【第一話 〜善〜】4
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善は、今日ここへ来る前に接触してきた高橋先輩と、その後輩にあたる松本さんのことをさっくり説明した。
喫茶店の客は、善たちの他に一人だけだった。よく見る常連のお婆ちゃんだ。カウンターの一番隅で、古ぼけた色合いのベレエ帽を粋な角度で被っている。文庫本を片手にコーヒーを啜ってる。
善が説明している途中、マスターがブレンドコーヒーを運んで来てくれた。コートジボワールの豆らしい。善はコーヒーのことはてんで明るくないが、とても香り高かく、美味しかった。
智視はといえば、漆塗りの湯呑みでほうじ茶を飲んでいる。これはいつもの景色だった。コーヒーがダメなのだ。いつもマスターに頼んで、特別に淹れてもらっている。
この喫茶店「フィリップ・マーロウ」は、我らサークルの主たる活動拠点だった。高校生が生意気にも放課後にコーヒー(と、ほうじ茶)を嗜んでいるのには経緯があった。
一応高校へ届を出している正式なサークルなのだが、肝心の部室が充てがわれていないのである。
部室棟自体はある。修学院大附高の校舎の西側に、モルタルで塗ったくられた、見るからにくたびれた建物が鎮座している。いや、鎮座というほど厳かではない。風で飛ばされぬよう、地面にしがみついている、という表現の方が似合っている。建設が1981年だというから、築年数的にも相当にガタがきており、夏は虫が多く、冬は冷える。善は入ったことはないが、便所(注釈を入れておくが、「トイレ」というより「便所」なのだ)には先代が記した遺言――もとい、いたずら書きが無数に残っているらしい。
八年前に行われた改装工事の対象から見事に漏れた彼は、生徒たちから皮肉を込めて「打ち捨てられた館」なんて呼ばれ、親しまれている。
打ち捨てられたとはいえ、高校生には他に当てがあるわけでもない。限られた部屋数を、あらゆる部活、サークル、同好会、研究会が争うため、常に埋まっているのが実際だ。
改装工事が始まった際、その対象に部室棟が含まれていないことに、当時の生徒たちは大いに憤慨した。高い入学金と学費を巻き上げておきながら、部活に打ち込む生徒の環境整備を怠るとは何事だ、というわけだ。そのうち過激派の一派は、過去の安保闘争よろしく校舎前にバリケードを作ったという噂があったが、実際のところは定かではない。
とにかく、誰が何と言おうと、満室御礼でうちのサークルが入り込む隙のない我が校の部室棟が、それである。
部室棟の部屋をもぎ取ることができなかったことに加えて、我がサークルが喫茶店を使うのは、もうひとつ別の経緯があった。
この喫茶店のマスターは、修学院大学の都市社会学の教授と古い友人らしい。その教授が持っている都市社会学のゼミ生が、昔からここ「フィリップ・マーロウ」を利用していた。
ゼミ生のために夕方以降貸切にして、アルコールを出すこともあるみたいだから、マスターとしても実入りが良く、ありがたかったのかもしれない。
そして二年前、うちのサークルのOBが修学院大学へ内部進学ののち、このゼミに入ったのである。この大いなるファインプレイで、探クルの活動拠点捜索に光が差し込んだのだ。
現在では、月三千円という格安の〝家賃〟で利用させてもらっている。淹れたてのコーヒーという特典まで付いて。
さて、申し遅れたが、我がサークルの活動内容は優雅にコーヒーなどを飲むことではない。聞き込みであり、張り込みであり、尾行であり、そして、推理である。
探偵サークルなのだ。
略称は「探クル」だ。美那未先輩が発明した。
智視への説明は簡単に済んだ。
同じような下りの話をここで行ったことは過去に何度もあるわけで、今回もまた登場人物だけ入れ替えればよかった。途中から智視も、結局どういうことが気付いたみたいで、見るからに嫌そうな顔になっていった。
「ゼンちゃん」
「ん?」
「ザトウクジラのオスは繁殖期になると、なんと歌を」
「逃げるな。今は人間の思春期の話をしてる」
ぬるくなったほうじ茶を啜ってから、智視は鼻から空気を吐き出した。
「いや、まあ気持ちは嬉しいよ。松本さんか。同じクラスの。あの、小柄な子だよね」
「ああ。でも松本さんを操縦しているのは先輩の高橋美緒って人。なんだか、随分積極的だった。松本さん本人は、むしろ無理ならしょうがないって感じ」
善は、カナリアが鳴くような細い声を思い浮かべた。
「高橋、美緒。先輩」
湯呑みを揺すりながら、興味がなさそうに繰り返す。勝ち目のなくなったボードゲームを見るように、顔ごと視線を落としている。どうやって穏便に断ろうか、思考しているのだろう。
「高橋先輩は、何なら可愛く撮った写真を送ると言ってる。同じクラスだからいらないと思うと言っておいたけど」
「英会話どうこう――あれ?」ふいに、智視が顔を上げた。「英会話同好会?」
「だからそう言ってる」
「うちのクラスの、松本さんも?」
「おい、聞いてたのかよ?」善は目を細める。
そうそう、そうだったと、智視は自分の鞄から茶封筒を取り出した。
「ちょうど、今日ゼンちゃんに伝えようと思ってた依頼の主がさ」
偶然の一致か、英会話同好会の代表からだという。
善は顎をさすった。
「今日、ゼンちゃんと一緒に確認するつもりだったから、中身はまだ見てないんだけど」智視は茶封筒の封を切る。「ごめんごめん、僕も今日学校で、美那未先輩から手渡されたんだよ。まとめといたから、ゼンちゃんと先に進めててくれないかって」
テーブルの上に中身を広げた。全てA4のコピー用紙で、計三枚。
ワードで作成されたらしい書面と、集合写真のコピー。そして最後の一枚は、SNSのタイムラインだろうか。スクリーンショットがいくつかペーストされていた。
しばらく二人は三枚の資料を回し読んだ。終始、無言だった。
集合写真のコピーは、昨年度の末頃に撮られたものらしい。「3.7」と、日付が走り書きされている。卒業生の送別会での一枚のようだった。もちろん写っているのは、英会話同好会のメンバーだ。
そのうち一人の女子生徒が赤いボールペンで囲んであった。智視も、そして善も、この子を知っていた。短く整えらえれたボブカット。華奢な体躯。
一枚目のワード文書に記載された文字列を改めて見た。
〈調査対象〉
〈普通学科二年〉
〈英会話同好会〉
〈松本郁〉
恋する少女は、渦中のカナリアだ。




