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敍之節 壹 『女』


     Side Ormu



 風の強い朝だった。

荒波のようにざわめく木々の轟音で凰鵡が目を覚ましたとき、空はまだ白みきってもいなかった。

 静かにベッドを抜けて、寝間着のまま山房を出た。

 風上に体を向け、木立の合間から襲いくる強風へと、掌を掲げる。

 みずからの目の前に〝壁〟の存在を念じてみる。

 すると、気流が裂けた。凰鵡の左右を通り過ぎて背後へと流れる。見えない壁が風を防いでいる。

 たしかな手応えに、凰鵡はフッと微笑んでみる。


「ぅわッ!」


 途端に、つむじを巻いて飛んできた枯葉がピシリ、と顔に張り付いた。


(ボク、ほんと格好つかないや……)


 少し油断すればこのざまだ。誰かに見られなくて良かった。

 ──手遅れだった。小屋に戻ろうと振り向けば、兄、顕醒の姿がそこにあった。


「あッ、おはようございます」


 驚きと照れを誤魔化すように、深々と頭を下げた。

 顕醒も、無言で頭礼を返す。

 ふたりが山房に滞在して三日目の朝だった。目的は《不動》の奥技、《練気》の集中鍛錬である。そのため、いつもなら付いてきそうな維はいない。房も管理人の常駐していない場所を借りていた。

 支部から任務の別令があれば山を下りねばならないが、今のところそれはなかった。ここ一ヶ月ほど、闘者を要するような大きな事件は滅多に起こっていない。

 珍しいことだ、と闘者としては年期の浅い凰鵡でも思う。時節や環境、世情などが合致して一週間ほど怪異の発生件数が激減する、ということは年に一・二度あるものの、それにつけても今度のは長い。《衆》の首脳部である《長老座》のほうでは先の《オメガ事件》との関連を有力視しているが、確固たる結論は出ていない。

 平和なのはいいことだ。だが、これはむしろ嵐の前の静けさなのではないか。そんな不安を誰しもが抱えていた。


「──?!」


 とつぜん、凰鵡の意識に警報が鳴った。山房の結界が反応していた。なにか良からぬものが周囲に入り込んだのだ。


(でも、どういう……ッ!)


 焦躁が心を駆けぬける。結界は侵入者の存在しか伝えてこない──本来なら位置も、数も、瞬時に判るはずだというのに。こんなことは初めてだった。

 バシン──と、乾いた衝突音で凰鵡は振り向いた。

 兄の手が、真っ赤な縄を捕らえていた。

 縄ではなかった。剥き出しの筋肉を無理やり引き延ばしたかのようだった。しかも拳から逃れようとしてか、全身を必死にバタつかせている。

 触手か、巨大な線虫状の妖種か──はたしてその根元は、杳として知れなかった。

空間を塗りつぶしたかのような闇から伸びていたのだ。


「やむなくヒトを襲うのならよしを聞く。人語は解せるか?」


 闇に向かって顕醒が問う。答えは返ってこない。

触手が灼け、闇が震える──兄が気を這わせたのだと凰鵡には判った。

 揺さぶりをかけられた襲撃者が身を捻らせ、姿を変えた。

 凰鵡は目を瞠り、頬を引き攣らせた。

 一糸まとわぬ女だった。灼け残った触手の根は、その臍から出ていた。

 顔に覚えはないが、ヒトでないことは明らかだ。翔の高校に潜入していた凶悪な個体、邪願塔事件の不死の女達──これまでさんざん苦戦させられてきた女型の妖種の記憶に、凰鵡の胆は凍てつく。

 だが、正体を現したかと思いきや、その女の妖種はすぐさま不定形の闇へと姿を戻し、虚空に吸い込まれるかのように消え去った。あとには数秒前と変わらぬ風景が戻り、結界の警報すら何事も無かったかのように静まりかえる。


「なんだ……ったんでしょう、兄さん?」


 相手の正体と目的を測りかねて、凰鵡は惑うままに兄を仰ぎ見る。


(……兄さん?)


