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窮之節 玖 『道』


     Side Ormu


 何が起こっているのか、凰鵡には分からなかった。

 ただ、凄まじい餓えを感じた。

 それでいて、自分を背中から見ているような浮遊感と冷静さもある。そうでなくては、この飢餓に気を狂わせられていただろう。

 事実、それ(、、)は狂っていた。自分という存在を覚えた瞬間から、この世のすべてを貪り、壊さずにはいられなかった。

 何もかもが──己自身すらもが──憎かった。

 憎くて、憎くて憎くて、たまらない。

 まさに憎悪の権化だった。そして怒りの化身であり、欲望の塊だった。

 《鬼》だ、と凰鵡は気付いた。聞いたことがある。人々の悪意、無念、妄念、執念──形を持たないはずのそれらの観念が、なにかの拍子にひとつの意思の凝縮体となって形を持つ。鬼とは、そうして生まれるのだと。

 自分は《鬼》の誕生に立ち会ったのだ。それはつまり、《鬼》の精神に入り込んだことを意味する。

 だが……何かが違う。今まで視てきた精神世界はどれも、主の心を反映して、もっと混沌としていた。

 空には満月。大地は夜闇に染められているが、ここは明らかに何処かの山のなかだ。まるで映像をまじかに見ているかのような、のっぺりとした現実感がある。

 と、《鬼》が土を蹴って走り出した。凰鵡の意識もそれに付いて動く。

 過去だ──これは《鬼》の記憶なのだ。そして自分は、それを追体験している。

 なぜ、こんなことになったのだろう。相手の精神に入るつもりなどなかった。また、こっちの思惑とは無関係に、宝剣が導いたのだろうか。

 凰鵡の困惑をよそに、《鬼》の視点は進んでゆく。

 夜の山野のなかに、やがて一軒の簡素な家が現れた。

 山房かと凰鵡は一瞬思ったが、違った。そばには車が駐められていて、電気も引かれている。コテージだ。ひと昔前の漫画で見たことのある〝別荘〟というものかもしれない。

 明るい窓の奥では、家族と思しき四人組の男女が食卓を囲んでいた。その団欒の様子を、凰鵡は羨ましいと思った。自分にああいう家族はいない。兄や維がいても「本当の父母ではない」というコンプレックスは、ついに癒えなかった。

 が、ふたりの子供達の顔をよく見た瞬間、羨望も寂しさもすべて、不安の裏側へと追いやられてしまった。

 高校生くらいの姉と、まだ十歳にも満たない弟──凰鵡にはそう見えた。

 その姉の容姿は、鬼女童に瓜ふたつだった。違うのは表情の有無だけだ。ガラスの向こうの彼女は、鬼女童の不気味さを忘れさせるくらいのほがらかな笑みを浮かべつつ、目の前の両親と、隣にいる弟へとひっきりなしに話しかけている。

 そして、その弟の姿にこそ凰鵡は驚愕していた。自分よりずっと幼いものの、いずれはさぞ精悍な顔つきになるだろうと予感させる凜々しげな眉目をしている。

 そう……彼の未来を、凰鵡は知っている。初めて見る満面の笑顔を通してでさえ、それが分かるのだ。


(兄さん──!)


 目の前にいるのは在りし日の顕醒と、彼の家族なのだ。

 だが兄の家族は妖種に……ならば次に起こるのは…………

 やめろ──! 凰鵡の叫びは届かない。

 窓が砕け、悲鳴が上がった。

 突如として食卓に乗り込んできた異形に、彼らは何を思っただろう。恐怖に顔を引きつらせながらも子供達をかばおうとした父親が、まず鋭い爪に頭を裂かれ、脳髄と血飛沫を撒き散らして倒れた。伴侶の惨死で半狂乱に陥ったか、妻は床に落ちていた肉切りナイフを拾いあげて異形へと突き立てる。だが表皮一枚とて傷付けることは出来ず、逆に首を掴まれ、テーブルへと叩き付けられた。

