第三話
雨が地面を叩く音。
閉じた部屋に、どこからか冷たい空気が入り込んでくる。
夏だというのに、肌を粟立たせ、身を震わせた。
……今夜、玄兎は来ないかもしれない。
それでいいはずなのに、時雨は障子の向こうの気配に、耳を澄ませてしまっている。
「あ……」
雨音に紛れて、ばしゃばしゃと水が跳ねる音がした。
「……時雨! 遅くなってごめん」
息を切らした玄兎の声。
いつもより近いその声に、時雨は少し部屋の奥へと下がる。
「こんな、雨の中……風邪を引いてしまいますよ」
「そうなったら、自分の薬試せる良い機会に出来るから大丈夫」
あっけらかんと言ってのける玄兎に、時雨は堪えきれずに笑いを溢す。
その声に答えるように、障子越しに玄兎も楽しげな声を漏らした。
玄兎は手拭いで雫を払ってから、縁側に腰を下ろし、時雨に今日あったことを話し始める。
久しぶりに村の薬師の元を訪れ、薬師としての腕を褒められたこと。
幼かった弟妹はすっかり大きくなり、長男である兄と共に両親を支えてくれていたこと。
一つ一つに相槌を打つ時雨に、玄兎はふと言葉を途切れさせる。
「……玄兎?」
「ねえ、時雨。……寂しいから、こっちに来てよ」
時雨はすぐに返事を出来ずに、眉を下げ、手を握り締める。
「……玄兎、それは」
「無理にここ開けたりしないよ。ただ、時雨の声が遠いのは寂しいから。……お願い」
幼い玄兎が、首を傾げてねだるように見つめていた仕草が時雨の脳裏を過る。
玄兎に寂しい思いはさせたくはない。
そう言い訳して、時雨は立ち上がり障子の傍に腰を下ろす。
近づいた気配に、玄兎が黙って障子に手を添えた。
時雨は一度、視線をさまよわせてからその影に、そっと手を重ねる。
時雨の身体に広がる黒がざわつき、蠢いた気がした。
一瞬びくりと時雨の肩が跳ねる。
しかし、すぐに首を横に振った。
時雨の身体に貯まった淀みは、直接触れなければ移ることはないはずだから。
障子越しに伝わる微かな温もり。
時雨はあの日も、こうして玄兎の温もりに支えられていた。
二人で拾った小鳥は、少しずつ元気を取り戻していた。
空き箱に敷かれた藁の上で休む小鳥を、二人で静かに眺める。
「……だいぶ怪我も良くなったね」
「ええ。玄兎が薬と餌を用意してくださいましたから」
時雨の言葉に玄兎は少しだけ唇を尖らせる。
「……結局俺は材料集めただけだよ。全部、師匠に作って貰っちゃったし」
「それでも玄兎がそうして準備してくださったお陰ですよ」
重ねて告げれば玄兎は照れ臭そうに頬を掻き、はにかむように笑った。
「でも、時雨がお世話してくれたお陰でもあるよ」
「……そう、でしょうか」
「うん!」
傍の話し声に気が付いたのか、目を開けた小鳥が二人を交互に見上げてくる。
「……かわいいね」
そっと差し出された玄兎の手に、小鳥は身体をすり寄せる。
時雨も真似して指先で触れれば、小さな鼓動と温もりが確かにそこにはあった。
藁が散らされた空の箱。
まだ飛べないはずの小鳥はどこにもいない。
時雨が奉公に出掛ける前には確かにこの中にいた。
視線をぐるりと見渡せば、少しはなれた地面にぐったりと動かない小鳥が落ちていた。
震える手ですくいあげるが、あの温もりは残っていない。
縁側の角で蹲る時雨に、怒鳴り声が投げられる。
夕食の支度を急かす祖父母の声。
顔を上げた時雨に、祖父母は口の端をつり上げてみせる。
その視線は時雨の手元に向かっている。
祖父母は時雨を見下ろし、穀潰しがと呟いて家に入っていく。
なにも言えないまま、時雨は微かに体温が移った小鳥の身体を藁の上へと、横たえてやる。
