第九話
昇り始めた朝日に照らされる山の斜面。
肩で息をする時雨を気遣うように、玄兎は幾度も振り返る。
「……少し休もうか」
玄兎の言葉に時雨は俯いていた顔を上げる。
汗ばんだ身体が気持ち悪い。
頭が痛くて、思考がぼやけている。
それでも、玄兎の気遣う顔だけは、時雨の瞳にはっきりと映った。
「いえ、まだ……」
不安定な足場に気を取られて、時雨は身体をふらつかせた。
玄兎が繋いだ手を引き、支えてくれていなければ転んでしまっていただろう。
「今すぐ追手が来るわけでもないから、焦らなくて大丈夫だよ。……時雨?」
ぐらぐらと世界が揺れている。
上下も分からなくなりそうな眩暈の中、唯一確かな温もりにすがりながら、時雨は意識を手放した。
目の前がぼやけ、頬が熱い。
手に土の感触が触れている。
「なにやってんだいこの愚図! あたしが起きるまでに終わらせておけと言ってただろう!」
目の前で響く祖母の怒鳴り声。
少し離れて、辟易したような視線を向ける祖父。
向こうの部屋からは、酒に溺れたまま眠りについたらしい父のいびきが聞こえてくる。
いつもの光景。
ただの日常の中で、幼い時雨は立ち上がり頭を下げる。
「……申し訳ありません」
奉公先である村長の屋敷で、時雨は荷物を抱えて駆け回る。
今夜は客人を招いた宴があるそうだ。
朝から座敷の準備をして、食材を運び、客室の掃除をする。
厨房へと戻る途中、廊下を踏みしめる足が滑った。
「……っ」
勢いよくその場で転んだ時雨は、すぐに立ち上がろうとするが、眩暈を覚え、その場に蹲る。
……今朝からなにも食べていない。
朝を抜くことは珍しくないが、昼食を摂る暇もなく用事を任されるのは久しぶりのことだ。
「おおい! なにぼさっとしてんだ!! 早くこっち手伝え!!」
叱責の声に、時雨は無理矢理立ち上がり頭を下げる。
「……申し訳ありません。すぐに」
雨に打たれて、身体が重くなる。
目の前の戸は先ほど荒々しく閉ざされたばかりだ。
今日は宴の準備に手間取り、帰りが随分と遅くなっていた。
更には、雨に降られて、今朝干していった洗濯物は台無しになっていた。
それだけで、祖母の逆鱗に触れるには十分すぎたのだろう。
少しでも雨が避けられるようにと、庭の木の下で時雨は小さく蹲った。
身体がどんどんと冷えていく。
寒いはずなのに、雨水に混じって汗が滲んできていた。
くらくらと視界が歪む。
……明日の朝こそ、祖母の不興を買わないように、しっかりと働かなければならないのに。
「こら! 雨なんだから、早く帰ってきなさーい!!」
「……はーい!」
遠くで親子の声がする。
帰る場所。
時雨は、そっと胸の辺りを抑えてしまった。
頬を雨水が伝っていく。
何故、こんなにも寒いのだろう。
「……今日は、玄兎に会えていませんね」
「……時雨!」
必死な玄兎の声に、時雨は重たい瞼を持ち上げる。
「……玄兎?」
「良かった……起きなかったら、どうしようって……思った」
だるい身体を起こそうとするが、容易く止められ、玄兎の腕の中に戻されてしまう。
「無理しないで。……いや、俺が無茶させたんだね。ごめんね、時雨」
「……いえ、平気です」
ゆっくりと首を横に振る時雨に、玄兎はくしゃりと顔を歪める。
「平気じゃないよ。まだこんなに、熱も高い……薬を用意したけど、飲めそう?」
「……そこまで、していただかなくても」
「……時雨。お願いだから」
泣きそうな顔で差し出された薬を拒絶は出来ず、時雨は眉を下げながら薬を受けとる。
渡された水で薬を飲んだ時雨を見て、玄兎はようやく少しだけ笑みを浮かべた。
「……寒くはない?」
汗を拭い、外套をかけてくれる玄兎に時雨は小さく頷き返す。
まだ、少し熱で意識はぼうっとしている。
頭の奥もずきずきと痛む。
けれど、不思議と胸の奥は穏やかだった。
汗で額に貼り付いた髪を払い、時雨の熱を確かめるように触れる玄兎の手に、ゆっくりと目を閉じる。
あの雨の寒さはもう、忘れてしまいそうだった。




