【20話(2/3)】埋まらない寂しさ
その夜。
美晴はリビングのソファで、美咲の歯を磨いていた。
美咲は大人しく膝枕に頭を預け、口を開けている。
この家にも、美晴にも、すっかり慣れたようだ。
美晴は歯ブラシで磨いた後、小さな歯の一本一本にフロスを当てていく。
「んー、まだぁ?」
「まだです。いいですかお嬢様、歯を全部しっかり磨こうと思ったら、最低でも10分はかかるのですよ。小学生までは、私が必ず仕上げ磨きを致します。虫歯の一本も許しませんからね——よし、終わりです。ではお嬢様、お部屋に参りましょうか」
フロスが終わると、美咲はピョンと立ち上がった。
「おやすみちゅーする!」
聞き慣れない言葉に、美晴は聞き返した。
「おやすみ?何と言われましたか?」
「おにいちゃんどこ?おにいちゃんとおやすみちゅーする!」
そこへ、成海が顔を覗かせた。
「ああ、いたいた。美咲、もう寝るだろう?チューしに来たよ」
「ん!おやすみちゅーする!」
成海は美咲の前にしゃがみ、ぷっくりとしたほっぺたにキスをした。
「おやすみ、美咲」
「うん!」
成海は立ち上がり、怪訝な顔の美晴に気づいた。
「どうしたんだい、美晴?」
「その……キスは毎日どのくらいなさるのですか?」
「そんなまさか、寝る前だけだよ!それに美咲からするようには教えていないよ」
「……でしたら構いません。お嬢様が他所で披露してしまわないか、危惧したまでです」
美晴には、すっかり教育係としての責任感が芽生えているようだった。
***
美咲は、美晴と一緒に自室のベッドへ向かった。
「お嬢様、今日はお疲れでしょう。こちらでしっかりお休み下さい」
「あっ……」
部屋を出ようとする美晴に、美咲は声を上げかけた。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
「……うぅん」
「何かありましたら、私共は同じ階におりますからね。電気、消しておきますよ」
「……うん」
暗くなった部屋の向こうで、足音がだんだん遠ざかっていく。
美咲はベッドに潜り込んだ。
(みはるさん……ねんねしよって、いえなかった……)
布団からは、おひさまの匂いがする。
あたたかい匂いに包まれて、美咲は眠りに落ちるのだった。
***
美咲が、今よりもう少しだけ小さかった頃。
美咲はずっと、お父さんとお母さんが帰ってくるのを待っていた。
お兄ちゃんは、お父さんとお母さんは死んだから会えないと言う。「死んだ」というのはよく分からないけれど、どうやら遠いところに行っちゃったらしい。それなら、待っていればいつかは帰ってくるはずだ。
幼稚園の先生たちにそれを話すと、みんな困った顔をした。なぜかみんなは、お父さんとお母さんが帰ってくることを信じていないようだった。
お兄ちゃんは、お父さんとお母さんの思い出についてたくさん話してくれた。お父さんとお母さんがいた時は、毎日が楽しくて、幸せだったらしい。そんな日々を過ごしていた二人が、美咲を捨てるはずがない。
たとえ今日は迎えに来なくても、明日、そのまた明日、急に帰ってくるに違いない。もしかしたら美咲をびっくりさせようとして、帰るタイミングを見計らっているのかもしれない。
お父さんとお母さんが帰ってきたら、赤ちゃんみたいにいっぱい抱っこしてもらって、夜はおやすみのチューをして、それから一緒に寝るのだ。
美咲はいつかそんな日が来ると、信じて疑わなかった。
***
ある日、美咲は知らない建物に連れて行かれた。
お兄ちゃんと弥生さんは、女の人に用事があったみたいだ。
美咲が知らない女の人は、美咲を見て顔を歪めた。
「この子が、杏奈が連れていた赤ちゃん……もうこんなに大きくなったのね」
お兄ちゃんたちが知らない女の人と話をしている間、美咲は椅子に乗って窓から外を眺めていた。美咲がいつも通っている幼稚園の、園庭が見える。
お母さんが迎えに来て、一緒に帰っている子がいた。
(いいなぁ……みさきのおかあさん、いつおむかえにくるのかなぁ)
弥生さんは、女の人に何かを渡していた。
「こちら、奥様が出そうとなさっていらしたお手紙のようで……発見とお渡しが遅くなり、申し訳ございません」
「いいえ、わざわざありがとう」
女の人は手紙を胸に当て、声を震わせた。
「杏奈……もう会えないなんて、未だに信じられない」
みんなの会話の内容がお母さんについての話だと、美咲は何となく分かっていた。
もう会えないという言葉。女の人の悲しそうな声音。
美咲の心に、何か違和感が生まれる。
(あれ……おかあさん……?)