 はじめて見る兄の表情に、凰鵡は時を忘れた。

 弟以上の驚愕を顔面に湛えて、顕醒は妖種がいた一点を凝視していた。

やがて、その口から弱々しく発せられた言葉に、凰鵡の胸は〝不安〟という言葉では足りぬ、たとえようのない禍々しい予感で震えた。


「…………姉さん」



     Side Shitou



「お姉様が?」


顕醒の言葉に零子は眼を円く見開き、紫籐は反対に細めた。

 凰鵡と一週間の山籠もりに向かったはずが三日で帰ってきたと思いきや、その口から告げられた報せに、ふたりは驚きを隠しきれない。ここに朱璃もいたら、彼女はどんな顔をしただろう。


「現れたのは、お姉様だけだったのですね?」


 零子が念を押すように問い、顕醒は「はい」と短くうなづく。

 伏せられた彼の瞼の奥に、紫籐は押し殺された焦躁を見た気がした。


「……わかりました。本件に関する、あなたの単独捜査を許可します」


 そう告げる前の数秒の沈黙は、零子にとって逡巡ではなく、罪悪感を噛み締める時間だったのだろう。紫籐とて似たような思いだ。


「もし、私に出来ることがあれば、どうかお手伝いさせてください」

「私もだ。顕醒」紫籐も言葉を重ねた「これまで何の情報も得られなかったのは我々の落ち度だ。すまない。今さらかもしれないが、協力させて欲しい」


 瞑目し、頭を下げた。事件を直接担当していたわけではないが、支部のなかでも最高位の情報員として忸怩じくじたる思いを抱えているのは事実だ。


「どうかお気になさらず。お心遣い感謝します」


 顕醒も頭を下げ返す。それが彼の本心か否か、声音からでは量れなかった。

 そして結論から述べると、紫籐の意気もむなしく、彼が顕醒の捜査に貢献する機会は、最後までやってこなかった。

 この場のやりとりから間もなく、探偵としての彼のもとに、ひとつの依頼が舞い込んできたのである。



     Side Shou



 呼吸を止め、視線の先の一点に意識を集中する。ここだ、と思う間もなく、ただ〝そう感じた〟瞬間には、右手の人差し指が、自分とは別の生き物のように、トリガーを絞る。

 爆音と反動で、翔は我に返る。

 百メートル先で、直径十センチのターゲットボードが粉々になった。

 支部の地下二階にある射撃場。その一角の狙撃用ブースである。先のオメガ事件ののちに情報部の正メンバーへと昇格してから一ヶ月半、拳銃以外の火器の扱いにもずいぶんと慣れた。

 とはいえ実践の機会はまだない。情報部では任務の性質上、拳銃を超える火器を用いることはまずない。重火器を必要とする事態があっても、それ専門の闘者が派遣されるのが常だ。

 自分がこんなことをしても無駄かもしれない。それでも翔は一心にターゲットボードと対峙する。

それは照準への逃避だった。目標を注視し、イヤーマフごしの銃声と反動を浴び、銃口の彼方から返ってくる手応えに包まれている瞬間にだけは、あらゆる不安や憂いが、別の世界のことのように感じられる──そして、それらの余韻が消えるたびに、翔は現実に引き戻されるのだ。

 第二射──目標を逸れた。ポケットのスマートフォンがメッセージを着信して震えていた。


『翔、下にいるの?』


 画面を開いてみれば、案の定、凰鵡からである。


『ああ』


 たった二文字の応答。それを送信するのに数秒、躊躇った。


『ボクもいま食堂にいる。一緒にお昼しない?』


 そこでようやく翔は首を捻った。凰鵡は山籠もりに行ったはず。戻るのは四日後の予定だ。急な任務でも受けたのだろうか。それにしては文面に緊張感がない。


『すぐ上がる』


 先刻の倍以上の時間をかけて返事を打った。



     Side Yui



 昼盛りの大路沿いを、テクテクと徒歩で支部に向かう。駿足の技《雲脚》すら使わない。

 うだるような猛暑が続いていた。暦では秋、という言い方はもう時代遅れかもしれない。「外出を控えろ」との官報はまったくその通りで、車の往来はともかく、駅や商店街が近いというのに歩道は閑散としている。本日の最高気温を叩き出すこんな昼盛りに日傘も持たず、わざわざ直射日光を喰らいながら歩いている人間なぞ、世界広しといえども自分くらいではないか、とすら考えてしまう。


(妖種らも熱中症でくたばってンのかしら?)


 任務の帰り道だったが、内容は簡単な調査だった。報告も現地からの電話で済んだ。控えの案件はなし。表社会に争乱は絶えねども、オメガ事件以降のこの界隈の平穏ぶりには、失業の危機すら感じてしまう。 

 「普段が忙しすぎるだけですよ。平和なのは良いことです」

 零子はそう言うが、不謹慎ながら、維にとって平穏は暇でもある。おまけに愛しの顕醒は凰鵡を連れて山籠もり。時間を持て余し過ぎていて、この猛暑と闘いでもしなければ気が狂いそうになる(そんな気を起こしている時点で手遅れかもしれないが)。

 とりあえず支部の風呂で汗を流し、遅めの昼食にありつき、朱璃も暇そうならふたりで遊びに出よう──そんなことを考えていた時だった。


「もし」


 ふと、背後からの声に維は振り向き、そして表情を強張らせた。


(こはる──?)


