人狼と裏界の月
犬神ヤシャは一仕事を終え、至福の時を過ごしていた。
目の前にはきれいに磨かれたテーブルがあり、カップの中のコーヒーが柔らかい湯気を上らせている。
地震で散乱した店内を片付けるのは大変な仕事だったが、見返りがあるなら悪くない。店主からのほんの少しの感謝であったとしても、相手によっては悪くない。
学校に戻ればまた仕事が待っているのだろうが、少しぐらいはのんびりしてもいいだろう。
モーニングサービスはやっていないはずだったが、厨房からエプロン姿の四緑カオリがトレーを捧げてきたのが見えた。サンドウィッチと卵料理という本当に簡単なものだったが、たった今カオリが調理してきたものだと思えば、犬神にとっては最上の料理だった。
「お疲れさま、助かったわ」
カオリはトレーからテーブルに料理を移しながら、犬神に笑いかけた。犬神は頬崩れるのを自覚した。
「たいしたことじゃありません。大変な時はお互い様です」
「そうね。ありがとう」
カオリは厨房に戻ろうとする動きを見せた。犬神は料理に手を伸ばそうとした直前で、動きを止めた。
「まだ、用が残っているなら手伝います」
「いえ、大丈夫よ。少し疲れただけ。いつもはまだ、花の世話をしている時間だから」
犬神は席に座り直し、四緑カオリはカウンターの向こうに消えた。犬神はカオリの動きを目で追い続けた。厨房ではなく、厨房へ続く通路の途中にある扉の向こうに消えようとしていた。
地下室への階段があるはずの扉だった。
犬神は地下室を思いだした。
木彫りの像が無数にあり、カオリ以外の侵入者を拒んでいる。カオリは安心して休むことができるはずだ。安心して休んだカオリを、巨大な女の顔が見つめていた。
――あの顔はなんだ?
カオリのために働くことに夢中になり、忘れていた。あるいは、考えるのを後回しにしていた。犬神は皿の料理を一口味わってから、椅子を立った。
「カオリさん」
「何?」
扉を開けながら、カオリが振り返った。
「あそこに戻っちゃ駄目だ」
「何か見たのね? ありがとう」
意外にもカオリはほほ笑んだ。怒るでも、厭うでもなく、ほほ笑んだ。カオリは知っているのだと、犬神は確信した。
カオリはほほ笑みながら、階段を下りた。
犬神は椅子から立ち上がり、カオリを追おうとした。
立ち上がった犬神の腰が崩れた。
体の構造が変わったのだ。
カオリが消えた扉の上に、赤い月が昇っていた。
裏界が開かれたわけではない。
ただ、赤い月があった。
犬神は獣と化してひざまずいた。
意識がかすむ。獣へと変わる。その直前で、犬神は耐えた。
姿がオオカミになろうとも、精神の混濁まではこらえた。
二本足で立ち上がる。全身が剛毛に覆われ、顔の形は変わっていたが、犬神は人の原型をとどめたまま、オオカミの能力を手にしていた。
赤い月を睨みつけ、犬神はカオリが降りていった階段を目指した。