 彼女はピクリとも動かなくなった。首の骨が折れたのだ。《鬼》はゆうゆうと女の衣服を破り、子供達の目の前で母親の肉体をもてあそびはじめた。

 やめろ! やめろぉ! 凰鵡は叫び続けた。無意味だと分かっていても、そうせずにはいられなかった。

 なぜこんなことをする。この人達に何の怨みがある。その答えも、凰鵡には分かっていた。

 怨みならある。幸せそうに見えた。それで充分だ。

ただそれだけで、《鬼》にとっては、怒り、憎しみ、壊す価値がある。

 姉弟は部屋の隅で小さく震えながら、無惨な父の遺体と、母が異形に辱められる光景を見つめるしかない。

 やがて《鬼》は、弟を守るように掻き抱く姉へと目を付けた。もう飽きたと言わんばかりに母親の体をテーブルから払いのけ、ふたりへと歩み寄る。

 姉が狙われていると悟った弟が小さな身体で懸命に彼女を庇おうとする。《鬼》が鬱陶しそうに腕を振り払い、少年は壁に叩き付けられた。

 姉が彼の名を叫ぶなか、惨劇の第二幕がはじまった。

少女の悲鳴と嗚咽は、《鬼》にとっては最大級の愉悦だった 拷問は何十分……何時間と繰り返された。《鬼》の手は休まることなく、そればかりか彼女を苛むあいまに父母の遺体から肉を剥いでは喰らった。血と死とが充満する室内は、《鬼》の支配する地獄だった。

 少年には何も出来なかった。壁の根元にへたり込んで、放心したように、ただすべてを目にするしかなかった。自分が失禁していることにすら気付いていない様子だった。

 そんな少年に向けて、《鬼》はいたぶられる姉の姿を見せつけ、さらには父母から剥いだ肉片を「喰え」とばかりに彼の口へと押し付けた。少年が拒否すれば、彼ではなく姉のほうの四肢をねじって痛めつけ、脅した。

姉の命のために、少年は泣きながら、嘔吐えずきながら、両親の肉を口にした。それも当初のこと。幾度となく続くうちに、少年は生気を失ったゾンビのように、《鬼》に命じられるがまま父母を咀嚼した。

 《鬼》にはそれがたのしくてしょうがなかった。そして待っていた──少年の、死んだように見える心の奥底で、憎悪と怒りの渦が激しさを増してゆくのを。

 それこそが無念だった。強大な相手に怒りをぶつけることも出来ず、憎しみをそそぐ手段もないままに、鬱蒼と積もってゆく、満たされぬ念い。──生まれた瞬間に《鬼》が抱いていたものと同じ、ドス黒い飢餓だ。

 少年のそれが熟成される時を、《鬼》は待っていたのだ。

 理由はただひとつ。喰らうためだ。

 やめろ……お願い……もう、こんなことは……

 無力な少年と同じように、凰鵡もまた怒りと哀しみに悶えながら、すべてを見守るしかない。

 過去は変えられない──この不変のことわりを、こうまで恨めしく思ったことはない。出来ることなら、この家族を助けたかった──たとえその結果、未来が狂い、自分の存在が消えることになろうとも。

 やがて明け方が近づいた頃、《鬼》はついにメインディッシュへと手を伸ばした。すでに両親は喰い尽くされていた。少女は絶え間ない責め苦に意識を手放していた。

 少年は恐怖と絶望で一睡もできず、憔悴しきっていた。しかし枯れた井戸のような双眸の奥底では、激情が、爛れた輝きを湛えていた。

 理不尽に対する憎悪と怒り。それに抗えない屈辱と哀しみ。困惑。自己嫌悪。最高の無念を宿した、最高の糧の完成である。

 《鬼》に首根を掴まれて、少年は宙に吊される。息が止まってゆく恐怖すらも、捕食者にとっては仕上げのスパイスだ。

 顎が大きく開かれ、牙という牙が獲物の頭部に狙いを定めた。

 ──凰鵡の心が、限界を超えた。

 その瞬間、ありえないことが起こった。

 いざ、というところで《鬼》は動きを止めた。

 横へと巡った双眸に、その場にいるはずのない、第三の人影が映っていた。


「やめろぉぉ──!!」


 光が爆ぜ、《鬼》の咆吼と、少女の悲鳴が遠ざかった。




 ハッと目が醒めるように、凰鵡の意識は穴底へと戻った。

 そして愕然とした。

 《鬼》は健在だった。盾にした鬼女童を吹き飛ばされ、みずからも光刃に胸を貫かれながらも、その双眸はなお、狂おしいまでの憎悪と憤怒で活き活きと輝いている。


(いけない──)


