狂気と現実
目と口を限界までひろげ、絶望に満ちた声を発する女に対し、地裏ムカサは立つ尽くすことしかできなかった。ムカサの足元には、相変わらず幼児が身動きもせず転がっている。目を見開き、鼻と口からは血が垂れていた。
女が幼児に飛びついた。止めることはできなかった。
誰のせいなのかと言えば、ムカサが責任を免れることができるはずがない。
女は幼児を抱き上げた。
うずくまり、子供を抱く女は、ムカサに首筋を見せていた。
無防備だ。
あまりにも、無防備に見えた。
「殺すの?」
今までのとつとつとした口調が嘘のように、女が鋭い声を発した。
「何?」
思わず聞き返していた。答えを欲しかったわけではない。だが、女は答えた。
「この子と同じように、私も殺すの?」
女は振り返り、立ち上がった。
「こうして、私も殺すの?」
女は、幼児を抱いてはいなかった。両手で幼児の足首を持ち、ぶら下げた。
逆さ吊りになった幼児は、両腕をだらりとたらし、重力で顔が歪んでいた。眼球が床に向き、口からあふれた血液が顔を上っていた。
見たことがある。ムカサは思った。
この部屋に入ろうとした瞬間、ムカサは女が逆さに吊られている姿を見た。
その時は一瞬だった。
その時は逆さ吊りにされていた女が、今は子供を逆さ吊りにしていた。
「こうして、あなたも死ぬの?」
ムカサは転倒した。ムカサの鍛えた体で、運動神経で、ただ転ぶことなどほとんどない。足元をすくわれたのだ。しりもちをついた。
足首に、黒いひもが巻き付いていた。
ひもではなかった。
髪の毛だ。信じられないほど伸びた髪が、ムカサの足首に巻き付き、ムカサがバランスを崩すほど強引に引き寄せた。長い髪は女のさらに背後から伸びていた。壁を登り、天井まで達していた。
天井に、目の前の女の顔をさらに醜悪にしたような、恨みとも苦しみともとれる表情をした顔が浮かんでいた。
だが、あまりにも異常な状況が、ムカサを冷静にさせた。
――まやかしだ。
人間の、ましてやイノセントの仕業であるはずがない。ムカサは全身に意識を集中した。龍使いとしての力を最大限に生かすため、体内の龍脈を覚醒させる。
ムカサの体が引きずられる。
ムカサを逆さ吊りにするつもりなりだろう。
幼児を持った女は、むしろ笑いを浮かべて、床のムカサを見降ろしていた。
ムカサの腹に、幼児がどさりと落ちる。ムカサにもはや動揺はなかった。ムカサの腹に落ちた物質は、人間の子供ではない。
女が体をかがめていた。
女の顔が迫る。
青白く、不気味に笑っていた。
女の口が、耳まで裂けた。
幼児を捨てた手を、女はムカサに伸ばした。
「望むところだ」
ムサカは、女に後頭部を掴まれながら、龍脈によって筋力を最大以上にまで引き上げた両手で、女の頭部を掴んだ。