 《呪殺事件》で犠牲になった、自分の異父妹であり姪……と思ったが、それはアスファルトから立ちのぼる陽炎が見せた幻影だったらしい。

 幼女という点だけは同じだった。歳の頃と背格好も似ている。だが雰囲気は大きく異なっていた。

 フリルを何層にも重ねたゴシックロリータ風の豪奢なワンピースドレスに、揃いの意匠の帽子。鍔の下からこちらを覗う表情と佇まいには、服装に相応しい(だが歳不相応な)気品が感じられる──いまの掛け声からして古風にも「もし」である。


「アタシ?」

「ええ、お手間で恐縮だけれど、届け物を頼めて?」


 幼女はフッと微笑み、一封の茶封筒を差し出した。

 宛名は『衆 顕醒殿』。


「わかった……つッ?!」


 封書を受け取るや、幾重もの鋸で挽かれたかのようなノイズが意識に走った。

 一瞬の苦痛が消えたとき、差出人の姿はどこにもなかった。


(なに、いまの?)


 こはると初めて逢ったときに似ているが、あれよりずっと異質だ。

 手に残された顕醒宛の茶封筒──年端もゆかぬ幼児がそれを渡してきたことに、維は今のいままで、なんの違和感も覚えなかったのだ。



     Side Shou



 予想はしていたが、いざ食堂に辿り着くと翔の胸は痛む。


「あ、翔! ここ!」


 ボックス席のひとつから、屈託ない笑顔で凰鵡が手を振る。

 その隣には朱璃もいる。

 それでも翔はいつもどおり「よっ」と片手を上げて挨拶し返し、向かいのシートに腰を下ろした。目の前にはすでに、水の入ったコップが置かれている。


「もう注文した?」

「まだ。翔はどうする?」

サバ味噌A定食」

「はやッ」

「ここ来るまでに考えてた?」

「まぁな。お前らは決まってねぇのかよ」

「私は鶏釜飯」

「え、待って待ってボクはァ……」


 さらに一分ほど悩み抜いた末に、凰鵡はチーズハンバーグセットを選んだ。


「……にしても早かったな。なんかあったのか?」


 テーブルの端末から厨房へ注文を送り、翔は問うた。早かったというのは無論、凰鵡が品を決めた速度ではない。


「うん。さっき朱璃さんにも話したんだけどね……」


 ことの顛末を聞いて、翔は眉を上げた。あの顕醒に姉……彼をよく知っているわけではないので、いても不思議ではないが、それでも少し意外だった。

 しかし、凰鵡達を襲ったのが本人だったとは思えない。少女のような外見だったのなら、いまの顕醒と歳が合わない。妖種の擬態だったとしたら──翔にとって何より忌まわしい存在が、どうしても頭にちらつく。


「顕醒さん、家族は妖種に殺されたんだよな?」 


 食前にもかかわらずハッキリと言い放つ翔に、朱璃がやや眉を顰める。


「そう聞いてるけど、ホントはよく分かんないンだ」

「わからない?」

「その事件のファイルね」朱璃が小声で応えた「レベルAの制限事項なの」

「それって珍しいことなのか?」

「メンバーの個人情報に触れる資料には何かしらセキュリティがかけられてるけど……レベルAなんて支部長クラスのは……」


 言葉尻を淀ませて朱璃は首を振る。加えて言うには、顕醒はこの件に関する単独での捜査権を得て、現在は資料室に籠もっているのだとか。


「オマチドーサマ」


 議論とも言えぬ議論をしているあいだに、ドラム缶のような配膳ロボットが各自の膳を運んできた。


「いただきます」


 めいめいに箸をつけ始める。

 翔の胸の奥に、焼きごてを押されるような痛みが湧いた。

 テーブルのうえに張られた見えない壁。あるいはテレビ画面を見ているような隔絶。その向こうは凰鵡と朱璃の世界だ。自分の前であるがゆえに控えめだが、それでも互いの距離、視線、仕草が、いちいち翔の心を焦がす。

