敍之節 貳 『胎』
Side Yui
いつか、この男を思いきり甘えさせてみたい──とは、つねづね願っていたことだ。その想いに嘘偽りはない。
だが、その時がこんなにも唐突に訪れるとは、考えてもみなかった。
出発まで一時間の猶予を取り、顕醒は宿泊室のひとつを借りて自分を呼んだ。
てっきり留守中の動きに関するブリーフィングをやるのだとばかり思っていた。あの書状が罠なら、向こうの狙いは顕醒本人でなく、手薄になった支部ということもあり得る。
無論、それを理解したうえで維は行くよう促した。そうした以上、留守を預かるための段取りもすべきだと理解していた。
それがまさか、いきなりのハグとは──あまりにも強くて、気を抜いたらへし折られてしまうかと思うほどの。
言葉は、なかった。
どうしたの──その問いが喉まで上がって、止まった。
どうもこうもない。いつのも自分と同じだ。ただ、はじめて立場が逆転しただけで…………
今度の事件で何かが変わる、と維は確信した。顕醒もそれを感じているのかもしれない。
「鬼」と呼ばれた戦闘マシーンが、ただの男に戻ろうとしている。冷たいカーテンに覆われていた心が、いま自分を求めている。それは維が「いつか来る」と予想し、「いつか来い」と望んでいたことだ。
預けられた体重を全身全霊で受け止め、維は背中からベッドに落ちた。
(一時間しかないの……?)
最初はそう思った。
しかし蓋を開けてみれば、その一時間すら維には長かった。
「…………うッそぉ」
気が付くと、タオルケットを掛けられた自分ひとりがベッドに残されていた。
壁の時計に目をやる。ここへ入ってから三時間と数分が経っていた。二時間以上も気を失っていたことになる。
最後の記憶を辿れば、腹の奧から脊髄を伝って脳までが一直線に爆発したかのような衝撃が、ぼんやりと甦る。間違いなく人生で最大の一瞬だった。
起こしてくれなかった憤りよりも、最後まで付き合ってあげられなかったことと、見送れなかったことへの申し訳なさで胸がもやついた。
(顕醒、アンタ……)
何もかもが初めてのことばかりで、今さらながら、自分を抱いたのが本当に彼だったのかすら疑ってしまう。
だが、その疑念は新たな事態を前にして、しばし身を潜めることとなる。
そこから約一時間後、美妖・藐都イルマが第一区支部の門を潜った。
Side Syuri
「そうですか。兄さん、もう出られたんですね……」
零子と通話する凰鵡の声は少し暗い。顕醒の心配をしているというよりは、また彼の力になれなかったことを悔しく思っているのだろう。
顕醒が第一区を離れた……という報がたったいま全員に共有され、凰鵡には零子からじかに連絡が入った。しかも当人が出立したのは一時間も前のことだという。事情や目的地は明かされていない。
「帰りは……そうですか、分からないんですね。いえ、大丈夫です。ありがとうございます。朱璃さんにも、ボクから伝えておきますね」
そう言うと凰鵡は通話を切った。
途端に、朱璃の意識は静寂から喧騒へと引き戻される。
いつもの繁華街からは離れた場所にある、ショッピングモールのカフェである。
夕刻というには早いが、朱璃はすでに今日の業務を終えていた。支部長お墨付きの早退──つまり、やることがほとんどないのだ。紫籐の受けた依頼が大きな案件になるかはまだ判らない。降って湧いた自由時間。かねてからの研究を進めようかとも思ったが、結局、足は凰鵡へと向いた。
地下道場を訪ねてみれば、凰鵡は広間の中央にひとり佇み、掲げた両掌のあいだに《気》を練っていた。小さな綿菓子のように渦を巻く淡い光は、朱璃が以前から見知っている小石のような《気弾》とは、まったくの別もののように見えた。
事実、そうらしい。朱璃は詳しく聞かされていないが、今までの凰鵡は、顕醒によって意図的に《偽の練気》を教え込まれていたという。それを聞いたとき、朱璃にも腑に落ちるところはあった。顕醒や真嗚を見るかぎり《真の練気》とは、その気になれば人ひとり簡単に消してしまえる力なのだろう。
やがては凰鵡もその《真の練気》を使いこなすのだろうか。そう思うたび、想い人が自分から遠い何処かへと行ってしまいそうな不安に朱璃は駆られる。
