアン──も負けじと言い返す。

 ふたりの背後ではラハ=ラトがセレネを抱き上げ、ソファへと運んでいた。


「だいたい、どいつもこいつもカッコつけ過ぎだっての。アンタらと違って、オレは隠れ家と報酬が目当てでここにいるんだ。若い子とやり放題って聞いてたのに、おんなじ顔のバケモンばっかじゃ飽きも来るって。なんならアンタが相手してくれるか──ぐええギブ、ギブ……ッ」


 漸遠の指がミリアンの減らず口をむりやり終息させた。


「喧嘩はおやめなさい」


 と、部屋に入ってきた《室長》の声で、漸遠は手を放した。ミリアンも舌打ちしつつ後退る。


「ミリアン、あなたへの追加報酬についてはしっかり検討するわ。今は抑えてちょうだい。セレネもお疲れさま。みんなのお陰で、最高の素材が手に入ったわ──片方は破壊されてしまったけれど」


 《室長》は誇らしげに、自身の背後を手でしめした。

 顕醒が《姉》と呼んだ女が、彼女に従っていた。《室長》に指されたのを合図にしたかのように、でろん、と長い舌を出す。

 その先端には、ひとつの眼球が植わっていた。


「第一段階は完了よ。それじゃあ、次のフェイズへ進みましょう」


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