 《鬼》の不穏な気配を察したときには、遅かった。

 ずるん……と、麺をすするような勢いで、《鬼》の胸が光の刃を吸い込んだ。

 凰鵡の手に、光を失った倶利伽羅竜王が残った。

 《鬼》は思念や意志を喰える──いまの凰鵡には、それが解る。いくら斬っても堪えないはずだ。不動の《気》は意志そのものなのだから。

 オオオオン──咆吼が上がる。雪辱を確信した《鬼》の、歓喜の雄叫びだった。


(ボクは…………)


 倶利伽羅竜王を握りしめたまま、凰鵡は膝を突いた。

 光刃が《鬼》に喰われたように、その闘志は悔しさと虚無感に呑み込まれていた。

 勇んで闘ったものの、結果は敵に餌を与えていただけという有り様である。

 それだけではない。ひしがれた凰鵡をさらに、たったいま体験した出来事が責め苛む。

 あれはただの過去視や追体験ではなく、一種の時間遡行タイムリープだった。自己流で繰り出した《無極の殺法》が、なぜそんな現象を引き起こしたのかは判らないが、おそらく自分は意識だけの存在となって、兄が家族を失ったその日に飛んだのだ。

 そして彼を死なせたくない一心から、自分はまた霊力を暴発させた。その力は、あろうことか過去の存在であるはずの《鬼》に干渉に、その身をき尽くした。

 だが《鬼》は死ななかった。逆に気を喰らう力を身につけ、《ピット》の奥底に繋がれながらも、復讐の機会をずっと待っていたのだ。

 それは成った。凰鵡にはもう打つ手がない。

 勝てなかった。もう何も考えられない。流れも視えない。絶望が瞼を閉ざし、世界を拒絶する。

 巨腕の群れが凰鵡に迫っていた。壁から、床から……あえて追い詰めて恐怖させるかのように、ゆっくりと包囲し、蠢く。

 ──そのすべてが、光となって散った。

 ふと感じた気配に凰鵡が瞼を開けば、長い黒髪と広い背中が目の前にあった。

 この瞬間、ついに顕醒が《ピット》の最奥に到達したのである。


(兄さん……)


 凰鵡の視界が滲んでゆく。いったい何度目だろう、この人に救われるのは。

 いつまで経っても、どれだけ強くなっても、この人の背中はいつも大きくて、遠い。

 だが、いま凰鵡の頬を濡らすのは、悔しさや嬉しさだけではなかった。


「ごめんなさい……ボクは…………ボクが、あなたのお姉さんを……」


 言葉が続かない。喉も胸も苦しい。告げるべきひと言が、どうしても出てこない。

 幼き顕醒を喰らおうとしたその瞬間にも、《鬼》はもう片方の手で彼の姉を抱えていた。あろうことか彼女の存在を失念したまま、凰鵡は《鬼》に対して激情を向けたのだ。

 はたして、少女はそのときに命を落としたのか、それとも生き伸びたのか。いずれにせよその身は《鬼》に取り込まれ、仔を成す機構の一部にされてしまったのだろう。

 すべては、自分のせいだ。

 ──オオオン ──オオオン

 《鬼》が今までにない唸り方をしている。怨敵を守るように現れた男が、あのとき喰らいそこねた小僧であることに気付いたのだろうか。

 かたや顕醒は静かに《鬼》を見つめながら、首の後ろへと手を回し、後ろ毛を掴んだ。

 スッ──手刀が長い髪を断ち切った。


(兄さん──?!)


 凰鵡が知るかぎり、顕醒がそんな事をするのは初めてだった──散髪をしたことすらないというのに。


「ノウマクサラバタタギャテイビヤクサラバボッケイビャク……」


 顕醒の口から不動明王の真言が朗々と紡ぎ出される。それも火界咒かかいしゅ──もっとも強力な霊験を持つと言われる真言である。

 毛の束がぱらぱらと振りまかれる。その一本一本が光の縄となり、複雑に絡み合い、太く長く伸びて《鬼》にまとわりつく。縄は残った鬼女童やケーブルにも取り憑いて、それらの動きを細大漏らさず封じ込めた。

 ──オオオ……──

 《鬼》の唸りに苦痛と戸惑いが混じった。どういうわけか、抗うことも、吸収することも出来ないでいるようだ。


「……ギャキサラバビキナンウンタラタカンマン」


 わずかに手に残った髪が、こんどは生きた蛇のように顕醒自身の両腕へと巻きつき、淡い光を発した。


「凰鵡」


 振り向いた兄の顔を直視できず、凰鵡はうずくまって額を地面に擦りつけた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 床に涙を注いで、ひたすら謝る。