道場の凰鵡は、己が生み出した光を見つめて微笑んでいた。あの笑みは果たして達成感ゆえのものなのか、それとも…………
「朱璃さん、どうしたの? 何かあった?」
気が付くと、凰鵡がこちらを見つめていた。
「ん……いや何もないよ」
心に渦巻く暗雲を言葉にできず、朱璃は誤魔化す。
「そう? なんか、翔みたいな顔してた」
チクリと胸を刺された気分だった。痛みを苦笑で覆い隠す。
「どんな顔それ?」
「んー、なんて言うか、心ここにあらず、って感じ」
ハズレだ。自分の心はここにないどころかいつも目の前にあって、懊悩も不安もそこを中心に回っている。最近では、その渦はさらに勢いを増している。
《オメガ事件》のさなかに想いを確かめあったものの、以降、自分達の関係に進展はない。せいぜい眼を合わせやすくなったくらいだ。今日も手を繋いですらいない。
もどかしい反面、仕方ないとも思う。だからせめて「せっかくふたりきりなのに」という苦言は禁句だ、と己に厳命している。
あのオメガを吸収したことで、凰鵡は今まで以上に大きな霊力を手に入れてしまった。意思や呪符であるていど抑え込むことは可能なようだが、それでもふとした瞬間に力が漏れ出てしまうらしく、彼が近づいただけで鋭敏な霊感能力者が〝霊気酔い〟を起こした場面には、朱璃もたびたび遭遇している。
真の気に、霊力の制御、凰鵡には学び直さねばならないことが山ほどある。気分転換も必要だろうと連れ出してみたが、果たして良かったのかどうか。
「凰鵡くんこそ、ぼんやりしてるけど、心配事?」
いまは顕醒のことが気になって仕方ないのだろう。朱璃もそうだ。彼自身のことは正直あまり好きになれないが、何が起こっているのかだけでも知りたいところだ。
だが凰鵡から返ってきたのは、まったく別の名だった。
「ねぇ……翔、大丈夫かな?」
先ほどチクリと刺さったものが、胸の奥にまで埋まった。
「大丈夫だって。心配しすぎたら翔くん怒るよ? 舐めんじゃねぇッて」
「うん。任務もだけど、最近ちょっと眼が怖くなったっていうか……なんか、距離を取られてる気がして」
それは朱璃も感じていた。彼の肩書きは依然として《情報員補佐》──つまり紫籐導星の助手だ。それでも危険度の低い実地調査や資料収集なら単独でこなせるようになった。一方で大学生という本業も疎かにはしていない。おまけに学内で霊障関連の相談を受けるなど、順調にコネやパイプを形成しているようだ。
そして支部に顔を出したと思えば、地下の射撃訓練場に通い詰めである。
学業と任務とトレーニング。この三者に身を捧げているぶん、必然的に、自分達と話す時間は減っていた。
「凰鵡くんが頑張ってるから、翔くんもちょっと必死になってるだけだよ。正メンバーになった責任も感じてるだろうし」
もっともらしい仮説を吐き出す、その胸が苦しい。
翔が訓練の鬼と化したのはこれが初めてではない。《チャクラメイト事件》直後の、訓練生になりたての頃──その時の彼は熱くてがむしゃらで、「凰鵡に追いつきたい」という目標が傍からまる見えで、そのために、どこか微笑ましくもあった。
いまの翔には、それがない。冷徹で孤独で、己をマシーンにしようとしているかのような狂気すら漂わせている。
表面上は快活に振る舞いながら、口数は減っていた。朱璃に対してはとくに顕著で、以前は気軽に話しかけてくれたのが、今では挨拶くらいしかしない。
「そうかな……そうだったら、いいんだけど……」
曖昧な凰鵡の返答で、ふたりの会話は沈黙に還る。まわりの雑音がチクチクと心を噛んでくる。
翔が変わったのは自分の──自分達の──せいだ。
彼の想いを知りながら、朱璃は凰鵡に愛を告げた。そのことを翔は知らない。だが気付いたのだろう──彼自身の鋭敏さによって。
気付いたがゆえに、翔は居づらさを感じて自分達から距離を置こうとしている。
かたや凰鵡はそんな翔の本心が見えず、〝親友〟の変化に途惑うしかない。
そして、自分は嫉妬している──平素はもっと他人に敏感な凰鵡の勘を鈍らせ、その心を停滞させている、翔という男に。
よく忘れそうになるが、凰鵡は女でもある。その一面が翔に惹かれて、結果、自分とのあいだで揺れている。朱璃の勘はそう言っていた。
「ねぇ、凰鵡くん」
──翔くんのこと、好きなの?