 来なければよかったと、思った。

 机に置いていたスマートフォンがまた震えた。今度は叔父からの通話着信だった。


「今どこだ?」

「食堂。どしたの?」

「下に降りたら、もう上がったと言われたのでな。依頼が来ている。これから相談場所に向かうが、食事中なら少し待つよ」

「ああごめん、五分で行くよ」

「無理に急かなくていい。ゆっくり食べるんだぞ」

「もう終わるとこだって。ていうか叔父さんメシは?」

「先だって済ませた。駐車場で合流しよう」


 通話を閉じるや、翔は米飯を鯖味噌の鉢へと放りこみ、味噌雑炊にして豪快にかき込みはじめた。


「任務?」


 行儀の悪い食べ方に眉をしかめつつ、朱璃が訊ねる。

 息を継ぎながら翔は無言で肯く。鯖味噌A定食は早くも半分以上が消えていた。


「気を付けてね」

「大丈夫、オレの食道はタフだから」

「任務のほうだよ。なんか、やな予感がする」


 そうだろうか、と翔は考えてみる。とくに何も感じない。顕醒のこともあって、凰鵡のほうが心配性になっているだけだろう。

 相槌を打つこともなく、翔は雑炊を平らげた。小鉢の冷奴を水物のように腹へと流し込み、香物をまとめて口に放り込む。


「ごちそうさま」


 ちょうど回ってきたロボットに空の膳を預け、翔は席を発った。



     Side Yui & Reiko



「お姉さんが?」


 奇しくも零子と同じ驚き方をする維であった。場所も事務室である。

 先の封書の宛先が遠くにいる以上、まず零子に報告すべきと考えて、急ぎ支部に戻ったところ、とうの顕醒も山房から戻っていたのである。その早い帰還のわけを聞かされての、いまの反応であった。


「顕醒さん、お心当たりは?」


 零子が訊ねた。維をメッセンジャーにした幼女のことである。

 顕醒は静かにかぶりを振る。そして維から受け取った茶封筒の封を切った。

 経緯を鑑みれば用心に欠ける行為だ。術や仕掛けが施されていても不思議ではない。だが、何も起こらなかった。なかに納められていたのも、三つ折りにされたコピー用紙が一枚きりである。

 その紙面を開いた顕醒の眉間に、深い皺が刻まれる。


「なんと?」


 ふたたび問うてくる零子へと書状を手渡して、顕醒は低く唸るように溜息を吐き、腕を組んだ。

 こんどは零子と、横から覗き込んだ維が、眉を顰める番だった。

 『鬼の分際で、はらからが恋しいか』

 細筆による、迷いのない流麗な筆致。だが維にはその一線一線が、研ぎ澄まされた幾本もの刃に思えた。

 そして文は続ける。

 『姉に会いたくば、ここへ来い』

 最後に、東経と北緯による座標が添えられていた。


「顕醒さん、この場所は……」


 零子が顔を上げて顕醒を正面から見つめる。顕醒も肯いた。どうやらふたりには座標値だけでそこがどこか判るらしい。


「どこなの、ここ?」

「維さん、その少女と相対したとき、たしかに違和感や気配を覚えなかったのですね?」


 顕醒に問う維を遮るように、零子が問いを被せてきた。


「はい。いま思うとおかしいくらいに、警戒してなかったです」

「失礼します」


 零子がスッと呪灰じゅかいのレンズをずらした。寸時、裸の霊眼が維を視て、書状へと移り、ふたたび眼鏡の裏に隠れた。


「《アグイ》ですね」


 ぞ……ッ、と維の背筋が粟立った。

 その種族の名は知っている。ただし資料の上でのみ、だ。

 アグイは相手の心を〝透かし視る力〟──透心を持つ妖種だ。いわゆる《サトリ》の変異種であるとされているが、本種と大きく異なるのは、ヒトの意思や感情を自在に〝書き換える力〟《覆心ふくしん》をも有していることだ。アグイに狙われた獲物は、その精神を徐々に蝕まれ、食い潰されながら、最後には魂のない操り人形と化してしまう。

 この恐るべき能力から、アグイは《サイコイーター》という名でも呼ばれていた。

 いた……というのは、彼らは絶滅してしまったからだ。


「生き残りがいたの? でもアンタのお姉さんのこと、なんで知ってて……?」


 維には分からないことだらけである。


「どうされますか?」


 零子の問いに、顕醒は即答しなかった。瞑目し、黙りこくったままだ。

 迷っているのだ。普段なら逡巡など決して見せない、この男が…………

 そう感じた途端、維は顕醒の腕に触れ、やんわりと告げていた。


「行ってきなさいよ」


 顕醒が瞼を開いた。相変わらず感情の読めない瞳で、まっすぐに見つめ返してくる。


「ずっと探してたんでしょ。ちょっと勝手やったって、誰も怒んないわよ」


 もし怒る者がいても自分が黙らせる……と付け加えたかったが、零子の手前とあって自重する。


(ちょっとオトナになっちゃったかな、アタシ)