 視界の上端に、片膝を突く兄の脚が見えた。


「竜王を貸してくれ」


 捧げ持つように、凰鵡は宝剣を差し出す。

 顕醒はそれを受け取ると、逆の手を、弟の癖毛頭に乗せた。

 そして、優しく撫でた。


「よく闘った」


 思いがけない兄の言葉に、凰鵡の涙は勢いを増す。ぶんぶんと頭を振った。


「駄目でした……ボクには、何も出来なかった……誰も助けられなかった……!」


 この闘い、自分の存在に何の意味があっただろう。オメガの霊力を得て、兄との修行でさらに力をつけたと自負しながら、漸遠に大敗し、セレネには翻弄され、朱璃を殺めかけ、翔の助けを不意にし、《鬼》には一矢も報いられぬまま、あろうことか兄の姉君を手に掛けてしまった。


「もう充分に、救ってくれた」


 凰鵡の悲しみが止まった。

 恐る恐る顔を上げる。

 見慣れた兄の無表情……ではなかった。

 ただの錯覚かもしれないと思うほどの、ほんの僅かな差。どこか無理やり作ろうとしたような不格好さ。それでも、凰鵡が生まれて初めて見る顕醒の微笑が、そこにあった。


「兄さん……?」


 兄の表情と言葉が、凰鵡のなかでぐるぐると回る。


「う──?!」


 額に鈍い衝撃が走り、頭全体を包んで、うなじへと抜けた。

 顕醒の指によるひと突きだった。


(どうして……)


 大いなる疑念のなかで、凰鵡の意識は途絶えた。


「凰鵡ッ!!」


 ちょうどその時、凰鵡の背後に見える扉から翔が駆け込んできた。肩には雁字搦めにした《室長》を無造作に担いでいる。


「顕醒さん、アンタなにを──」


 抗議の声は最後まで続かなかった。

 遊環の音とともに現れた怪僧に額を触れられた瞬間、翔もその場に頽れた。

 顕醒と雲水……束の間、両者が向かい合う。

 だが交わす言葉はなく、やがて顕醒は《鬼》へと向き直った。

 がしゃん──二度目の遊環の音で怪僧は消えた。凰鵡と翔と、《室長》の姿もなくなっていた。


「ノウマクサラバタタギャテイビヤク……」


 ふたたび火界咒を紡ぎ出す顕醒。腕に巻かれた髪束が激しく明滅し、倶利伽羅竜王が光刃を吐く。

 その光条は、もはや「剣」と呼べるものではなかった。

 天も灼き焦がさんと噴き上がる火柱だった。

 《鬼》を縛める縄が、その締め付けを強める。

 ──オオオオオオ──

 呻きが悲鳴に近づいてゆく。己が生み出したもうひとりの《鬼》に哀れみでも乞うているのか。

 その下腹部で《母体》がピクリと蠢いた。

 女は閉ざされていた瞼を僅かに開き、顔を上げ、顕醒を見た。

 顕醒も《母体》を見つめていた。


「さようなら、姉さん」


 炎の剣が振り降ろされた。




「皆さん伏せて!」


 巍狼が叫び、孤月は両手の指を組んで左右に解いた。

 《扉》が収縮し、鬼女童の胴体に戻る──と思いきや、千々の火花となって炸裂した。


「巍狼、無事か?!」

「大丈夫です? 孤月老師は⁈」


 《扉》にもっとも近かったふたりが互いを確かめ合う。

 あの広大な《ピット》を一瞬で灼き尽くし、そこへの《扉》すら破壊する、おぞましいまでのエネルギーの爆発だった。


「みんな怪我ないか⁈」


 孤月が結界の外にいるメンバーを見渡す。咄嗟に呪符を展開して障壁を張っていたが、防ぎ漏らしがないとも限らない。

 周囲から口々に無事を報せる声が返ってくる。幸いにして負傷者はゼロだった。零子も先の一件で医務室に運ばれたままだ。

 それでも、誰の心も穏やかではなかった。


(翔さん……!)