脳裏に浮かんだ問いは、結局、口からは出なかった。
そんなことを訊いて誰が救われる。凰鵡をさらに悩ませるだけだ。
自分と凰鵡──凰鵡と翔──翔と自分。三者の関係を壊さず、誰も傷けない答えへの方程式を、朱璃はついに見出せなかった。
「顕醒さん、留守なんだよね?」
それゆえに、ただ己が望む道を信じて征くこと以外に、すべがなかった。
「凰鵡くん家、行っていい?」
本気だったら諦めちゃ駄目──かつて維に言われたことを胸に。
Side Reiko
大鳥拓馬が生きていたら、この点と点は見えない線で繋がっている、と言っただろうか。
大きな嵐の気配を感じて、零子は亡き旧友に思いを馳せる。いつになく弱気になってしまうのは、自分がもう前ほど視ることが出来なくなってしまったからか。
「妻の行方が判らないんだ」
顔を包む覆面から漏れてくる声は、普段の彼からは想像しがたいほどに弱々しい。が、それが一種の儚げな色気を醸し出してもいる。人混みで囁かれていたら、周囲に発情者と失神者が続出しただろう。
「香音さんが?」
維が問うた。イルマの訪問が捜査依頼のためと分かった時点で、事務室に合流してもらったのだ。顕醒も紫籐も留守のなか、彼女が支部に留まってくれていたことは、零子にとっては僥倖だった。
「一昨日、薬の材料を買いに行ってくれて、その行きがけに姿を消したらしい。匂いは辿ったけれど、途中でぷっつりと途絶えてた……本当に、そこで消えたみたいに。なんの跡もなく……」
それだけで異常極まりない失踪だと察せられる。藐都香音は衆の元闘者だ。引退したとはいえ生半な輩に──それも痕跡すら残さず──誘拐されるような人ではない。ましてイルマの嗅覚は、たとえ相手が車に乗ろうと水に潜ろうと匂いを追跡できる。
考えられるのは、空間転移、他者からの物体転送、最悪の場合は蒸発(消滅という意味で)である。
「聞き込みもしたけれど。目撃者はなかった。僕では、これ以上は追えない。たのむ、力を貸して欲しい」
零子のなかに、紫籐が受けた依頼との類似性が浮かぶ。消えたのがヒトか妖種かの違いだけで、両者は根が同じなのではないか。それにしてもイルマ直々の聞き込みとは。香音の身も気掛かりだが、この色妖にものを訊ねられた相手が無事でいるかも心配になってしまう。
「いいわ。いいですよね、零子さん?」
零子が考えを巡らせているあいだに、維が応えた。
「ええ」
順番がチグハグになってしまったが、零子としても断るつもりはない。
「補佐は着けられますか? 凰鵡くんなど……」
「あの子には報せないでください。アタシとコイツでやります」
親指でイルマを指す。
「顕醒の代わりにしちゃ頼りないけど、いいわよね?」
「文句が言える立場じゃないさ。ありがたいよ」
「ありがたそうに聞こえないわよ、まったく」
少し前からは考えられない取り合わせだ。もともと維は藐都夫妻を嫌悪していた。だが《チャクラメイト事件》以降、協力を重ねるうちに遺恨は氷塊したようだ。ことに香音とは、《呪殺事件》のさなかに仇敵を倒すための秘技を教わったことから、ある種の師弟関係を築いている。彼女を捜し出すためなら、ふたりは良いコンビになるだろう。その点において零子に心配はない。
だが凰鵡には報せないという判断……イルマの性質を鑑みれば妥当ではある。顕醒をめぐる複雑な人間関係になるべく触れさせまいとする維の心情も汲める。だが、それが吉と出るか凶と出るか……
Side Weilan & Others
高速道路の足場が聳える山間の夜陰をいくつもの影が疾駆してゆく。速さは頭上の自動車に匹敵する一方で、ガソリンエンジンの唸りに比べれば、彼らの走行音は無に等しい。
先行するのは不抜の源。そのあとを、一列になった桔梗が追う。隊長のハウザーは殿を務め、そのひとつ前ではエコーが巍狼を背負っていた。