 と、内心で自嘲もしてみる。


「こっちは大丈夫よ。アタシだって凰鵡だって、前よりずっと強くなってんだから」

「顕醒さん。不安でしたら、情報員を偵察に向かわせましょうか?」

「それには及びません」


 維の手に触れ、顕醒は組んでいた腕を解いた。


「一時間後に発ちます。部屋をひとつ、お借りしてもよろしいでしょうか?」

「お好きな部屋の鍵を持っていってください。どうか……お気を付けて」

「助かります。維」

「ん。わかった」


     *


 顕醒と維が退室してから数秒後、零子は机の電話機から通話を架けた。


「麻霧です。カテゴリーBエマージェンシー発令。非常招集権に従って、諸師の協力を要請します」


 落ち着いているようでいて、そのじつ、半句の聞き逃しも許さぬとばかりに、ビシリと鞭を打つような語調だった。


「《衆統しゅうとう》にお伝えください────《鬼》が動きました」



     Side Shitou



「仲間が、何人も姿を消しているのだ」


 喫茶店のボックス席。向かいに座った青年は、探偵と助手への挨拶もそこそこに本題に入った。堅い口調が、話し言葉に不馴れであることを感じさせる。

 私立探偵としての顔を持つ紫籐だが、特定の事務所は設けていない。マンションの一室を借りて、ささやかに看板を出していた時期もあったが、いまでは〝界隈〟からの紹介でのみ依頼を受け付けている。クライアントと合う場所もその都度変える。

 界隈というのは、霊能者や寺社といった対妖の関係者のみならず、文明社会に潜む妖種らのコミュニティをも含む。怪異や霊障に悩むヒトよりも、ヒトをはじめ別種とのトラブルに見舞われた妖種が依頼者になることのほうが多いくらいだ。

 今回もそのケースか……と、紫籐は青年を見た瞬間に察した。ジャケットにスラックスというありふれた格好で、容姿も目立つほうではない。ヒトのなかに紛れるには申し分ないが、自分程度の感覚の持ち主からなら、気配でそれと分かる。化ける巧みさでは中の上といったところだ。


「仲間というのは、同族の方々ですか?」

「様々だ。同族も異種族もいる。しかし全員、アンタ達が言うところの妖種というやつだ」


 依頼者が述べるには、彼はヒトの社会に紛れるのが苦手で、山中や廃墟を転々とする日々を送っていた。彼以外にもそうした流浪の妖種はいくらかいて、何人かとは顔見知りであったり、時には行動をともにしてきた。その彼らが最近、相次いで姿を消しているのだという。

 昨今の妖種事件の減少と、なにか関連があるのか──紫籐の脳裏にはまずその疑問がよぎる。

 依頼者のような漂泊型の妖種は、その流動性の高さゆえに、どこの組織でも個体数を把握しきれていない。そして妖種というのは元来、弱肉強食の気質が強い。ヒトの気付かぬところで生存のための狩り合いが行われ、ふとしたきっかけで、ある種の大量消滅が起こることもある。


「そういうのではない。消えたところを見た奴はいないし、戦った跡も、喰われた跡もないのだ」


 紫籐が抗争の可能性を指摘すると、依頼者はそう反論した。


「ヒトの社会とは関わらないようにして来られたということですが、なぜ今回、私に依頼をなさったのです? 妖種のみで構成された捜査機関もありますし、そちらの方が、あなた方の状況にも理解が深いのでは?」

「いくつか当たった。しかし駄目だった。そいつらも消えてしまった。そのうち、アンタを紹介された。腕はいいと言われたし、それに前の連中が駄目だったのは、アンタらの言う妖種だったからかもしれない」


 一応、筋は通っている。だが衆と同盟関係にある妖種組織から「エージェントが失踪した」という話は聞いていない。これまでどの機関や妖種に依頼したか訊いてみると、案の定、未提携のコミュニティだった。これは情報の取得に苦労しそうだ。


「頼む。報酬ならなんとかする。《シュウ》でこき使ってもらってもいい。明日どうなるかも分からなくてビクビクしてるよりはマシだ」


 平素はヒトを避けながら、困ったときにはヒトを利用する。虫のいい話に聞こえるが、その行為をネガティブに捉える認識は彼らにない。ほとんどの妖種にとって、命の目的とはただ生きながらえることそのものであり、その手段に貴賤はない。ある意味では、生物としてまったく正しい姿勢だ。