 巍狼は呆然として《扉》を失った空間を見つめる。

 凰鵡、翔、顕醒……この三人は、最後まで戻ってこなかった。


「凰鵡くん……そんな……」


 朱璃も震えながら、巍狼と同じ場所を凝視していた。


「大丈夫。きっと大丈夫よ、朱璃ちゃん」


 その背を、維が撫でながら諭す。

 生きている──少なくとも凰鵡は──そんな予感があった。


「副支部長、失礼します!」


 と、ひとりの支部員が棟から中庭へと駆け込んできた。


「たったいま、奇妙な爆発現象が観測されました」

「爆発? ここではなくて、ですか?」


 炸裂のショックで力が入りきらない体を孤月に支えられつつ、巍狼は詳細を聴いた。

 報告によると、第一区内のとある山中で、原因不明の爆発音と大きな霊力の乱れがあったという。

 そして座標を耳にした瞬間、巍狼の脳裏にある確信が走った。


「その場所は……! すぐに医療班と処理班を、闘者の護衛付きで向かわせてください!」


 同時に、懐が震えた。零子から預かっていた支部長用のスマートフォンだ。

 画面を見れば、発信元の欄には『大鳥翔』の名が明々と表示されていた。




 翔と凰鵡が目覚めたのは、ほとんど同時だった。


「翔、大丈夫?! ここは……?」


 忙しなく視線を巡らせる凰鵡に対して、翔は漠然と「見覚えがあるな」と思った。

 どこかの山のなからしいが、ふたりの背後には異様な光景が広がっていた。

 クレーターだ。隕石の直撃か、大規模な落盤か……野球場サイズのスプーンで抉り取られたかのように、山野がごっそりと消滅していた。またオメガが現れたのだろうかと、翔も凰鵡も怖気立つ。

 だが、スマートフォンのGPSで位置を確認するや、翔は「あー」と溜息交じりに呟いた。

 昨夜、叔父とともに訪れた廃医院のある場所だった。気付けなかったのは、肝心の建物が周囲もろともにこの世から消滅していたせいだ。

 異空間に聳える一大拠点《ピット》は、もとをただせば旧癲狂院の地下に存在した実験施設から構築された模造世界──罠役の妖種がそう告白したとき、翔はあまりの皮肉さに嗤いを漏らしさえした。人体実験まがいの治療、旧帝国軍部との癒着……よくある陰謀論と思いきや、その噂が真実だったとは。あのとき、敵の本拠はこんなにも近くにあった。顕醒が探していたという姉すらも…………


「兄さん……!」


 凰鵡がハッとして、もういちど辺りを見渡す。


「兄さん! 兄さぁん!」


 何度も呼びかけながら右往左往する。

 駄目だろうな、と翔は感じていた。最後に顕醒を見たときからそうだった。だが、それを凰鵡に告げることなど出来ようはずもない。

 その気になれば彼は街ひとつ消せる……とは叔父の談。はじめて聞いた時はまさかと思ったが、買いかぶりではなかったらしい。《ピット》どころか、空間の壁を貫いて模倣元の医院跡すら消滅させるとは。このぶんでは、異界門でなかば繋がっていた〝向こう側〟すらどうなっていることか。こちら側の地下施設が消えてしまったのは、物証としては大きな痛手かもしれない。それでも、すべての謎はいずれ明らかになるだろう。

 だが、その代償がこれか。

 翔は足下で気を失ったままの《室長》を見下ろし、スマートフォンから支部長へと通話を架けた。

 出たのは巍狼だった。零子に何かあったのかという不安は呑み込んで、翔は現在位置と、自分達の状況を伝えた。


(おじさん、終わったよ……)