彼らの向かう先は第一区支部。さらには天奉、孤月、日谷間の三人が別働隊として、その支部を発った顕醒を目指して動いていた。
総勢十人。うち四人が斗七山、ふたりが智七山、残りも桔梗の精鋭闘者という大戦力である。
その目的はただひとつ、〝顕醒の死〟を回避することだ。
「近いうちに顕醒は死なねばならない」──オメガ事件の直後に不動翁・真嗚が発した予言が、すべてのはじまりだった。長老座のなかにはこれを謀言とする意見もあったが、ほどなくして巍狼がとある夢を視た事実が報告されるや、彼ら懐疑派も〝顕醒に何かが起こる〟ことを確信せざるを得なくなった。
暗黒のなかで眠る《鬼》──巍狼が視たのは、ただそれだけの夢である。だが、顕醒の過去を知る者達にとっては、それで充分だった。
予言の成就を阻止するための作戦は、顕醒本人にも悟られぬよう長老内で慎重に練られ、衆統ないし、いずれかの支部長からの『《鬼》が動いた』の一報をもって発動するよう定められた。おおかたの予想通り、その狼煙は第一区支部長・麻霧零子によって上げられたのである。
惜しむらくは、謎の書状によって顕醒が遠地に呼び出されたがために、想定していた援軍を二手に別けねばならなかったことと、維の実兄、《万濤破山の顗》の参加が叶わなかったことである。
《オメガ事件》では左腕を失いながらも奮闘してみせた彼だったが、予後は思わしくなく、現在は療養を余儀なくされている。また片腕の欠損による戦闘力の低下も避けられず、もともと末席だったこともあって斗七山からの降格という憂き目に見舞われてもいた。それでも顕醒の危機と聞けば、無理を押してでも駆けつけたであろう。そのため、この作戦は顕醒のみならず、彼にもまた堅く秘匿されているのだった。
しかし、真に痛恨の事態は、今これから起ころうとしていた。
たとえ顗が加わっていよういまいと、長老座の思惑も、掻き集められた戦力も、すべてはあるひとりの存在によって灰燼に帰することとなる。
がしゃん──金属の打ち合う響きが、巍狼達、全員を包み込んだ。
「──?!」
何が起こったのか、誰ひとりとして、すぐには理解できなかった。
高速道路の橋架が消えた。風も絶えた。木々も山も、夜空すら失せた。
「ここは──?!」
誰が叫んだかなど些末なことだった。
世界は一面の砂地に変わっていた。
「止まれ! 全員いるか?!」
先頭の源が号令し、振り向むく。視認するかぎり後続に欠員はない──それどころか、チームは明らかに頭数を増やしていた。
角と尾を持つ女、背の高い巫女装束風の老女、そしてシャツとヴェストで正装した老紳士の三人が加わっていた。遙か遠方で顕醒を目指していたはずの天奉、孤月、日谷間達だ。
「源? 巍狼? アンタら、なんで──!?」
「天奉さん?!」
「婆様にマスターまで……どうなってる?」
互いのグループをみとめた一同に混乱が広がる。
「みんないったん落ち着こう」
マスターこと日谷間が穏やかに場を収めた。
「まず、ここは何処……いや、何なんだ?」
見渡せど見渡せど砂しかない。かといって砂丘や砂漠でもない。
そもそも、地球上にこんな場所は有り得ない──前後も、左右も、上を見上げても、黄金色の茫漠たる大地しかない。
異空間だとしても、その象徴たる妖色の空すら見えない。
例えるなら、そこは直径数キロもの巨大な〝球の内面〟だった。
だが、どういう原理で重力が足下にあるのか。空もないのに光源はどこから射しているのか。
「時空間が、内側に閉ざされている……?!」
エコーから降りた巍狼のつぶやきに、全員の視線が集中する。
だが、誰かがその意味を訊ねるより先に────
「散れ!」
天奉が叫んだ。
「みんなごめんよ!」
