犬神ヤシャ
地裏ムカサは、助かったと感じたとは認めたくなかった。声を出したくなかった。同じウィザードである呪香ミツコも同様だったらしい。ミツコは外から呼びかける犬神ヤシャの呼び声にこたえる代わりに、巨大な竹ぼうきの形をした科学技術の結晶を媒介に、力を放った。
放たれた魔力は、目の前の女の姿をしたものを貫かず、天井に激突して家を揺らした。
「ミツコ、ためらわなくても、こいつイノセントじゃないだろう」
「うるさいわね。遠いから、狙いを定めるのが大変なのよ」
それほど遠くはない。おそらく、威力が大きい分狙いが定まらないのだ。
だが、効果はあった。家の中で事件が起きていることを、外にいる犬神ヤシャに伝えることができた。
廊下を這う女が、意識をそらされたかのように動きを止めた。背後を振り向く。玄関の扉が破壊された。
ミツコがさらに追い打ちをかけようと箒を振り上げたとき、ミツコによって破壊された二階の天井がミツコを押しつぶした。
「先生、ここです!」
けたたましい足音とともに、犬神ヤシャが駆け上がる。犬神の目には、身動きの取れないムカサと、天井に押しつぶされたミツコと、得体のしれない物体が写っていたのに違いない。
異様な光景に、明らかに犬神が硬直した。あるいは、生徒たちを助けるべきか、廊下を這う女を攻撃するべきか、迷ったようだ。
犬神が次の動作に移る前に、裏界が開かれた。
赤い月が上がる。
犬神ヤシャは人狼である。
ムカサは動けない。ミツコは反応がない。
ただ首の骨を折られた女の姿をした者だけが動ける状況で、唯一助けに入った犬神の動きが止まった。
犬神の体が変化する。
全身を剛毛が覆い、爪が長く伸びる。歯茎が前にせり出し、額が狭く、耳が上に伸びる。
体の変化とともに、犬神は廊下に両手を着いた。
「……先生?」
裏界の赤い月に反応し、犬神が変化したことは間違いない。問題は、犬神が意識を保っているのかどうかだ。
犬神ヤシャだったオオカミが、高く遠吠えした。まるで、先ほど廊下の女が発したような、女が発したより、力強く、凶暴な声だった。
――駄目だ。
犬神が跳躍した。廊下の女を飛び越え、ムカサに迫りつつあった。ムカサを助けようという動きではなかった。犬神の突き出た牙の先端が、明確にムカサの喉に迫りつつあった。
ムカサは動けなかった。しかし、おびえもしなかった。
ムカサを殺そうとする犬神の顔を睨みつけた。首しか動かないのなら、相手がオオカミだろうと噛み千切るつもりでいた。
だが、ムカサが毛だらけの皮膚に噛みつく必要はなかった。犬神の背後、はがれた天井の上に、五芒星が輝いた。
突如、犬神が巨大な手に押さえつけられたかのように、不自然に廊下に落ちた。
動けないのか、じたばたともがいている。
裏界が解除され、赤い月が失われた。
廊下を徘徊する女はいつの間にかいなくなり、動けない犬神が人間の姿に戻る。犬神の上に、革のつなぎを着た、見事な肢体の持ち主が足を乗せていた。
「大丈夫? 地裏くん」
「カオリさん?」
エプロン姿が印象的だった花屋兼喫茶店のオーナー、四緑カオリだった。