窓の向こうでは、また一人、子どもがお母さんと一緒に園庭を歩いている。二人は手を繋いで、門を出ていく。
いつか美咲もあんな風に、お母さんと帰れる。
そう思っていたのに。
(みさき、おとうさんとおかあさんに、あえないの?)
ずっとお迎えに来ない、お父さんとお母さん。
幼稚園の先生たちの困った顔。
知らない女の人の、悲しみの言葉。
それらが全て、美咲の理解に繋がっていく。
死ぬということは、もう会えないということ。
どれだけ待っても、もう会えないということ。
美咲がこの先どんなに大きくなっても、お父さんとお母さんには会えないということ。
みんなのように、一緒に手を繋いで幼稚園から帰るなんて日は、絶対に来ないということ。
唐突に全部が分かって、鼻がツーンとする。
胸の奥が、苦しくって苦しくってたまらなくなった。
「んっ……うぅっ……うあぁ〜んっ……」
突如として泣き始めた美咲を見て、みんなは困惑した。
「美咲!?どうしたの!?」
「お嬢さま?どこか痛いのですか?」
弥生さんは、美咲に怪我がないか確認しながらギュッと抱きしめてくれた。
いつもは安心する弥生さんの腕の中にいても、美咲の涙は止まらなかった。
(なんで!?なんでしんだの!?おかあさん!おとうさん!おむかえにきてよ!みさきにあいにきて!)
——その時、頭の中に、声が響いた。
『泣かないで!』
(えっ……!?)
女の子の声だ。
美咲は嗚咽しながら、辺りを見回す。
でも、女の子はどこにもいない。
『おいで!その悲しみ、我が埋めてあげるから!』
その声は、なぜかとてもあたたかく、美咲を包み込んでくれるように感じた。
(この子に会わなくっちゃ……!)
美咲は泣くのをやめて、弥生の腕を抜け出した。
「お嬢さま?落ち着かれましたか?」
知らない女の人は、美咲の涙を拭こうとティッシュを取りに出ようとしていた。女の人が扉を開けたタイミングで、美咲は急に走り、部屋を飛び出した。
「お嬢さま!?」
「ちょっと、あんた!」
美咲は廊下を真っ直ぐ走り、ガラス張りの部屋に辿り着いた。
後ろから女の人の声が聞こえる。
「そっちに行っちゃダメ!」
しかし、美咲をいざなう声は、その部屋の向こうから聞こえていた。
扉を叩いていると、中から別の女の人が顔を覗かせた。
「騒がしいわねぇ。ここは子どもの遊び場じゃないのよ?」
美咲は扉の隙間から中に入り、声に向かって一目散に駆け寄った。
「ちょっと!何するの!?入らないで!」
女の人の制止を振り切って、美咲は声の主に辿り着いた。
小さな鉢に植えられた、淡い翡翠色の植物。
それが美咲を呼んでいた存在だった。
背後では、二人の女の人たちが言い争っている。
しかし美咲は、その植物に釘付けになっていた。
植物からは、女の子の声が聞こえてくる。
『小さき生命、其方の名前を教えて?』
「なまえ?」
『そう、名前。名前を教えて』
「おなまえ……みさき」
『分かった、美咲ね。じゃあ美咲、我に名前を付けて!』
「おなまえ、つける……?」
女の人たちは言い争いをやめて、美咲を凝視した。
「え……今、会話した?」
「まさか……本当に、神木の御使に選ばれたの!?」
『名前で呼び合うと絆が深まるって、我を生みし分身の記憶に残っていたの。だから美咲が名前を付けて!』
美咲は植物を指し、女の人たちを見る。
「おなまえ……」
「は?お名前?」
「おなまえ、なぁに?」
最初に会った女の人は、何とか言葉を絞り出す。
「特に名前は無いけど……そうね、小さいから、チビちゃんとか……?」
「ちびちゃん」
美咲の言葉に対して、植物は反抗する。
『違う!それは美咲が付けた名前じゃない!我には分かるのよ!』
「ちびちゃん」
『うーん、しょうがないなぁ。でも、いつか美咲が名前を付けてね!』
世間には存在を隠されていた、神木の御子。
美咲がその御使に選ばれたのは、この偶然の出来事がきっかけなのであった。
***
美咲は、暗闇の中で目を覚ました。
かわいいけど、暗くて広いお部屋。
(ん……?ここ、どこ!?)