 端末をズボンに仕舞って、胸ポケットのうえから叔父の眼球に触れる。

 さらにその奧の鼓動が痛む。達成感も安堵感もない。犠牲はあまりに大きく、それはまたきっと、新たな混乱を生む。


「兄さん──?!」


 不意に、凰鵡がクレーターの底へと駆け出した。翔も「まさか」と思いながら奇跡を期待した。

 違った。なかほどまで降りた凰鵡が急ブレーキを掛けて止まる。向かう先に佇んでいたのは、錫杖を手にした怪僧だった。

 がつん──硬い音が響いて、その肘から先が、穴の底に埋まった。

 腕が引き抜かれる瞬間、翔はまたも期待していた。埋もれたまま気を失っていた顕醒を引き上げてくれたのではないか、と。

 だが、希望は叶わなかった。雲水の手に握られていたのは、倶利伽羅竜王だった。

 黄金の輝きが宙を舞い、吸い込まれるように凰鵡の手へと収まった。

 がしゃん──役目を果たしたかのように、雲水が遊環を鳴らして消えた。

 宝剣を掴んだまま、凰鵡はしばし立ち竦む。

やがて、その場に膝を屈した。

 帰ってきたのは宝剣だけ──それが答えであり核心だ。

 世界を引き裂くような絶叫が青空に昇った。

 そんな凰鵡を、翔は少しだけ羨ましく感じた。涙が涸れるまで泣けばいい。そこに寄り添うことしか、いまの自分に出来ることはない。


「本当、泣き虫な子ね」


 頭を踏み砕いてやろうかと思った。黙って寝ていればいいものを、言うに事欠いて、かつて自分が凰鵡に言ったのと同じ科白を吐くとは。


「たったひとりに死なれただけであんなに取り乱すなんて、この国の未来を任せるには脆すぎるわ。私達の払った犠牲に比べれば……」


 女の饒舌が止まった。異銃の銃口が、こめかみに狙いを定めていた。


「黙ってろ」


 凰鵡を見つめながら、翔は足下に言葉を落とした。


「あなたに撃てて?」


 まぁ撃てないな、と翔は内心で諦める。敵とはいえ無抵抗。このうえ脅威になり得るとも思えない。そんな相手を一方的に射殺するのは虐殺と同義だ。当然、衆の掟も許さない。


「あなたも彼と同じね」結局、女は黙らなかった「あなた達の組織自体がそう。一時の感情や、短絡的な利益にいちいち振り回されて、場当たり的で、将来に必要なことが何も見えていない。衆は我々の計画を潰した。それが何を意味するか、分かっていて?」


 その問いに翔は応えなかった。だが分かっているつもりだった。《ピット》の正体が何なのか。それも罠役が白状していた。

 防衛省麾下《第三戦略開発室》──表向きは次世代の国防に関わる新戦略を開発する部署だ。だがその実態は〝超能力・霊障・妖異といった非科学的事象の軍事ないし資源転用を目指した研究〟……つまり、政府直下の〝オカルト機関〟である。『室長』の肩書きは伊達ではなかったわけだ。

 そして、彼女らの《鬼盡計画》は当然、省の承認を得ていた。今度の闘い、衆は政府と衝突したことになる。この一件が新たな争いの火種となるのか、それとも火種のうちに揉み消されるのか。そこまでは翔には判らない。


「いつの時代でも、この国は狙われている。妖異の研究だって、他国ではもっと過激な方法で進められているわ。けれどそのぶん成果も上がっている。残酷な強者に襲われて、優しい弱者が身を守れる道理があって? その時に、あなた達が守ってくれるとでもいうの?」

「アンタらも自分の計画が潰れる予感はしてたろ。だから顕醒さんを警戒してた」

「いいえ。失敗した一番の要因は、あなた」


 ここへきてへつらう気か、それともただの皮肉か。


「あなたさえいなければ、紫籐導星の眼は両方とも手に入って、計画はもっと迅速に、完璧に始動していた。あの顕醒ですら止めようがないほどにね。いくらそうやって誇らしげに銃を構えていても、あなたは、あなた自身の手で、叔父様の死を無駄にしたの──ォ」


 《室長》の声が歪み、どっ、と鈍い音が上がった。


「ァ……ぁ……」


 《室長》の顔は頬骨を陥没させ、自力では有り得ない方角を向いていた。頸椎が捻れ、折れ曲がっていた。それでも呼吸に問題はなく、出血もない。見る者が見れば「お見事」と言いかねないような有様だった。