さらに日谷間が謝るや、見えない力が巍狼達の体を四方八方へと吹き飛ばした。
直後、ドンッと、それまで巍狼達のいた場所に何かが落下し、砂柱を昇らせた。吹き飛んでいなければ、確実に誰かがそいつの直撃を受けただろう。
だが十人に安堵する暇はなかった。着弾の衝撃波に乗って、驚愕と戦慄が全員を貫いていた──それでいて、心のどこかでは「やはり」と納得してもいた。
この謎の空間に放り込まれる直前、あの音──打ち合う遊環──を耳にしたときから、誰もが予感していた。
舞い散る砂塵のなか、その音の主はゆっくりと立ち上がった。
そして巍狼達は身をもって知ることとなる──衆最強の闘者たる顕醒を完封した怪僧、雲水の力を────
Side Kensei
常人の眼には一寸先も判らぬ闇夜の山野だった。
粘つくような重く冷たい空気と、生い茂る緑を掻き分けるように、顕醒は坂を登った。
標高は一〇〇〇メートルを超えている。高地ゆえに寒冷で泉源も豊富であることから、夏も冬も観光地として人気の高い地域である。中心部には温泉街があり、その周辺にはペンションや貸しコテージが点在している。ひと昔前に比べればめっきり減ってしまったが、個人が所有する別荘もまだいくらか残っている。
顕醒が目指しているのは、その何処でもない。足はアスファルトの路面を離れて久しい。もともと未舗装だった道はいまや草木に生息域を奪還されて、山に還りつつある。
坂を登りきると、広い草原に出た。緑と土と風、そして虫の音のほかには何もない。
二〇数年前、そこには一軒のコテージがあった。都市部に住んでいた、とある四人家族の別荘だった。両親と姉弟。子供達の夏休みと冬休みのあいだには、一週間ほど都会から離れてここで過ごすのが彼らの慣例だった。
だが、避暑に訪れていたある夏の日の夜、悲劇が彼らを呑み込んだ。
熊の侵入と襲撃──だれひとり助からなかった。子供までが犠牲となったこの未曾有の獣害に近隣のみならず全国が一時騒然となったものの、ほどなくして当該獣の駆除に成功したという旨が報道されたことで事態は終息した。現場となった別荘も取り壊され、悲劇は人々のなかから急速に薄れていった。
家族になにがあったのか。その真相を知る者はいない。
顕醒は足を止めた。
前方の木立のなかに女がいた。山房に現れ、顕醒が《姉》と呼んだ女である。
夏でも肌寒い夜山のなかを、一糸纏わぬ裸身が幽魂のようにゆらゆらと左右に揺れながら歩み寄ってくる。
徐々に近づいてくる《姉》の姿を、顕醒は黙って見つめていた。
そして、手を伸ばせば触れるかという目前まで来たときだった。
閃光が辺りを包みこんだ。
その青銀の輝きは一瞬にして、ある種の硬質な幾何学模様となり、巨大な球形の檻を形成して、ふたりを外界から隔絶した。
球の内面──大きさと情景が違うだけで、それは巍狼達が閉じ込められた謎の異空間と同じものだった。
「あははは! 掛かった掛かった!」
《姉》が哄笑した。
だが動いているのは口だけで、表情に変化はない。まるで腹話術人形だ。
「お姉さんの裸に見蕩れちゃった? じゃ、それあげる! 永遠に抱いてていいわよ! きゃははッ!」
顕醒には知る由もなかったが、その嘲り声は、維に手紙を渡した幼女のものだった。
「死に土産に教えてやるわ! アタシはセレネ。あの時お前が殺しそこねたアグイよ! 思い出した? 後悔してるでしょ。してるわよね! 言ってやるわ──バッカじゃないの? ははは──あぐ……ぁ!」
とつぜん幼女の声が悶えた。
顕醒の手が、《姉》の頭を鷲づかみにしていた。
「うそ、なにを……お前…………!」
混乱しつつも、顕醒が何かをしたことには気付いたらしい。