 紫籐は隣の助手に視線を送る。翔は黙して事態を見守っているようだが、その面差しからは何の感情も見て取れない。

 オメガ事件が終わった頃から、こういう顔をするようになった。それは恐らく、正メンバーとしての責任感からでも、幾多の死線をくぐり抜けて肝が座ったからでもない。

 そんな甥から眼を逸らし、紫籐は依頼者に応えた。


「わかりました。その事件の調査を承ります」



     Side ???



 見事な滝だった。瀑布と呼べるほど大きくはない。幅はこじんまりとして、高さも十メートル程度だ。

 見事というのは、その美しさである。落ちる水の一条ひとすじから一滴にいたるまでが淀みなく、流星雨のように降り注いでは、崖下に寝そべる大岩に弾けて雫の花となる。

 しかし、その滝が世人の眼に触れることはない。剣呑に過ぎる渓谷の奥深くにあって原生林に囲まれ、周囲には獣道すら通っていない。仮に、よほどの酔狂か迷い人が辿り着けたとしても、ここの記憶を外界に持ち帰ることは叶わない。ここは彼女(、、)の、大事な棲処すみかのひとつなのだから。

 女は魚のように池を泳ぎ抜けて、大岩へと登った。大自然のなかで、落水を一身に浴びる。

柔らかさよりも堅牢さを強く感じさせる肉体は一糸たりとも纏っていない。しかし、その胸や下腹部は鍛え抜かれた筋肉よりも硬質な鱗に覆われていた。

 さらに、耳のあるべき側頭部からは二本の角が、腰からは太く長い尾が生えている。

 その容姿から、女は《龍人》と呼ばれ、知る者のあいだでは《美龍びりゅう》と称される。

 対妖組織《衆》闘者・大師範(グランドマスター)、並びに《斗七山》第三位、《美龍・天奉(てんほう)》。それが女の肩書きと名前である。


「……!」


 不意に、その天奉の指が背後へ水滴を弾いた。

 バキリ──と、数十メートル先で木の枝が直撃を受け、折れた。恐るべきことに、水滴はライフル弾さながらの威力をもって、そこまで一直線に飛んだのだ。


「待てや待てや、うちやて」


 紛うことなき水鉄砲からコンマ数秒で逃れた覗き人──否、客人まろうどが、柔毛を揺らめかせつつ水辺に現れる。

 十六本もの尾を持つ、大きな銀狐であった。


孤月こげつ殿であったか。無礼を許されい」


 詫言わびごととは裏腹に「ふふ」と不敵な微笑みを浮かべつつ、天奉はふりむき、裸体を狐に曝してみせる。


「ええねんで。うちも急いた」


 銀孤は後脚ですっくと立ち上がる。その背筋が垂直になろうころには、巫女のような装束の老婆へと姿を変えていた。

 ほう、と吐息のような相槌を漏らし、天奉は岩場から跳んだ。

 宙に水滴を散らす体から、ヴン……と、ハム音のようなノイズが上がり、すぐに消えた。

 岸辺に舞い降り、低木に掛けておいた衣を取る。袖口へと通した腕にも、髪にも、行水の跡は一滴も残っていなかった。


「貴殿が急かれるとはよほど。委細は?」

「第一区支部から、B型非常招集要請」


 天奉から笑みが消えた。《非常招集》は各支部の長に認められた権限のひとつであり、《B型》あるいは《カテゴリーB》とは「支部ないし衆存続に関わる事態」を意味する。大師範クラスの天奉が呼ばれるに相応しい重大事である。

