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第十二話


 旅支度を整えた二人はまだ暗いうちに宿を出た。


 本来ならば、数日滞在する予定だったのに。

 時雨は玄兎に手を引かれ、俯きながらついていく。


「……眠たい?」


「……いいえ。大丈夫です」


 村にいた頃はもっと早くに起きていた。

 寧ろ、今の方がよく眠っている気さえする。

 

 時雨は玄兎に微かな笑顔を向けて、首を横に振った。









 まだ眠っている町を歩く。

 昨日の市の活気も雑踏もどこかに隠れてしまったかのようだ。


 時折、朝の用事のためか、駆けている奉公人とすれ違う。

 時雨はその度に外套の前をぎゅっと握り締めていた。


「あ……」


 玄兎の声につられて、時雨は顔をあげる。

 視線の先では一人の少年が踞り、膝を抱えていた。


 よく見ると、着物が破け、足から血が滲んでいる。


「……時雨、行っても大丈夫?」


 時雨は、繋いでいる玄兎の手を無意識のうちに強く握ってしまう。


「……ええ。勿論、構いません」


 玄兎が少年に声をかけるのを、時雨は少し後ろから窺っていた。


 気丈に振る舞う少年に、玄兎は明るい声で話している。


 玄兎が薬を探すためにと、懐へと手を伸ばした。

 時雨は、一瞬、間を置いてから、玄兎の手を離そうとする。


 しかし、離れようとした時雨の手を今度は玄兎が強く握り締めた。


 玄兎の視線は少年に向かっている。

 優しい声色で薬を譲っている。


 それでも、確かに時雨の手を繋ぎ止めていた。



 玄兎の背に寄り添うように立つ時雨は、少しだけ暖かくなった胸に手を添えていた。








 町を出る頃には、ようやく日が昇り始めていた。


 しばらくは大きな街道を進んでいたが、ふと玄兎が足を止める。


「こっちの道で行こう」


 整備された道ではなく、小さな山の方へと続いている脇道。


「……玄兎、私は大丈夫ですよ」


 人が少ない細い道。

 

 整備もされておらず、歩きにくいはずだ。

 特に、荷を背負ってくれている玄兎には。


「俺がこっちに行きたいだけだよ。こっちの方が、薬草を摘みながら進めるし……何より、人も少ないから人目も気にせずに時雨と過ごせるでしょ?」


 柔らかい笑顔を浮かべた玄兎に、ゆっくりと手を引かれ、そちらの道へと足を出す。


 後ろから聞こえていた足音から離れて、時雨は無意識に詰めていた息を吐き出した。









 他に人がいない小道。


 時雨は軽く息を乱しながら、遅れないようにと足を動かす。


「……この辺りで今日は休もうか」


 まだ町を出て、半日程しか経っていない。

 首を横に振って断ろうとした時雨の言葉を遮るように、玄兎が林の方を指差した。


「あっちの方から水音がするでしょ? 汗を流してから薬草を摘んだりしたいなって思ったんだけど……時雨は嫌?」


 言われてから、耳を澄ますと、確かに川の流れる音がする。


「……嫌ではありません」


 小さく呟いた時雨の手を引き、道を外れて林の奥へと進む玄兎の足取りは随分と軽い様子だった。









 少し進めば、小川が木々の隙間を流れていた。


 日の光が木の葉に遮られ、随分と涼しく感じる。


 荷物を岩の上に下ろした玄兎の横で、一度周囲を見渡してから、時雨もゆっくりと外套を脱いだ。


 荷物から手拭いを引っ張り出した玄兎は、楽しげに口角を持ち上げながら時雨に手を差し出す。


「……じゃあ、水浴びしよっか」


「はい……あ、の……玄兎?」


 手を取り、そのまま抱き寄せられた時雨の帯に玄兎の手がかけられる。

 時雨は思わず玄兎の顔を見上げ、顔を真っ赤に染めながら首を横に振った。


「じ、ぶんで出来ますので……」


「……そう? 残念」


 少し名残惜しげに時雨の頬に触れた後、玄兎は時雨の腰から手を離した。


 時雨はまた手を取られてしまわないうちに、帯を解き、着物を脱いでいく。

 