真実を言えば正解である。《姉》はこの空間の外側から術者の声を反映する一種の受信機だった。顕醒はその受信機から、逆に念を送り返して、セレネの精神を撃ってみせたのだ。
「クソバケモノがッ! どっちにしたって、お前はそこから出られない。そのまま死ぬのよ! お前のお仲間も殺す──絶対に! 死ね!!」
セレネの怒号を合図に、《姉》の身体が闇一色に染まる。山房で姿を消したときと同じだった。
と思えた瞬間、闇は光へと転じて霧散した。顕醒の気による焼滅だった。
はたして偽物だったのか、異形と化した本人だったのか……顕醒は《姉》の輝ける遺灰を掌から体内へと吸収した。
そして、逆の手で二本指を立てた剣印を結び、虚空を真一文字に切り払う。
「唵────」
静かな一喝とともに、世界が割れた。
青銀の空間は破片となって散乱し、溶けるように大気へと消えてゆく。
露を含んだ青草が、顕醒の足下を呑む。もとの別荘地跡に戻ったのだ。
だが、山は夜の帳を薄めていた。
見上げれば、白みを帯びた雲を背景に、一羽の鳶が舞っている。
顕醒は懐からスマートフォンを取り出し、画面を点した。
電波によって世界と繋がった時計は、朝と言ってもよい時刻を報せていた。
Side Weilan and Others
李巍狼は噎せ返った。
砂塵のせいではない。雲水から発せられた闘志だ。熱波と寒波──見えない炎と吹雪を一緒くたにぶつけられたかのようだった。激烈なヒートショックで全身の臓器が痙攣する。
「ウェイ、ウチの後ろから動くな!」
孤月が巍狼の前へ出て、次々に印を切る。波が左右に裂けて流れ、ようやく巍狼はまともに息を継げた。
「来る! 備えろ!」
天奉が口にするまでもなく、全員が身構える。
「ブラボー以下、四人は孤月老師と巍狼をガード!」
ハウザーの号令で桔梗隊員もふたりの周囲に集結し、念の壁を張る。
「婆様達は脱出孔を──!」
源も叫んだが、言い終えるより早く、頬に裏拳を喰らっていた。
がつん、と硬い衝突音が響き、風が弾けた。
が、怪僧の拳はそこで止まった。源が止めたのだ。流派《金剛》の神通力、肉体の硬化である。
(人をゴング扱いすんじゃねぇ──!)
源はすかさず雲水の腕を掴みながら跳び上がる。流れるような身のこなしで覆面の頸に脚を絡め、空中で腕ひしぎ逆十字を極めた。
当然、手足は硬化したままだ。神通力を発現させながらの組み付きと関節極め、それは《不抜の源》にしか成しえない絶技だ。
一見無敵に思える金剛の神通力だが、〝発現中は柔軟性が失われる〟という弱点がある。そのため使い手のほとんどは手足を鈍器や刃物として使うような〝当て身〟を多用する。
源はこの弱点を完全に克服していた。彼が手足を絡めたとき、それは振りほどくことも弛めることも出来ない金剛の大縄と化すのだ。
「砕ッ!!」
さらに、極めた雲水の肘へと、己のそれを撃ち込む。
柔軟かつ堅牢な関節技に加えて超鋼の一撃──彼が育て上げた何十人という弟子はおろか、変幻自在の妖種のなかにすら、これを破れた者はいない。
例外は三人──斗七山の上位者たる顕醒、真嗚、天奉。
そして今日、そこに四人目が加わった。
落とした肘鉄が、怪僧の表皮で止まっていた。
金剛とは別の力──なにか見えない膜のようなものを感じ取った瞬間、それは源の腕のなかへと一挙に流れ込んできた。
「うおッ?!」
反射的に自分から極めを解き、相手を蹴りながら距離を取った。
源と入れ違いで、ヴン、とハム音のようなノイズが怪僧へ肉薄する。
天奉である。蜃気楼のような揺らぎがその全身を包んでいた。
「すぃやぁ!」
裂帛の震脚。その瞬間、揺らぎは両脚に集束する。
足下の大地が、発破でも掛けたかのように爆散した。
立ち昇る砂柱を貫いて、鋭い蹴りが雲水の肋を撃つ。
異様なことに、それらは無音だった。砂の爆発……キックの衝撃……まるで効果音を付け忘れた映画のように、ふたりの周囲だけが静寂のままだ。