 紛れもなく、翔が蹴ったのだ。


「翔──?!」


 音が聞こえて我に返ったのか、凰鵡が駆け戻ってきた。そして女の状態を見て取るや、赤く腫れた顔が一気に白くなった。


「翔、どうして?! 何をしたの?! なんで……ねぇ、応えて?!」


 片手に宝剣を握ったまま、翔の両肩を掴んで揺さぶり、捲し立てる。

 何と言えばいいか翔には判らなかった。ただ、凰鵡に要らない心配を増やしてしまったことを、申し訳なく思った。

 だからこの時、口を突いて出てしまった言葉を、翔は後々まで悔いることになる。


「お前には、関係ねぇよ」


 かぁっ、と凰鵡の顔がふたたび赤くなって、髪が総毛立ったように見えた。


「翔ッ!」


 ビシリ、と頬に平手が入った。朱璃に打たれたのとは逆の側だった。


「あ……」


 自分の行為に恐れを成したか、打った本人が驚いて、一歩、二歩と後退る。


「翔……最近、変だよ。おかしいよ。どうしちゃったのさ……」


 震える声と一緒に、止まったはずの涙がまた溢れ出てきた。

 怒ったと思えば、怖がって、また泣き始める。その目まぐるしさに苛立ちを感じなかったと言えば、噓になる。そして翔はなおさら、何も言えなくなってゆく。


「わかった。もういいよ……」


 泣き腫らした大きな眼を鋭く吊り上げて、凰鵡は翔を睨みつけた。友の無言を拒絶と受け取った心は、脳裏に渦巻いていた疑惑と結びついて、残酷な結論を導き出していた。


「そんなにボクのことが嫌いになったンなら、もういい……!」


 そう来たか、としか翔には考えられなかった。凰鵡を怒らせた自分の心ない言い方を謝るべきだったとか、せめてこの瞬間に「嫌いになるワケがないだろ」とハッキリ言い返せばよかったとか、そんなことはまるで頭に思い浮かばなかった。

 いまの一発で疲れがドッと湧いて出ていた。好きにしてくれと思った。

 そして、痛烈な怒号が山野を渡った。


「絶交だよ!!」



     Side ???



 青年は目を覚ました。ベッドと暗い天井……それ以外に、ここが何処なのか知る術はない。

 自分が誰なのかも、すぐには思い出せなかった。


「おはようございます」


 黒い空間を斬り裂くように、純白のシルエットが現れた。男か女か、ひと目では判別しがたい美貌だ。


「危ないところでしたね。私が一瞬早くこちらに引き込んでいなければ、消し飛んでいたところでした」


 誇らしげに微笑みながら、天風鳴夜は青年の顔を覗き込む。


「アンタは……オレは……」

「ショックで少々、混乱されてますね。ええ、大丈夫。すぐに思い出せますよ──ほら」


 パチン、と鳴夜の指が鳴らされる。

 閃光と衝撃が、青年の意識を貫いた。《ピット》、《室長》、《鬼》、《鬼女童》、手術台、無数の注射器、繋がれた全身、管から否応なく流し込まれる薬物、絶え間ない脳への電流、男達に抑え込まれ、連行され────


「オレは……あ、そんな……!」

「自分が誰か、もうお分かりですね? ミリアン・ザ・ブルースチール……いえ」


 絹細工のような滑らかな指が青年の額を撫で、冷や汗を拭う。

 ミリアンはすべてを思い出した。どうりであの女達は、自分を知らなかったわけだ。

 〝ミリアン・ザ・ブルースチール〟など、最初から存在しない。

 報酬に惹かれて応募した求人。面接先で拘束され、拉致され、他の何十という人々とともに被検体として扱われ、実験と観察を繰り返され、記憶を奪われ、新たな名と偽の思い出を植えつけられ、計画の成果のひとつとして試験投入された──


「──《鬼女童》の細胞投与実験で生み出された、人工異能者の成功例、第1号さん」


 それが本当の自分なのだ。


「いかがです? せっかく手に入れた力、もっと存分に使ってみませんか?」


 ふわっ、と舞うように、鳴夜は壁際へと退く。その背後に設けられた飾り棚のうえに、ミリアンの眼は吸い込まれる。

 まるでホラー映画に出てくる狂人のコレクションだ。幾人もの生首……ムカデのような虫が生えた心臓……何本もの管が突き出た胎児……血の塊にしか見えない何か……それぞれが大きな瓶に詰められて、整然と並んでいる。


「あんた……なにもんだ……?」


 姿と名前は知っている。《室長》がセレネ達との仲介や、ラハ=ラトの捜索を依頼していたのも知っている。だが、その正体は?


「私は天風鳴夜。調達人にして、報われぬ心のための調停人」


 うやうやしく、鳴夜はお辞儀をしてみせる。


「この世界にご不満や憤りをお持ちでしたら、是非とも私に、その解決のお手伝いをさせてくださいませ」

「あんた、趣味悪いな」


 吐き捨てるような言葉とは裏腹に、ミリアンはニヤリと広角を上げた。


「けど悪くないね」


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