見慣れない景色に、慌てて起き上がる。
しかし、引越してここが新しい家になったことを思い出した。
新しいお家。
昔、お父さんとお母さんが住んでいたお家。
もう会えない、お父さんとお母さんのお家。
「……うぅ」
美咲は小さく唸って、ぎゅっと掛け布団を握り締めた。
「おかあさん……」
美咲には、お父さんとお母さんとの記憶がある。
お父さんは、美咲を抱っこしてくれていた。
でも、お母さんは、笑っている声だけ。
もう会えないのなら、せめてお母さんとの思い出が欲しい。そんな風に思うこともあった。でも、お兄ちゃんにそんなことを言っても、お母さんには会えないし、きっとお兄ちゃんは困って悲しい顔をするだろう。
広いお部屋に一人でいると、お母さんのことばかり考えてしまう。
美咲はもぞもぞとベッドを降りて、裸足で部屋を出た。
***
一日の業務が終わった後。
休憩室では、弥生の膝枕に侍従がしがみついていた。
「うあぁ〜んっ!弥生ママぁ〜っ!」
その後ろには、他の侍従が列を成して順番待ちをしている。
弥生は侍従の頭を優しく撫でた。
「よーしよし。今までよーく頑張りましたねぇ、えらいえらい」
「あぁ〜ん、ママぁ〜」
後ろの侍従が交代を急かす。
「もういいでしょ!次は私よ!」
「やだぁ〜、ママがいいのぉ〜」
大の大人が人目も憚らず幼児のように甘える様子を、美晴は離れたところから見ていた。
(伯母さんの母性の加護、相変わらず凄まじいわね。人としての尊厳を損なうという点では、ある意味一番恐ろしいわ……)
ふと視線を感じ、美晴は振り向く。
休憩室の扉の隙間から、寝たはずの美咲が覗いていた。
「お嬢様?如何なさいましたか?」
美咲は美晴の腕をぐいぐい引っ張る。
「みはるさん、きて」
***
暗くて静かな廊下を歩き、二人は美咲の部屋に辿り着いた。
美晴は慎重に扉を開ける。
(部屋に虫が出たとか、そういうトラブルかと思ったけど……特に変わったことは無さそうね)
「お嬢様、何があったのですか?」
「いっしょにねんねする」
「えっ?あの、お嬢様っ」
美咲は美晴を引っ張って、布団に入ろうとする。
(もしかして、今までは伯母さんと寝ていたのかしら?一人で寝られるように教育していかないと)
「みはるさん、こっちきて」
「お嬢様、お一人でお休みにならないと……」
しかし美咲は美晴をベッドに引き入れようとする。
仕方なく、美晴は美咲の隣で横になった。
(気を許してくれたのは嬉しいけど、主人と従者が寝所を共にするなどもっての外……それをどうやって伝えたらいいかしら)
美晴の悩みをよそに、美咲は美晴に話しかける。
「ねぇ、おかあさん、しってる?」
「お母さん?お嬢様の、お母様ですか?」
美咲の母親・猪狩杏奈。弥生が彼女の世話係を務めていた縁で、姪として何度か挨拶に行ったことがある。彼女はいつも笑って手を振ってくれたが、顔色が悪い印象の方が強かった。
布団の中で、美咲はぽつりと言った。
「おかあさん、いきてたら、だっこしてくれたかなぁ」
(お嬢様……今まで、寂しい思いをしてきたのかしら)
「……ええ、もちろん。優しいお母様でしたから」
そう言って、美晴は美咲の小さな身体を抱き寄せた。
「私で良ければ、お母様の分まで、たくさん抱きしめて差し上げましょう」
美咲は頷いて、美晴に身体をくっつけた。
(甘やかしてはいけないけど……お嬢様の寂しさが埋まるまでは、こうやって寝かしつけましょうか)
美晴は美咲が眠りに落ちるまで、ずっと寄り添った。そして美咲が寝息を立てているのを確認してから、こっそりベッドを抜け出したのだった。
読んで頂きありがとうございます!
至らぬ点があればすみません。
完結まで頑張ります!




