人狼と赤い月
人狼である犬神ヤシャにとって、満月は理性を失わせる恐るべき敵であると同時に、力強い獣の能力を与えてくれる頼もしい味方でもあった。理性を保つことさえできれば、オオカミの能力は非常に強力な武器となる。
不意を突かれなければ、突然満月の影響を受けるようなことにならない限り、犬神は人狼としての力を制御する自信があった。
地下室に巣食う何者かの正体は解らないが、犬神を排除するために満月を見せたのだとすれば、それは間違いだ。
犬神は階段を肉球で降りた。爪で床をこすらないようにすれば、足音はほとんど出ないのだ。
地下室にたどり着くと、四緑カオリが着替え終わったところだった。巫女のような羽織と袴を身に着け、カオリは横になる前に、犬神に気が付いた。地下室では式神に守られている。犬神の腰ほどまでしかない無数の木像が、行く手を妨げる。部屋の中央には五芒星が描かれていた。
カオリは犬神を見つめた。半獣と化した犬神が、人としての理性を保っていることを理解したのだろう。小さくほほ笑んだ。
「少し休むわね」
「……ああ」
しわがれた声が出た。声帯も変化しているため、言葉を発するのも難しかった。
式神を信用しているのか、犬神を侮っているのか、あるいは犬神を信頼しているのか、犬神が見ている前で、カオリは横になった。五芒星に寄り添うように、まるで貼り付けにされたかのように、床に咲く花となった。
木像が動く。
犬神は動いていない。地下室の入口で、ただカオリを見つめていた。
無数の木像が、中央を向いた。木像は首が動かないため、本当に向かっているのは天井だろうと感じた。
裏界が開かれた。
赤い世界、赤い月。
花屋兼喫茶店、五芒の月の建物全体が、異質なものに変化したような感覚が生じた。
これが、いつものことなのだろうか。犬神は地下室を見つめ続けた。
カオリはすでに眠りに落ちていた。動く気配はない。
何かが動いている。
――いや、鼓動している?
部屋全体が鼓動しているかのように、歪んでいるような錯覚を覚えていた。
いつものことだとは思えなかった。犬神は部屋に入ろうとし、思いとどまった。式神たちが必死にカオリを守ろうとしているなら、邪魔をしてはいけない。地下室の外壁を掴んだ自らの手に、犬神は硬直した。
人の手だった。体毛の少ない、長い指に短い爪が生えていた。
「誰か来たわ」
カオリの声だった。自分の手を見ていたところだったので、突然の声に驚いた。カオリは眠っていると思っていたからだ。犬神が顔を上げると、カオリの上半身が起き上っていた。左手を上げ、斜め上を指さしていた。まぶたが上がり目を開けているが、いつもの生き生きとした力がなく、焦点があっていない。
犬神が見ている前で、一言だけ発し、カオリの体は背後に倒れた。眠っているのだ。
おそらく、誰かが来たのだろう。どう対処するかは、犬神に任せるという意味だろうか。犬神は人の姿に戻ったのが、赤い月が沈んだからではなくウィザードの力が弱っているのだと感じた。裏界は開かれたままなのだ。訪問者が敵であれば、戦いにすらならないかもしれない。
犬神は階段を上り、カウンターの裏に置かれていた消火器を手に取った。




