第六話
夜の冷たい空気が漂い始めた外。
隔絶された部屋の中で、時雨は黙って障子の傍に腰を下ろす。
玄兎が来るにはまだ早い時間。
いや、もしかすると今夜は来ないかもしれない。
来ない方が良いはずだ。
それでも、時雨は灯りをつけて、外の音に耳を澄ませてしまう。
ふと、部屋に置いた花瓶が時雨の目に映った。
昨夜の玄兎の置き土産。
花びらは全て落ち、茎だけが花瓶に残っていた。
時雨はぼんやりと色味のない部屋の中を眺めていたが……。
突然、外から大きな音が鳴り響き、大きく肩を跳ねさせる。
「……雷」
その音に続き、桶に貯めていた水を引っくり返したような勢いで地面を叩く雨の音が、外の音をかき消す。
障子の隙間から外を覗けば、雲が完全に空を覆ってしまっていた。
「……この天気では、きっと来れませんね」
沈んだ声でポツリと呟く。
しかし、時雨は障子の傍から離れられない。
少しの間、黙り込み、傍の戸棚から手拭いを数枚取り出す。
障子を薄く開いて、雨がかからないように手拭いを縁側に並べた。
雲の向こうで日が沈んでいく。
障子の隙間から覗く外は、完全な暗闇に包まれ、雨音以外聞こえなくなる。
「……今日は、もう」
来ないのだろうと、時雨は障子に手をかけた。
しかし、その手は宙で止まる。
向こうから駆けてくる影。
雨に遮られて、誰かなど判別もつかないはずだが。
「……玄兎」
時雨は慌てて障子を閉める。
少しの間を置き、ばしゃばしゃと水が跳ねる音と、聞きたかった声が時雨の耳に飛び込んでくる。
「時雨! ……ごめん、遅くなった」
玄兎は肩で息をしながら、軒先に駆け込む。
そして、一度息を飲み、弾むような声で言葉を続ける。
「……手拭い、用意してくれたんだ。ありがとう」
時雨は熱くなる頬を、誰に見られているわけでもないと分かっているが、両手で抑えて隠し俯いてしまう。
「……何故こんな天気の中来たんですか?」
「何故って……時雨と一緒に居たいから」
当たり前のように言葉を返す玄兎に、時雨はなんと返せば良いのか分からなくなってしまう。
「ただ、雷も鳴ってたから、雲が過ぎるのを待ってたんだけど……全然過ぎそうになかったから、我慢できずに走って来ちゃった。だから、遅くなってごめんね」
玄兎が謝る必要などない。
時雨はいつもよりも早い鼓動が外に聞こえないように、そっと胸元を抑える。
「……濡れたままそんな所に居ては風邪を引いてしまいます。今夜はもう、お帰りください」
「……この、雨の中を?」
「……それは」
時雨は口を閉ざし、視線をさまよわせる。
「……俺は時雨と一緒に居たいけど、時雨はそうじゃない?」
「そんなことは……!」
つい声が大きくなってしまった。
時雨は頬を熱くしながら言葉を切り、口元を手で抑える。
玄兎の楽しげな笑い声が聞こえて、時雨は眉を下げ、言葉を選びながら口を開いた。
「そのままでは、風邪を引いてしまいます。なので、どうか……」
帰って欲しい、その一言が出せずに時雨は視線を下に落とした。
玄兎はその言葉に、少し黙り、静かな声で時雨に語りかける。
「……なら、ここを開けて欲しい」
時雨の呼吸が止まる。
「……俺は時雨とちゃんと目を見て話したい。お願いだから」
玄兎の声は少し震えている。
障子の向こうで雨音に紛れて、着物からポタリと雫が落ちる音がした。
「……そこに居ては、風邪を引いてしまいます」
時雨の頭の中で警鐘が鳴っている。
それは駄目だと。
ここを開けてはいけないと。
「雨が止むまでは、帰れないでしょう、から……中に、どうぞ」
外で冷たい空気に晒されてはいけない。
雨足が弱まるまでの雨宿りだから。
言い訳を並べて時雨は目を伏せた。
視界の端でゆっくりと障子が開かれていく。
濡れた着物の裾が目に入った。
顔を上げることが出来ない。
時雨の脳裏に、村人たちの視線が過る。
嫌悪、拒絶、恐怖。
玄兎の目に映る淀みに侵された醜悪な姿を想像するだけで、背中を嫌な汗が伝った。
「……会いたかった」
小さく呟かれた言葉に、思わず顔をあげてしまう。
泣きそうな、嬉しそうな玄兎の顔が時雨の瞳に映った。
幼い頃と変わらない、時雨と過ごすときの笑顔。
玄兎の視線が時雨の指先から頭の先までをゆっくりと辿っていく。
「……背が伸びたね。それに、少し痩せちゃった?」
玄兎が部屋の中に、静かに足を踏み入れた。
時雨は黙って玄兎の顔を見つめ続ける。
「でも、昔から変わらず……綺麗だね」
時雨が目を大きく見開く。
そんなわけがない。
口を開きたくても、玄兎の柔らかく細められた瞳が時雨の言葉を奪ってしまう。
「……これが、淀み?」
玄兎は時雨の傍にしゃがみ、そっと手を伸ばす。
泣きそうな程にくしゃりと歪められた表情に、伸ばされた手に、時雨は肩を大きく跳ねさせた。
玄兎は時雨の様子に、手を止める。
「……痛い?」
そのまま触れようとはせずに、時雨の表情を覗き込む。
「……今は、痛みはありません」
そう答えながら、時雨は後ろに下がった。
