第二話
物音ひとつない静かな部屋。
まだ日が昇らない外からは、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
「う……く、っ」
時雨は、鈍い痛みに意識を無理矢理引き上げられる。
眉をひそめながら、痛みが通りすぎるのを待ち、飲み込んでいた息をゆっくりと吐き出した。
障子の方に目を向け、身を起こした時雨は、慣れた手付きで部屋に明かりを灯す。
少し勿体ない気はするが、余るほどに用意して貰えているのだから、問題はないはずだ。
物がほとんどない部屋の中で、花瓶が影を作る。
昨夜の花は枯れていた。
茶色く変色した茎が挿された周りに、花びらが散っている。
時雨は一度目を伏せてから、花びらを懐紙に集めて丁寧に挟み、棚の中にしまった。
大きく息を吐き出し、障子を開けて庭へと出る。
まだ暗い中を、慣れたように歩き、家の傍にある井戸で顔と身体を流した。
夏とはいえ、夜明け前の水は冷たい。
ぶるりと身震いしてから、ついでとばかりに衣服や手拭いを洗い、傍にある干場に干していく。
土間にある水桶の水の入れ換えを済ませた頃には、空が白み始めていた。
そろそろ村も起き始める時間だろう。
時雨は部屋に戻り、そっと障子を閉めた。
食事の支度をしようと竈に火をいれようとして、時雨は首を横に振る。
それほど腹が減っているわけでもない。
後で、簡単に昨夜の残りでもつまめば良いだろう。
部屋の片付けと掃除をして、時雨は畳に座り込んだ。
「……なにをしましょう」
一人分の家事などたかが知れている。
時雨は視界に映りかけた黒から目を背けて部屋を見渡した。
必要なものは揃えて貰い、食べるものにも困らない。
朝から灯りをつけることが出来、夜には柔らかい布団で休める。
こんな時間が取れるだなんて、昔の時雨が聞けば、さぞ驚くことだろう。
物心ついてからは、毎朝、日が昇る前に起きて支度を済ませておくのが時雨の日常だった。
夜明け前から、家の家事を済ませ、酒浸りの父が作った借金の返済のために村長の元へ奉公へ向かう。
それが、今は時間をもて余して、座っている。
時雨は軽く息を吐いて、灯りを消し、壁に身を預ける。
うっすらと日が入る部屋の中で、時雨は黙って花瓶に挿されたままの茶色の茎を見つめた。
また、今夜も花をくれるのだろうか。
そう考えてから時雨は頭を横に振る。
少年だった頃の時雨も、同じように玄兎のことを待ってしまっていた。
村長の家で時雨は動き回り、あらゆる雑用をこなしていく。
炊事や掃除、針仕事。
目まぐるしく働いていれば、日はすっかり昇りきっていた。
何も考えられないほどの忙しさ。
そのはずなのに、時雨はちらりと外に視線を向けてしまう。
休憩を与えるためにと女中が時雨に声をかけ、粟と稗の握り飯を渡してくれた。
朝も食べられていない時雨を気にしてか、少し大きめに握ってくれている心遣いに感謝しながら、急いで村の端にある丘へと向かう。
息を切らし、丘にたどり着けば、時雨を待つ玄兎がいた。
「……時雨!」
時雨に気がついた玄兎は笑顔で大きく手を振ってくれる。
時雨も、つい玄兎に顔を綻ばせた。
「……玄兎」
随分と弾んだ声が出てしまった。
玄兎はそれに笑みを深くし、息を切らす時雨に首を傾げる。
「……そんなに走ってこなくても良かったのに」
「いえ、その……お待たせ、してしまっているのではないかと思いまして」
時雨の言葉に玄兎は頷きを返す。
「うん。でも、時雨のこと待ってるのも好きだから大丈夫だよ」
真っ直ぐ向けられる玄兎の顔を何故か見られなくなって、時雨は頬を熱くしながら顔を俯かせた。
「……そ、うですか」
「うん! ……お腹減ったし、早く食べよう!」
二人で並んで、丘の中央にある木の根もとに腰を下ろす。
玄兎が白い握り飯に齧りつき、口元に米をつけているのを見て、時雨はついくすくすと笑ってしまった。
「……玄兎。付いてますよ」
「あれ? 本当だ」
きょとんとする玄兎に笑いながら、時雨も大きな握り飯に口をつけた。
朝から何も食べていない時雨の腹が少しずつ満たされていく。
「……それでさ! 俺はまだまだ、調合なんて出来る段階じゃないって言われて。滅茶苦茶悔しかったんだよ!」
「……玄兎は努力家ですから、きっとすぐに出来るようになられますよ」
玄兎の話に相槌をうちながら、食事を進めていく。
時雨の一日で一番穏やかで、すぐに過ぎてしまう時間だった。
日が傾き始めて、ようやく時雨は帰路につく。
時雨と変わらない年の少年達が、すすきを手に皆で駆けてくるのが遠くに見えた。
時雨は擦りきれた着物を握りしめ、遠回りになる道に足を進める。
「……あれ? 時雨?」
「……玄兎?」
時雨の選んだ道、森の近くに続いている道から玄兎が駆けてくる。
「……こんなところで、どうされたんですか?」
「薬草採取と冒険!」