 ただ、斗七山最強と謳われる顕醒を擁していることもあって、麻霧零子がこの手の非常権限を行使したことは今まで一度もなかった。あの雲水が出現したときですら、である。


「よもや……?」

「《鬼》が動いたらしい」


 孤月の緊張が天奉に伝播したように、ふたりは揃って眼を細めた。


     *


 窓ひとつない屋内プールのような空間だった。ただ、水面は身じろぎひとつしない。気泡のない氷床か、分厚いアクリル板のようにすら見えてしまうほどの完全ななぎだ。

 その中央に女が浮かんでいた。女……とはいえ、ヒトの形をしているのは顔と胴体だけで、腕や下半身はヒレ状である。全体的なシルエットはクリオネに似ていなくもない。


「スイカちゃんよぉ」


 妖女の足下──水面下──から声が昇ってくる。


「出来たら、しもも女人に化けてくれんかなぁ」

「ひどいセクハラ。眼と声も閉じ込めちゃいましょうか、おじいちゃん?」


 妖女スイカは視線を下げることもなく、微笑みを浮かべる。


「うへ、そいつァ勘弁」


 不動翁・真嗚は舌を出して肩をすくめた。それでも、水は揺るがない。

 真嗚の肉体は水底にあって、まるで映像のように奥行きがなかった。


「ずいぶんと楽しそうですな」


 スーツ姿の男が部屋に現れ、上から声を投げかけた。外見は平凡ながら、彼の名を知る者はその非凡さをも知る《衆統しゅうとう霊祇りょうぎ》である。


ごうに入りゃぁ郷ですさべ、よ。これで煙がめて、美味い飯も出りゃぁ、何日でもいてやらぁ」

「あいにくと本部は全館禁煙ですが、後者は善処いたしましょう」

「おりょ、意外と優しいんじゃな。どういう風の吹き回しだい?」

「麻霧支部長より入電がありまして──」


 もとから淡々とした霊祇の口調に、静電気のような鋭さが混じる。


「《鬼》が動きました」


 スイカが静かに息を呑み、真嗚は逆にフゥと小さく吐く。


「あなたの予言が何を根拠にしているかは今なお不明瞭です。ゆえに我々は尽くせる限りの最善を尽くすほかありません。全力で阻止します」

「ヌシらが守ると? あやつを〝鬼〟と呼び、零子ちゃんの足下に縛り付けたヌシらが?」

「十五年以上も前の話です。かつては問題児でも、今の彼はふたりと得難い人材です」

「その評は、あやつに直に言ってやって欲しいもんじゃな」

「伝えますよ──この件が無事に終われば」

「無駄じゃ」


 冷徹な不動翁の態度に、霊祇もスイカも眉根を顰める。


「まだ判りますまい。不動翁におかれては、どうかお手をお出しになりませぬように。スイカさんも、くれぐれも抱き込まれないよう気を付けてください」

「まぁ、わたくしがそんなに尻軽に見えて?」

「じっさい浮いとる」


 不動翁が皮肉を飛ばしたときには、霊祇はもう部屋から消えていた。天井に映し出された幻影だったのだ。

 よく見れば、その天井もまた──どういう原理なのか──巨大な水面だった。


「けっ、手を織田氏《お出し》も今川氏もあるめぇに。こんなノット・オッケーな狭間(、、)にブッ閉じ込めやがって」


 悪態をつく真嗚の直下では、異様な光の群れが生き物のように踊り狂っていた。《チャクラメイト事件》の妖胎児や、《呪殺事件》の妖蛾こはるから放たれたものと同じ、〝世界を喰らう光〟だ。なぜ、それがこの場所に漂っているのか。理由を知る者は、衆のなかにも少ない。

 だが光が水底から上がってくることはない。スイカの力で完全に封じ込められているのだ。しかも、真嗚もろともに、である。

 この空間そのものが彼女の支配するテリトリーであり、現世と〝向こう側〟との狭間に造られた異空間なのだ。


「おじいちゃんは、彼を助けたくないの?」


 スイカが初めて足下に目を落とした。


「あなたの子供みたいなものでしょ、あの人は?」

「あやつを我が子と思うたことなぞねぇよ」


 断ち切るような不動翁の言に、スイカはそれ以上、何も問えなかった。


(これでいいんだよな……兄貴)


 頭の後ろで手を組み、真嗚は目を閉じた。


     *


 衆本部の正面玄関はホテルのロビーに似ていて、受付と待合所が併設されている。

 待合所はとくべつ広くもないため、二台のソファに計五人も掛ければ完全占領に近い状態だ。

 一団のうち四人は体格も性別もバラバラながら、タイトな戦闘服で統一した若者達だ。長老座直轄部隊《桔梗ききょう》である。

 残るひとりは袖をまくったTシャツにカーゴパンツ姿の初老の男だった。格好こそラフで上背も高くないが、顔や腕に走る古傷や居ずまいが〝歴戦の士〟であることを感じさせる。