だが、消えた音はすべて、天奉の脚から雲水へと注ぎ込まれていた。
側頭部の角を振動させて音を操る。それが天奉の秘技だった。彼女の角は耳殻であると同時に、高低自在の音波を発生させる第二の声帯であり、集束器でもある。この角によって生み出された(あるいは集められた)音波は彼女自身の肉体で増幅され、攻防一体の武具となる。ことに《震波撃》と呼ばれる体術の威力は凄まじく、指のひと突きで大岩をも砕けるほどだ。
音とは空気の振動である。ヒトであれ妖種であれ、その肉体が物体である以上、天奉の攻撃を喰らえば内部から破砕される。逃れるすべはない──源のような剛柔の不破を極めた神通力か、不動のような変幻自在の気でも用いない限りは。
「ぬぅ──?!」
手応えを得た瞬間、光と爆音が炸裂した。
吹き飛ばされたのは天奉のほうだった。
無傷で着地したものの、その瞬間にはもう雲水が肉薄していた。
迎撃が追いつかず、咄嗟にガードの姿勢で備える。
──と思いきや、雲水は一時停止ボタンでも押されたかのように、ピタリと動きを止めた。
「離れといてよぉ!」
どこか緊張感のない叫び声を耳にするや、天奉はさらに後ろへと跳んだ。
「ハウザー! 力貸してちょうだいな!」
叫んだのは日谷間だった。剣印に結んだ指を額に当て、十数メートルも離れた場所から怪僧の動きを念で封じていた。
「イェス、マスター!」
さらにハウザーが日谷間の後ろに並び、大きな両手をヴェストの肩に置いた。
ふたりの念が渾然一体となって、雲水に対し鎌首をもたげる。
「喝──!」
日谷間の号呼に乗って、破壊の念波が標的を撃つ。怪僧を中心に、直径五メートルの空間が爆縮し、砂粒ほどの点と化す。
念動圧壊──字のごとく、念動力によって相手を周囲もろとも圧縮する荒業だ。
温和さとは裏腹な、衆最高の超能力闘者。それが《千里討・日谷間》である。先だって全員を四方へ吹き飛ばし、雲水の直撃から避難させたのも彼だった。
そして今の一撃は、同じ念動力者たるハウザーも加勢しての連携。源や天奉を退けた雲水とてひとたまりもあるまいと思えたが────
「なんとォ?!」
爆縮したはずの空間が一挙に弾けた。閃光が世界を呑み、熱風が大地を凪ぎ払った。砂嵐が全員を襲い、視界を奪う。
「あぶない!」
突然、ハウザーが日谷間を脇へと押しのけた。
厚い胸板に掌が叩き込まれ、巨躯が砂塵を貫いて滑空した。
驚異的な反射で両足から着地してみせるハウザーだったが、思い出したかのように息を吐くや、片膝をついた。
雲水の、たった一発の掌打である。念動の障壁を破ったばかりか、衆きっての鋼の巨体に膝をつかせる強打だった。
無論、ハウザーも金剛の神通力で肉体を硬化させていた。だが怪僧の攻撃は、それすらも貫いてきた。顗や維が手も足も出なかったわけだと、まさに骨身に染みて思い知る。
「すまない。立てるかい?」
そばへと退いてきた日谷間が肩に手を置く。
咳き込みつつ、ハウザーは「|問題ない《It's noting》」と応えた。
「あれが雲水か」
天奉と源も、ふたりに合流した。
「不動どもの虚言ではなかったわけだ」
「おいテメェ、それだとオレの弟子らもグルだったってかよ?」
源が天奉の発言に食ってかかる。
「連中にいたく懇ろなのではな──とくに妹のほうは」
「んだァ? 干物女のやっかみか?」
「アア?」
刃のような眼で天奉は源を睨む。
「はいはい、ふたりとも。敵はあっち」
日谷間のひと言で内乱の危機は鎮まった。だが、それで安堵など出来ようはずもない。
斗七山の四人──そして彼らを見守る巍狼達──の視線の先では、いまだ垂れ込める砂塵の向こうから、怪僧がゆっくりと迫り来るのだった。