誇らしげに返す玄兎は、緑が敷き詰められた小さな籠を抱えていた。
「こんな時間までですか?」
「うん。ちょっと夢中になり過ぎちゃった。……時雨は? こんな時間からどこ行くの?」
時雨は玄兎から視線をはずし、じっと足元を見つめる。
後ろから響く少年達の楽しげな声から、遠ざかりたいと、思ってしまいそうだった。
「……家に帰ります」
玄兎に笑いかけて、先へ進もうとした時雨に玄兎は首を傾げる。
「時雨の家ってこっちだっけ?」
「……こちらからでも、帰れます」
「今から森の方通るの? 危ないよ?」
「……大丈夫です」
時雨は玄兎に笑顔を向ける。
納得してくれるように。
この場から早く立ち去れるように。
しかし、玄兎は、何故か時雨の笑顔に唇を尖らせる。
「……分かった。なら俺もこっちの道で帰る!」
「……え」
眉を上げて、腕を組む玄兎を前に、時雨は背中に汗をかいてしまう。
「あの、早く帰らなければ……怒られてしまうのでは?」
眉を下げながら、玄兎の表情を窺うように見つめる時雨に、玄兎は頬を膨らませる。
「時雨だってまだ帰らないんでしょ? ……だったら、俺が一緒にいてもいいでしょ!」
怒らせてしまったのだろうか。
時雨は戸惑いながら、言葉を探すが、なんと返せばいいのか分からなくなる。
「……そんなに、俺が一緒にいたら、いや?」
何故か、眉を下げて今にも泣き出しそうな顔で玄兎が時雨に問いかけた。
時雨は思わず息を飲みこむ。
「……そんなはずは、ないです!」
思っていた以上に大きな声が出てしまった。
目の前の玄兎は目を丸くして、時雨の方に顔を向ける。
頬が熱くなり、時雨は視線から逃げるように下を向いた。
しかし、時雨の頬に玄兎がそっと手を添え、目を合わせるように顔を覗き込む。
いつもの、玄兎の笑顔だ。
時雨の肩から力が抜ける。
「……時雨は俺といるの嫌じゃない?」
「……はい」
嬉しそうに、時雨に問いかけてくる玄兎に、手を振り払うことも出来ずに頷く。
「一緒にいられると、嬉しい?」
「……う、れしいです」
首から上の全部が熱くなってきた。
みっともないであろう時雨の表情に、玄兎はますます口元を緩めていく。
「……俺も! 時雨といられるのいつもすっごい嬉しいし、楽しい!」
時雨が何かを返す前に、玄兎は時雨の手を取り、跳ねるような足取りで歩き始める。
「あの! ……本当に、怒られませんか?」
「怒られるかも! けど、時雨と居られるんだったらいい!」
「あの、そろそろ、戻らないと……遅くなってしまいますよ」
森の傍を通って村に戻るだけのつもりが、森の中迷わず進む玄兎に手を引かれ、時雨は戸惑いの声をあげる。
「んー……あともうちょっとだけ!」
玄兎の言葉に時雨は眉を下げるが、立ち止まることは出来ずに、玄兎の後ろをついていく。
「……玄兎。日が沈んでしまいますよ」
少ししてから再び声をかければ、玄兎は不満げに唇を尖らせつつも、振り返り頷いてくれた。
「……折角時雨にこの森の案内できると思ったのに」
小さく呟いた玄兎に、時雨は思わず笑いをこぼしてしまう。
「また、今度。……もっと時間を取れるように頑張りますから、その時にお願いします」
「うん! 約束だよ!」
ころころと変わる玄兎の表情に、時雨も頬を緩ませる。
「じゃあ、帰ろっか……って、んん?」
「……どうかなさいましたか?」
村の方へ引き返そうとした玄兎の視線が近くの木の根元に向かった。
「時雨。あれ……」
玄兎が指差した先には、小鳥が地面に転がっていた。
「鳥、ですね……?」
「うん。……怪我してるみたい」
二人でそっと近づいても鳥は羽ばたこうともせずに、見上げるばかりだ。
繋いだ手を離して、すくいあげるように持ち上げた鳥の羽は不自然に曲がっている。
玄兎と顔を見合わせるが、小鳥は弱々しく身動ぎするだけだ。
「……どうしよう」
「怪我が、治るまでみてあげるくらいしか……」
このまま放しても、他の動物に襲われてしまうか、飢えて死んでしまうかのどちらかだろう。
時雨の言葉に玄兎は眉を下げて、俯いてしまった。
「俺の家だと、まだ妹も弟たちも小さいし危ないかも……」
沈んだ声色の玄兎に、時雨はなんだか落ち着かなくなる。
「……でしたら、私が世話をしますよ。ずっと付きっきりはしてあげられませんが」
時雨の言葉に玄兎は顔色を明るくして何度も頷きを返す。
「だったら、俺はこの子のご飯……と薬を用意するね!」
「……ええ。助かります」
手の中の小さな命が、確かな温もりを伝えていた。
時雨は少しだけ寒さに身を震わせながら、瞼を持ち上げた。
あのまま転寝してしまっていたらしい。
障子はすっかりと橙色に染まっている。
そろそろ灯りをつけようかと立ち上がった時雨の身体に鈍い痛みが走った。
その場にしゃがんだ時雨の視界に黒に染まった腕が映ってしまう。
あの頃にはなかった黒に、戻れなくなった過去を取り上げられてしまったかのような心地だった。