その目が時雨を映すことはない。
時雨は胸の奥が冷えていく感覚を覚えながらも頭を下げた。
「……申し訳、ありません」
翌日、玄兎はいつもの場所に小鳥のための餌と薬を持って来てくれていた。
時雨は黙ってそれをみて、また、静かに頭を下げる。
「……時雨?」
「玄兎。申し訳ありません。……あの子を死なせてしまいました」
顔を上げれば、目を丸くした玄兎と視線があう。
時雨は手を握り締めて、まっすぐと見つめ返し、平坦な声で話し始める。
「私がちゃんと考えていなかったせいです。昨日、帰った時にはもう……。きっと、煩わしいと思われてしまったのでしょう」
一度手を強く握り締め、静かに胸に詰まった空気を吐きだす。
「玄兎があれだけ用意して、可愛がっていたのに……申し訳ありません」
もう一度、深く頭を下げた。
玄兎は黙ったまま時雨の方へと一歩、踏み出す。
もう、愛想を尽かされてしまったかもしれない。
それは仕方のないことだ。
玄兎に悲しい思いをさせてしまったのだから。
「……時雨は悪くないでしょ!」
玄兎の言葉を一瞬理解できずに、時雨は目を瞬かせた。
肩を掴まれて、玄兎の方へと引き寄せられて、温もりに包まれる。
「……いえ。私が、ちゃんと出来なかったせいで」
離れようとする時雨を、玄兎は腕に力を込めて引き留める。
「……時雨はちゃんと可愛がってた。それに、あんなに一生懸命、世話してたでしょ」
玄兎の言葉に何かが緩みそうになり、時雨は唇を噛み締めた。
そして、首を横に振りながら、震える声で玄兎を諭す。
「……わたしが祖父母の不興を買わなければ、きっと、あの子は今でも元気でいられたんです」
顔を上げて玄兎が時雨を静かに見つめる。
「違う。時雨のせいじゃない……それに、時雨のお陰で、あの子はあそこまで元気になれたんだよ」
悲しげに眉を寄せた玄兎の表情に、時雨は静かに息を飲む。
頬を暖かいものが伝った。
一拍置いてから、時雨は自分が泣いているのだと気が付く。
「……申し訳、ありません」
「……謝らないで」
玄兎の手が時雨の頬をそっと撫でた。
「……もっと、あの子と一緒にいたかったね」
「……はい」
止まらない涙が玄兎の手を濡らしてしまう。
玄兎は頬に添えた手をそのままに、時雨の背中を落ち着かせるように撫でてくれる。
「……あの子がいないのは、悲しいね」
静かな玄兎の言葉に時雨の頭がぐらりと揺れる。
悲しいのだと、認めた瞬間時雨は玄兎にすがり、肩に顔を埋めていた。
玄兎はなにも言わずに、ただ時雨を抱き締めて、共に涙を流してくれていた。
「……時雨?」
玄兎の声に、時雨ははっと瞼を開ける。
随分長い間黙ってしまっていたようだ。
「……申し訳ありません」
「……なんで謝るの」
苦笑する玄兎の声に、時雨はそっと目を伏せる。
指先の温もりはあの日となにも変わらない。
変わってしまったのは……。
「……玄兎、冷えてしまいますからそろそろお帰りください」
障子から指先まで黒に染まった手を離し、時雨は柔らかい声でそう告げる。
「……時雨」
名残惜しさが滲む玄兎の声に気が付かないふりをして、時雨は平坦に言葉を続ける。
「それから、明日の夜は来ないでくださいね。……私は一晩、留守にしてますので」
時雨の言葉に玄兎が息を飲む。
「……時雨! このままだと時雨は……」
「……お気をつけて、お帰りください」
玄兎の言葉を遮るように、告げれば、玄兎は暫く黙り込んでしまう。
「……また来るね」
玄兎はそれだけ告げて、雨の中に駆け出す。
跳ねる水音を聞きながら、時雨は指先に残った温もりを逃がさないように、手を強く握っていた。




