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第七話


 布団ではない暖かさ。

 静かな室内で、規則的に刻まれる耳慣れない音。


 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、敷布の白ではなく、少し日に焼けた肌色が目に映った。


 昨夜のことを思い出した時雨は、思わず頬を熱くしてしまう。

 身を起こそうとしても、腰に回された玄兎の腕が緩む気配はない。


 素肌の触れ合う感覚に心地よさと戸惑いを抱えながら、時雨は顔をあげる。


 誰かの寝顔を眺めるなんて初めてかもしれない。


 ゆっくりと休んでいて欲しいという感情と、早くその瞳を見たいという欲が交差する。


「……玄兎」


 確かめるように呟いた言葉に、腰に回された玄兎の指先がピクリと動いた。

 ゆっくりと瞼が持ち上がり、焦点のぼやけている瞳が現れる。


「あ……申し訳ありません」


 ふらふらとさまよっていた瞳が時雨を捉えた。

 そしてすぐに、ふにゃりと和らぐ。


「……おはよう」


 そのまま、胸の中に囲い込むように抱き締められ、鼓動の音が近くなる。


「……げ、玄兎」


 時雨は頬を熱くしながら顔を俯かせる。

 しかし、視界に入る肌色にいたたまれなくなり、顔を上げた。


「……起きてすぐ、時雨がいるの嬉しいよ」


 目を細め、髪を梳くように頭を撫で始める玄兎に時雨は何も言えなくなってしまう。


「……時雨はおはようって返してくれないの?」


 少し甘えたような声で首を傾げ、ねだる玄兎に時雨は小さく、言い慣れていない言葉を返す。


「……おはよう、ございます」


 ますます上機嫌になる玄兎に抱き締められて、時雨は再び視線を落とした。



 時雨の視線の先。

 見慣れぬ肌を見慣れた黒が、汚している。



「っ……玄兎、離してください」


 腕の中で身を固くする時雨に玄兎が首を傾げる。

 しかし、時雨の視線を辿り、納得したように声を漏らした。


「ああ……これが淀み?」


「……そうです。申し訳、ありません」


 唇を噛み締め、俯く時雨の背を優しく撫でて、玄兎は自分の肩を観察する。


「……まだ、時雨のよりも全然薄いね」


 まるで他人事のような言葉に時雨は顔を上げた。

 離れようとする身体を、寧ろ密着する程に抱き締められてしまう。


「離してください……淀みがまた、移ってしまいます、から」


 時雨は黒が落ちた玄兎の肩に顔を埋めて、震える声で呟いた。

 しかし、玄兎が時雨を離す様子はない。


「いいよ」


 耳元で囁かれた言葉に、時雨は眩暈を覚える。


「……いいわけないです」


「……いいよ。時雨と一緒が良い」


 抱き締める力が緩み、少しだけ身体を離した。


 腰に回された手はそのままに、玄兎は時雨の顔を軽く上向かせながら、頬をゆっくりと撫でる。


「……だめ、なんです。あなたに抱えさせたくは、ないんです」


 時雨の瞳にじわりと涙が滲んだ。

 玄兎はこぼれ落ちそうなそれを唇で拭うように、目の端に口づけを落とす。


「時雨が抱えるなら、俺も一緒だよ。苦しいのも、辛いのも、嬉しいのも全部一緒がいい」


 目の前の幸福を滲ませた瞳から逃げようとしても、頬に添えられた手が許してはくれない。


 時雨は喉から溢れそうになる言葉を必死で抑えるために、口を閉ざす。


「……一緒に村から逃げ出そうよ。時雨が犠牲になる必要なんてないんだよ」


「……いけません。これが、私の……最期の役割なんです」


 返した声はやはりみっともなく震えていた。


「……なら、俺もここに残るよ。時雨の傍でずっとこうしてる」


 肩に顔を埋めるように、玄兎は時雨を抱き寄せる。


 触れる素肌の心地よさと淀みが蠢く感覚に、時雨の瞳から涙が溢れ落ちた。


「離して、ください……触れてはいけません。淀みのせいであなたを死なせたくは、ないんです」


 玄兎は顔を埋めたまま、軽く首を横に振った。

 そして、時雨の身体を抱き締める腕の力を強める。


「……時雨が俺のこと嫌いだから、触れられたくないって言うならやめるよ」


「……そんなこと」


 言えるわけがない。


 黙り込んだ時雨に顔を上げた玄兎が眉を下げながら、笑いかける。


「……村から出れば、これ以上蝕まれなくて済む。そしたら、俺も時雨ももっと生きていられるかもしれない。だから……お願い」


 すがるような視線に時雨は何度も息を詰まらせそうになる。


 玄兎の肩に視線を落とせば、淀みに蝕まれた証があった。


 今はまだ薄く小さな痕。


 時雨が淀みを受け続け、それを移し続ければいずれは……。 


 幾度となく考えた自分の末路。

 それが玄兎にも訪れてしまう。




 それは。

 それだけは。




「……連れて、いってください」


 ポツリと呟いた小さな言葉に、玄兎は柔らかな笑みを浮かべた。


 もう一度、時雨を強く抱き締め、額に暖かな口づけを落とす。


「……今夜、迎えに来るね」


「……はい」










 朝焼けの中、何度も振り返りながら歩いていく玄兎の背中を見送り、時雨は一人、部屋へと戻る。


 昨夜の花は、花瓶に挿されることもなく、畳に放り出されたまま、朽ちていた。


 時雨はそれを横目に、敷かれたままの布団に手を伸ばす。


 朝の冷たさが満ちた部屋で、そこだけが温もりを帯びていた。




 

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