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第四話


 いつも通りの静かな朝。

 

 時雨はゆっくりと身を起こして、花瓶を眺める。

 今夜は、花が挿されることはない。







 支度を終えた時雨は、身体を覆い隠すように薄布を被り、家の戸を開いた。


 夕暮れに染まる道を、誰ともすれ違うことなく進んでいく。


 何度通ったのだろう。

 足取りはいつも重く、薄いはずの布地が時雨の身体に重たくのし掛かっていた。


 山の麓、階段に差し掛かり、時雨は一度足を止めた。

 

 布がずれないように握り締め、足をあげる。


 山の中腹、社が見える頃には時雨の息は上がっていた。

 

 今、後ろを振り返れば村を一望できるだろう。

 しかし、時雨は足元だけを見つめながら、社の敷地へと足を踏み入れる。


 社の前には数人の村人と村長、神主が立っていた。

 村人たちは、時雨の姿を確認して、安堵の息を漏らすと同時に、目を伏せて視線を逸らす。


 村長だけが強く手を握りながらも、まっすぐと時雨のことを見つめていた。


 時雨は息を吐き出して、顔に力を入れて、布を取り去る。

 

 息を飲む音。


 淀みの黒に侵されたこの顔は、何度見ても慣れないものなのだろう。


 村人の一人が時雨の差し出す布を恐々と受けとった。

 時雨がそちらに視線を向けるだけで、肩を大袈裟に震わせる。


 余計な心労をかけてしまった。

 頭を下げようとして、やめる。


 時雨の身動ぎ一つで、彼らに緊張を与えてしまうのだから。


「沐浴を」


 村長の言葉に、促されるままに時雨は泉へと向かう。

 一人になった時雨は着物を脱ぎ、冷たい水へと身体を浸した。


 まだ沈みきらない日に照らされた水面は、器としての時雨の姿をはっきりと映し出している。


 頬に広がる黒に時雨は黙って手を這わせた。








 肌がまだ白かった頃。

 時雨は身寄りもなく、ただ静かに暮らしていた。


 父親の残した借金の返済のためにと、村長の元に奉公に向かう日々。


 そんな中で声をかけてきた村長の表情を今でも覚えている。

 眉をしかめて、口元をひきつらせた、今にも泣き出しそうな顔で、頭を下げられた。


 淀みを受け止める器となって欲しいと。


 言葉を理解するのに、時間がかかり、村長は数日の猶予をくれた。


 時雨に、断れる理由はない。


 幼い頃から世話になり、気にかけて貰っていた。

 父親の借金もある。


 一人で生きる時雨には、残される身内もいない。


 ただ、唯一頭に浮かんだのは。


「……玄兎には、もう会えないんでしょうか」


 数年前に薬師になるための修行と村を離れた玄兎の顔が脳裏をよぎった。


 器として生きる間に、もう一度くらいは会えるだろうか。


 最期に一度だけでもいいから会いたい。

 別れを告げられればそれでいいから。


 ただ、それだけを心に抱えて、時雨は翌日村長の元に向かった。


 そのまま、村外れの家に住まうように言われ、必要なものは揃えてくれた。

 更に、足りないものがあれば言ってくれと、時雨には過ぎた生活が与えられた。



  


 今の時雨は、恵まれた暮らしをしている。




 

 冷たい水で顔を洗い、時雨はゆっくりと泉から上がる。

 傍にある手拭いで水気を取り、用意された衣服に着替え、社へと戻った。


「……準備は出来たかい?」


 あの日と同じような表情を向ける村長には時雨は静かに頷き返す。

 

 そのまま社の中、窓一つない閉ざされた部屋へと通された。

 部屋の中央に静かに座る時雨を見ながら、沈痛な面持ちで部屋の戸が閉じられた。


 外からは微かに、低く、何かを唱えるような声が聞こえてくる。


 視界の端で、灯りに揺らめく時雨の影が不規則に蠢くのが見えた。

 

 部屋の灯りが落ちる。


 暗闇の中で、手を握り締めた時雨の視界が、さらに黒く染まっていく。


 何かが身体を蝕むような感覚。

 骨が軋むような鈍い痛み。

 肺がゆっくりと押し潰されるような息苦しさ。


 座っていた身体が傾いでいく。

 苦しげな呼吸と漏れ出る声がどこか遠く、他人事のように耳に届いた。

 

 少しずつ淀みが身体を蝕んでいく。


 蹲り、どれ程時間が経ったかも分からなくなっていた。

 

 時雨の視界に突然灯りが差し込む。


「……終わりだ」


 村長の声に時雨は荒い呼吸のまま起き上がる。

 入り口の前に立った村長は、部屋の中を見渡して、何も残っていないことを確認する。

 

 部屋の外から、覗き込む村人の表情は少し青ざめているが、その視線は時雨の様子を窺うように、忙しなく動いていた。


「身を、清めてきなさい」


「……はい」


 ゆらりと立ち上がる時雨に、皆、一歩後ろへと下がる。

 時雨は黙って一人泉へと向かった。




 冷たい水に浸かる時雨の瞳に映る黒は、昨夜よりも濃くなっている。

 

 一年前はここまでではなかったはずだ。


 いくら身を清めようとも、時雨を蝕む黒は消えてはくれない。


 淀みを受け止める器として、生きる。

 いつかこの身が耐え切れなくなるまでは。


 


 冷たい水に晒された身体は、温もりを求めるように震えてしまっていた。

 

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