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第一話


 締めきった部屋に、灯りがジリジリと燃える音が染み込んでいく。

 

 ゆらゆらと揺れる火に映る影は、どれだけ眺めてもなんの変化もない。


 肌が粟立つ。

 首筋がじくじくと痛む気がした。


 肌を撫でる風もないのに、身体の芯が冷えていく。

 時雨は衣擦れの音を立てながら、薄い着物の前を合わせた。


「……時雨?」

 

 障子越しに聞こえる声。


 冷えた指先に熱が戻った。

 時雨の胸が思い出したかのように、トクトクと鼓動を刻む。

 

 記憶の中よりも低く、けれど優しいままの声に、時雨は顔をあげた。


「あ……申し訳ありません」


 見えもしないのに、時雨はつい頭を下げてしまう。


「謝らなくていいよ。長く話しすぎて疲れた?」


「……いえ、そういう訳ではありません」


 時雨はゆっくりと足を崩して、畳に手をつく。

 その手から視線を外すように、障子に目を向けるが、映る影は時雨のものだけだ。


 日が落ちてから灯したはずの明かりは、もう随分と心許ない。

 

 目を伏せた時雨の顔に、長い睫の影が落ちる。


「……玄兎、そろそろ」


 時雨は床に手をつき、普段の声色を意識しながら、障子の向こうに声をかける。


 玄兎が一度、息を飲み込み、黙りこんだ。


 灯りが燃え尽きようとしている音だけが耳に届く。


 木の軋む音。

 手に伝わる振動。


「玄兎……」


 嗜めるように、困ったように名前を呼べば、先程よりも近くなった玄兎の声が返ってくる。


「……時雨、ここを開けてよ」


 空気の塊が、喉に詰まりそうになった。 

 力の入らない足で後退り、障子から距離を取る。


「……いけません」


 返した声はあきれるほどに震えていた。

 

 視線を落とせば、自分の手が視界に入る。

 侵食されたように、まだらに黒く染まる手が。


 かたりと障子が揺れて、影が落ちる。

 

 時雨のものではない影。

 

 時雨は咄嗟に顔を覆って、その場に蹲るようにして身を縮こまらせる。


 しかし、障子は開けられずに、部屋は外と隔絶されたままだった。


「……玄兎」


 顔を上げ、名前を呼べば、影がゆらりと動いた気がした。


「……時雨、一緒に逃げよう。お願いだから」


 その言葉に、冷えきっていた筈の手足が熱くなっていく。


 一度口を開きかけて、何も言えずに、そのまま乾いた唇を閉ざす。


 玄兎はただ、静かに時雨の言葉を待っていた。


 時雨は畳に置いた手を強く握りしめる。

 指先に籠った熱を逃がさないように。


 何度も浅い呼吸を繰り返し、震えそうになる唇を叱咤して、穏やかに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「……いけません」


「……時雨」

 

 耳を塞いでしまいたい。

 でも、ずっとその声を聞いてもいたい。


 小さく爆ぜる音がして、灯りがゆらりと溶けて消える。

 

 障子越しの月明かりすら届かない場所で、時雨は静かに頭を持ち上げた。


「……今夜は、もうお帰りください」


 時雨の言葉に玄兎はしばらく黙り込んだ。

 深く息をつく音がして、玄兎の小さな返事が聞こえてくる。


「わかった。また来るよ」


 また、という言葉。

 拒絶しなければならないのに、喉は言葉にもならない短い音を漏らすだけだった。

 

 木が軋む音がして、障子の影が薄くなる。

 時雨は障子から視線を外すように、目を伏せた。


「……これ、今夜も置いておくね。ここに来る途中で、綺麗に咲いてたんだ」


 かさり、と音がした。

 同時に土を踏む音も。


 玄兎の気配を溢さないように、時雨は押し黙ったまま耳を澄ました。

 

 足音が小さくなり、消えていく。




 完全な静寂。

 当たり前が戻った部屋の中で、時雨は身体を起こした。


 ゆらりと立ち上がり、障子に手をかけ、開いていく。


 月の明るさに目を細めて、しゃがんで縁側に置かれた、萎れた花に手を伸ばした。


 崩さないようにそっと触れた筈の花は、時雨の指を嫌がるように花びらを落としていく。


 時雨はまだらに黒に染まった腕と萎れて色を失った花を見比べて、首を横に振った。


 それ以上花びらが落ちないように手で支えながら、外の世界との仕切りを戻すために、障子を閉める。

 今夜の月明かりは、時雨には眩しすぎた。


 殺風景な部屋の中に置かれた花瓶が目に映る。

 

 昨夜の花は茶色に変色した茎だけをそこに残していた。

 

 それを抜き取り、今夜の花を花瓶に挿す。


 水を吸い上げる力さえ残っていないと知りながらも。


 

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