魔王の毒
玄関から家の中に飛び込んだ地裏ムカサを、長い髪をした女が待ち構えていた。床に着くほどの長い髪を無造作に垂らし、髪の合間から見える顔は腐肉のような色をしている。表情はない。ただ眼だけが目立っていた。
歩いているようには見えない。足は動いていない。それでも、女は近づいていた。
ムカサはほんのわずかの間でも、恐怖に囚われそうになった。
あまりにも異様な、不気味な光景に、体が硬直した。
同時に、首筋が痛んだ。
昨夜、魔王レビュアータに深々と牙を刺しいれられた痕だった。
レビュアータの牙には毒がある。
ムカサに打ち込まれた毒が、体をむしばみ始めたかのような痛みに、ムカサは悟った。もはや、恐怖することは許されないのだ。
全身の龍脈を操り、拳に力を集約させる。
女が目の前に迫った。
ムカサの拳が、女の胸を貫く。
手ごたえすらなく、拳が突き抜ける。
女の姿が霧散した。
だが、裏界は開かれたままだった。
「昨日とは違うわね」
「学習しているのかもしれないな」
「学習? あの女が?」
ミツコの声が裏返った。それほどおかしなことだろうか。ムカサは女が勉強している光景を想像し、確かに可笑しいと思い直した。
「ただの思い付きだ。気にするな」
「……そう」
ミツコは納得してはいないようだったが、それ以上追及しなかった。言い争っている場合ではないのだということは、共通の認識なのだ。
ムカサは玄関からフローリングの廊下に上がった。昨日と同じ間取り、同じインテリアの家だ。今は裏界の中にある以外、昨日と何も変わらない。
ただし、ムカサの行動は違った。靴を脱がず、土足でフローリングの板を踏みつけた。
家全体が、鼓動したように感じた。怒っているのかもしれない。ムカサはひるまなかった。次の一歩を踏み出そうとした途端に、前方の扉が乱暴に開けられた。白い手が、零れ落ちるように部屋から廊下へ飛び出した。ただ廊下を叩いた。
「またあの女かしら」
ムカサと同じように土足で廊下に上がり、立ち止まったムカサに変わって前に出ようとしたミツコの前に、ムカサは腕を出した。ムカサの腕に止められ、ミツコが足を止めた。
「呼ばれているのは俺だ」
ムカサは覚えていた。扉が開け放たれたあの部屋で、ムカサはおさな子を殺したかもしれないと恐怖した。女を殺さざるを得なかった。ムカサは罪を犯したかもしれないと恐れた。
ムカサは、恐れた。
「一人で大丈夫?」
「ああ……ミツコはどうする?」
背後からミツコに言われ、感情が高ぶっていたムカサは素直に答えた。だが、一人で挑むつもりだったわけではない。
ムカサが振り返ると、ミツコは一点を見つめて固まっていた。
二階の一室だった。
ミツコも、思うところがあるのだろう。
ムカサの問いに、ミツコは答えなかった。
戦力を割るのは危険だとも思えた。
だが、ムカサは同じ過ちを犯すつもりはなかった。
勝てないことが問題なのではない。恐れを抱くことが問題なのだ。
「そっちは任せる」
「ええ。解った」
いつもの不景気な声で答えたミツコの声を背中に聞き、ムカサは前に進んだ。