 と思いきや──


「マスターも狩り出されたのか?!」


 その初老が、テーブルのうえのスマートフォンに向かって頓狂な声を上げた。


「うん、これから発つところだ──」


 さらにしわがれた男の声が、端末から返ってくる。


「──なにせ顕醒の行き先が僕の管轄内だというしな。準備しといて正解だったよ」

「しかし、そっちに怪しい動きは無いんだろ? 陽動じゃねぇのか?」

「それを確かめてくるよ。美龍殿に十六夜殿に僕じゃぁ、とんだ老骨揃いだがね」

「今からでも変わってやろうか? こっちは久々の保護者気分でちと足が重いんだわ」


 足手まとい扱いされたと思ったか、桔梗の何人かが眉を顰める。だが歳の差以上に、格の差を認めないわけにはいかない。

 初老の男の名はげん──《不抜の源》とも称される《斗七山》の一角である。

 桔梗もまた闘者の精鋭には違いないが、実力と経験において《不抜の源》に比肩しうるのは隊長ただひとりである。そして、その頼れる彼は現在、席を外している。


「はっは、そう邪険になさんな。僕から見ればキミも充分に若いよ。若者同士仲良くやんなさい」


 源の不平をマスターは笑って諫める。声音だけで、その笑顔が全員の脳裏に浮かぶ。

 スキンヘッドに口髭という取り合わせがまったく強面に見えない、常ににこやかな老紳士。衆の派出所とも言える《子局こきょく》を預かる大ベテランにして、衆首脳部たる《長老座》に籍を置く大師範グランドマスターのひとり。そして衆最強闘者七傑|《斗七山》の一角。それが〝マスター〟こと日谷間ひやま宗十郎そうじゅうろう、またの名を《千里討せんりとう・日谷間》という。


「アタシのほうが年上なんですけどねェ」


 桔梗のひとりが茶化すように意見する。コード名はエコー。オメガ事件時に大鳥翔と李巍狼の拘束を試みるも、孤月によって逆に捕縛された妖種である。本来の姿は常人の目に悍ましすぎる触手の群れだが、いまは頭頂から爪先まで、しっかりとヒトに擬態している。


「アンタは黙ってなさい」


 横にいた同僚のチャーリーがエコーの額を指で弾いた。ただのデコピンと見えて破壊の念動が籠められているため、一般人が喰らえば頭蓋骨が四散している。


「ははは、これはとんだ若輩の身で失礼をいたしました。じゃぁそろそろ出るから切るよ。無事を祈る」


 その言葉を最後に通話は閉ざされた。

 するとタイミングを見計らったかのように、待合所横のエレベーターが鐘を鳴らした。


「お待たせしたね」


 鉄扉が開き、二メートルを超える巨漢が姿を現した。

 桔梗のリーダー、《超力星ちょうりきせい蓬座ハウザー》──アフリカンの肌と髪に、ヨーロピアンの彫り、そして衆屈指の筋肉の鎧の持ち主であることから〝黒いヘラクレス〟と形容されることもある。

 だが、ソファから立ち上がった勇士達の眼は、彼に追従して出てきた痩身の青年に注がれた。厚手のライダースーツ越しからでは性別を間違えそうなほどに、その面立ちも所作も婀娜婀娜あだあだしい。


「まさか、お前さんも?」


 源が眉を上げて、その青年に問う。


「はい。道中のお荷物になることを、どうかお許しください」


 豊かな巻き毛を揺らしつつ、李巍狼りうぇいらんは深々と頭を下げた。憂えげな双眸の焦点がどこかおぼつかないのは馴れない裸眼のせいか。平素着用している大きな丸眼鏡は、小脇に抱えたフルフェイスのヘルメットを被るのに備えて、どこかにしまい込んでいるようだ。


「大丈夫、ゲンさん」ハウザーが言った「桔梗で交代しながら連れていきます。今回はリョウギさんが来ることができないから、もしもの場合はウェイランを……何にするって?」

「〝名代〟です──Proxy」

「ミョーダイ。オッケー。名代にするように、と言ってました」


 桔梗隊員達が苦笑を漏らす。衆統が容赦なく難語を用いるために、ハウザーが語句や意味を取りそこねて巍狼が助け船を出す……というのは日常の光景だ。

だが、源だけはまだ眉間に皺を寄せていた。

 巍狼の同行それ自体に不服はない。体力は心許なくとも、そもそも彼は事務方のエキスパート。二十歳に満たぬ若年にして知恵者の七傑《智七山》のひとりに選ばれ、膨大な情報を貯め込んだ本部資料室の司書を任される俊英だ。

 だが衆統の名代──つまり代行者としての重責を負わせられるほどの忠節が、はたして霊祇に対してあるのだろうか。《オメガ事件》に際し、本部の決定に逆らって不動翁側に与した記憶も新しいというのに……



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