第八話
暗くなり始めた部屋の中。
いつものように明かりを灯す。
いつもと違う部屋の様子を眺めながら、時雨は一つ息を吐いた。
片付けられた室内には、塵一つ落ちていない。
障子の向こうを気にかけながら、部屋の真ん中に置いた小さな荷物に視線を向ける。
「……必要なものは、玄兎が用意してくださると言っていましたが」
包みの中に纏められた手拭いや、少しの食糧。そして、古い縫い針と糸を見つめて、もう一度中に仕舞っていく。
「……本当に、良いのでしょうか」
呟いた時雨の声は、灯りが焦げる音に溶けて消えた。
村の中が静まり返った頃。
障子がゆっくりと開けられて、月明かりが部屋に差し込んだ。
「……お待たせ」
支度をすませた時雨の姿を見て、玄兎は笑みを深くする。
部屋に入り、障子を閉めて当然のように時雨の身体を抱き締めた。
時雨は、眉を下げながらも抵抗できず、ただ顔を熱くする。
「……準備は俺がするから大丈夫だって言ったのに」
「いえ、その……任せきりはどうかと、思いまして」
時雨の言葉に玄兎はクスリと笑い声を溢し、背負っていた大きな荷物を畳に下ろす。
「ありがとう。ただ……その格好は旅には向いてないから、着替えよっか」
「あ……ですが、これ以外、ちゃんとした着物を持っていなくて」
玄兎は一度言葉を止めて、時雨を見つめた。
時雨は玄兎の機嫌を損ねたかと、焦って頭を下げようとする。
「あの、申し訳……」
「謝らないで。……大丈夫、俺の着物を何枚か渡すね」
時雨が頭を下げる前に玄兎は時雨を抱き寄せて、胸の中へと閉じ込めてしまう。
再び、柔らかな笑みを浮かべた玄兎に時雨は肩の力を抜いた。
髪を梳かすように頭を撫でられて、時雨はまた頬を熱くしてしまう。
「……取りあえず、着替えよう」
言葉と同時に時雨の着物に手をかける玄兎に時雨は焦りを隠せなくなる。
「あの! じ、ぶんで着替えられますので……」
玄兎の手を止めようと伸ばした手を握られて、時雨は震えた声を出す。
「俺が、したいんだけど……駄目?」
「いえ、その……だめ、と言うわけではないですが」
視線を逸らす時雨の顔を少し見つめた後、玄兎はゆっくりと時雨の手を離す。
「……分かった」
少し眉を下げてポツリと告げる玄兎に時雨はほっと息を吐く。
嫌なわけではないが……恥ずかしくて、任せるなんて出来そうもない。
手早く着物を脱ぎ、玄兎の渡してくれるものを羽織る。
「……あの、玄兎。そんなに、見られると……その」
ずっと向けられている玄兎の視線に、帯を締めようとした手を止めて時雨は視線をさまよわせる。
「……駄目だった?」
「だめ、ではありません……が」
自分の着替えなど面白げもないはずだが、玄兎の口角はずっと上がったままだ。
玄兎に見守られながら、着付けを終えると、玄兎は待ちかねていたように時雨を腕の中に収める。
「似合ってる……けど、少し幅が大きいね。丈は大丈夫そうだけど……動きにくくない?」
「あの……この体勢だと、分かりません」
おずおずと見上げる時雨に、玄兎は笑い声を上げる。
「……確かに、そっか」
頷きながらも玄兎は腕の力を緩めることはない。
「……これから、美味しいものも沢山食べようね」
片腕ででも抱き寄せられそうな時雨の腰に手を添え、玄兎は瞳の端を和らげた。
「……私は、その……最低限のもので構いませんので」
「……俺が、時雨と一緒に食べたいんだよ」
耳元で内緒話を伝えるような玄兎の声色に、時雨はそれ以上なにも言えずに、小さく頷きを返す。
玄兎は時雨の額に口付けを落とし、名残惜しそうに時雨から身体を離した。
誰もいない夜道。
灯りの消えた家。
玄兎に手を引かれ、時雨は俯き歩いていく。