しかし、時雨が下がった分、玄兎が前に出て距離を縮める。
「……危ないので、離れてください」
「……時雨」
なにかを懇願するように名前を呼ばれて時雨は、顔を伏せてしまう。
「……淀みが移ってしまいます、から」
その言葉に玄兎は動きを止める。
時雨がゆっくりと顔を上げれば、寂しげに顔を歪める玄兎と視線が合った。
玄兎にそんな表情はさせたくはなかった。
時雨は一度深く息を吐き、静かに、しかし、少し明るい調子で言葉を紡ぐ。
「最期に、顔を見れて本当に、嬉しいです。……今の姿を拒絶しないでいて下さったことも」
「……時雨?」
玄兎の呼び掛けに答えずに、時雨は心からの笑みを浮かべる。
「……私は、本当に恵まれていますね」
時雨の声に、表情に玄兎が拳を握りしめた。
痛みを堪えるように眉をひそめ、涙が滲む目尻を震わせる。
「……嫌だ」
時雨は眉を下げ、何故か子供のように頼りなく思える玄兎の顔を見つめる。
「……玄兎」
穏やかな、諭すような声色。
玄兎は時雨との距離を、また一歩詰める。
畳についた時雨の手の傍に、静かに玄兎の手が置かれた。
体温が伝わってしまいそうな距離。
思わず身を引きかけた時雨を、玄兎のすがるような瞳が引き止める。
「……時雨。俺を、独りにしないでよ」
時雨はなにも答えられない。
口を開けば、余計なものが溢れてしまいそうで。
「時雨が、未来を諦めるなら……ここで終えるのなら、俺もそうするよ」
玄兎の言葉に、時雨はひゅっと息を飲み込む。
「いけません! あなたには未来があります。だから、その優しさも全て、私などに向けるべきでは……」
視線を落とし、畳に置かれた自分の手を見る。
不自然な黒に侵された肌が現実に引き戻してくれるようで……時雨は安堵の息を漏らす。
だが、玄兎がそれを許すはずはない。
「……俺が、時雨に向けたいと思ってるんだよ」
静かな声。
しかし、時雨の視線を奪っていく声だ。
「……幼い頃から惹かれてたんだよ。俺の話を楽しそうに聞いてくれて、一緒に居たいって言ったら顔を赤くしながら頷いてくれた」
聞いてはいけない。
なのに、玄兎の言葉を溢さないようにと、時雨は押し黙ってしまう。
「自分の境遇を恨むでもなく、懸命に働いて……世話をしてた小鳥を殺された時に素直に悲しいと言えなかった時雨を、小鳥のために涙を流す時雨を、守りたいと思ったんだよ」
「……やめてください」
みっともなく震えた声。
時雨は俯き、必死に唇を噛み締める。
きっと、ひどい顔をしているのだろう。
「時雨のその柔らかい心を……優しさを守らせてよ。……俺を全部あげるから、独りにしないで」
伸ばされる玄兎の手をただ、見つめてしまう。
拒絶しなければならない。
もう、ここには来ないで欲しいと告げ、二度と会わないと。
「……時雨。愛してる。大好きだよ」
重ねられた手の温もりに、声の熱さに、時雨の瞳から溢れた涙が畳を濡らす。
肩に手が回り、時雨は抵抗も出来ずに引き寄せられた。
雨に濡れたはずの身体は、暖かく、時雨が必死に立てようとした境界を容易く乗り越える。
自分なんかに笑いかけてくれる顔が好きだった。
家のことで関わらない人が多い中、真っ直ぐと見つめて、一緒に居たいと笑ってくれて嬉しかった。
毎夜、萎れてしまうと分かっていても花を送ってくれるから。
愛しいという気持ちを飲み込めなくなってしまった。
「……玄兎、私も」
何度も反芻した感情を、ようやく一欠片だけ口に出すことが出来た。
玄兎はそれだけで、時雨を強く抱き締める。
時雨は玄兎の肩に顔を埋め、すがるように手を伸ばしかける。
だが。
「……っ」
時雨の身体の中で淀みが蠢いた気がした。
指先から溢れ、玄兎を蝕んでしまう。
咄嗟に時雨は玄兎から身を離そうとした。
しかし、時雨の腰に回された玄兎の手が、離れることを許してくれない。
「……離して、ください」
「……嫌だよ」
力の入らない腕で玄兎の肩を押そうとするが、玄兎は寧ろ抱き締める力を強くする。
「……時雨が、俺のことひっぱたいて、触られるのが嫌だって言うなら離してあげるよ」
「……そんなこと」
出来るはずがない。
手から力が抜けた時雨の頬に玄兎の手が添えられる。
「時雨は俺のこと、嫌?」
小さく首を横に振った時雨を、玄兎は愛しげに目を細めてみせる。
添えられた手が、時雨の存在を確かめるように頬の輪郭を辿った。
「……なら、離してあげられない。ずっと一緒に居たいから」
近づく玄兎の気配に拒絶など、出来なかった。
ぼやける程に近づいて、唇に柔らかい温もりが触れた。
肌が触れ合い、温もりが伝わる。
時雨の身体を蠢く淀みも。
ただ、暖かさが愛しくて。
何かが満たされていくのに、それがひどく恐ろしい。
すがるように伸ばした腕は、冷えていたはずの身体ごと抱き締められた。
幸福を知ってしまう。
玄兎の腕の中で微睡む時雨の瞳を、障子の隙間から月明かりが照らした。
知らぬ間に、雨は上がっていた。