「玄兎は、その……村の方々にお会いしなくて、よろしいのですか?」
このまま時雨と共に行くのなら、この村にはもう戻れないかもしれない。
玄兎には家族や、友人だっているはずだ。
時雨は空いた手を胸元で握り締め、玄兎の表情を見れないままに問いかける。
「大丈夫だよ。……昼間のうちにね、町に戻るって皆に挨拶して一度村を出たから」
「昼間のうちに……その、急にこんなことになってしまい、申し訳……」
「謝らないでって。……俺、急いで荷造りして支度するのも慣れてるから大丈夫だよ」
謝罪に言葉は遮られ、手を引かれた。
隣に立つ玄兎の顔を見上げながら、時雨は首を傾げる。
「……慣れているんですか?」
「うん。あ、夜逃げじゃないよ? ただ、薬師の師匠が近くの村とか町に行く時に、急に荷物持ちとか任されたりってよくあったから……」
「夜逃げじゃないのは、分かっていますよ」
小さく笑みを溢した時雨に、玄兎は繋いだ手を強く握り締めながら、頬を綻ばせた。
村外れの山へと続いている道へと二人で進む。
幼いあの日を辿るような足取り。
「道は大変かもしれないけど、こっちの方が気が付かれにくいだろうから……」
玄兎が言葉を止めた。
「……玄兎」
壮年の女性が、道を塞ぐように立っていた。
同じ年頃の男性が、女性を支えるようにして寄り添っている。
「……母さん」
玄兎が女性の顔を見つめて呟く。
落ち着き払った態度で。
足を止めた時雨をいつでも庇うようにと、玄兎は半歩だけ前に出る。
「玄兎。こんなことはやめなさい……お願いだから、村に戻って……」
苦しげに伝える母親に、玄兎は静かに首を横に振る。
「……どうなるか、分かっているの?」
玄兎の母親は次々に涙を溢れさせながら、玄兎に強く言葉を投げ掛ける。
「こんなことに、先はないのよ……お願いだから村に戻ってきなさい。薬師になってこの村に戻って……お嫁さんを貰って……きっと、子供だって出来て、幸せになれるわ」
玄兎の未来を願う暖かい言葉。
時雨は繋いだ手を離そうとするが、玄兎がそれを許してくれない。
「それは……俺が欲しい幸せじゃないよ」
玄兎の母親は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
流れた涙に濡れ、くしゃりと歪めた顔を隠しもせずに、彼女は時雨を見る。
「……お願い。お願いだから、私の息子を連れていかないで……殺さないで」
地面に擦りつけるように下げられた頭に時雨は呼吸を止めた。
足元でじゃりっと土が擦れる音が鳴る。
時雨の手が痛いほどに強く、握られた。
「……違うよ」
玄兎の手が、時雨の肩を掴み、強く抱き締めた。
「俺が、時雨を連れていくんだよ。死なせたくないから。……一緒に生きたいから」
母親は顔を上げ、玄兎の瞳をまっすぐと見つめ返す。
彼女は堪えきれぬ嗚咽を漏らしながら寄り添う夫の胸に顔を埋めた。
「……玄兎」
父親が泣きじゃくる妻を胸に抱き、静かに、しかし、重い声で呼び掛けた。
「……全て失うかもしれない。それでも良いんだな?」
反対側の山の中腹、社を一瞥し、玄兎へ視線が向けられる。
「……俺が一番失くしたくないのが、時雨だから」
玄兎は見上げる父親の顔を見つめ返し、震える時雨の身体を抱き締めた。
少しの沈黙が場に降りる。
聞こえるのは子を思う母の嘆きだけだ。
「……いきなさい」
沈黙を破る声に、玄兎は一つ頷きを返し、何も言えずにいる時雨の肩を抱き、二人の横を通りすぎる。
玄兎の名を繰り返す、慟哭。
時雨は、前を見つめ続ける玄兎の腕の中で、重い足を引きずりながら、何度も後ろを振り返り続けた。