 玄兎の視線を気にしながら。








 着物を軽く畳んで地面に置き、時雨はそっと、流れる水に足を浸す。


 足先から体温が奪われていく感覚に、一瞬躊躇してから、一息に足を踏み入れた。

 

 冷たい水に少しだけ肌が粟立つ。


 水を掬い、何度か顔や髪を流していると、ふと、社の泉の冷たさを思い出した。


 淀みを受けるために、一人で身を清める時間。


 静かで、冷たい記憶。



 

 


「……時雨? あんまり長く浸かってたら、冷えちゃうよ?」


 記憶を跳ね除けるように、冷えた身体が温もりに包まれた。


 後ろから抱き締める玄兎に時雨は顔をあげる。


「玄兎……」


「大丈夫? ……寒い?」


 時雨の体温を確かめるように、玄兎の手が頬を撫で、時雨の身体に触れていく。


「……い、いえ! その……大丈夫です、ので」


 素肌が触れ合う感覚に、時雨は自分の頬を隠すように俯きながら、そう答える。


 きっと、また赤くなってしまっているに違いない。


「……確かに、今熱くなっちゃったね?」


 くすりと笑いながら、玄兎は手を止めた。

 

 しかし、時雨の身体を離そうとはせず、肩の辺りに顔を埋めて頬を擦り付けている。


「……くすぐったいですよ」


 少し眉を下げて、困ったような笑顔を浮かべた時雨は、もう冷たい記憶を思い出すことはなかった。








 本格的に身体が冷えてしまう前に、二人は川から上がった。


 時雨の髪や身体を拭おうと手拭いを手に持つ玄兎に、時雨は苦笑を浮かべながら、先に自分を拭くように嗜める。


 身支度を終え、薪を集め、夜営の準備は万端だ。


「……じゃあ、ちょっと薬草摘んでくるね」


 少し離れて……と言っても、夜営場所から目の届く範囲で、玄兎は真剣な手付きで近くの草木を確認している。


 時雨は少しの間、ほうっとその横顔を見つめてから、ゆっくりと立ち上がった。


「……あの、私でも何か、手伝えることはありませんか?」


 おずおずと尋ねる時雨に玄兎は少し目を丸くする。

 そして、その相貌をふにゃりと崩した。


「ありがとう。……でも、疲れてたら無理しないでいいんだよ?」


「……いいえ。少し休みましたし、平気です」


「なら、この薬草探して摘んでくれる? 葉の部分が欲しいから、こうして……葉の根本を折る感じで」


 玄兎の手にある草をまじまじと観察する。


 ギザギザの小さな葉。

 表面は緑だが、裏は少しだけ黄色がかっている。


「分かりました」


 玄兎から少し離れて、時雨は草木をかき分けて、目当ての薬草を探す。


「……この薬草はどのような効果なのですか?」


「これはね、炎症を抑えるから……傷口とかに貼るだけでも治りが早くなるよ。調合した方がよく効くけどね」


 楽しげに話す玄兎の声につられて、時雨は顔をあげた。

 玄兎は別の薬草も手に取り、次々と薬草について話し始める。


 時雨は頬を綻ばせながらそれに聞き入り……はっとした様子で慌てて、手元へと視線を落とした。


 今は薬草を探している。

 手も動かさなければ。


 玄兎の話に耳を傾けながら、じっくりと草木を確認していけば、先程教えられた薬草を見つける。


「これでしょうか……?」


「ん? ……うん。それであってるよ」


 ちらりと時雨の手元を覗き、頷く玄兎に時雨はますます口角をあげてしまう。


 こんな些細なことでもいい。

 玄兎の役に立てたのかもしれないのだから。


 時雨はそっと手を伸ばし、葉の根本で茎を手折る。


「あ……」


 茎から離れた葉は、時雨の手の中で色褪せていく。


 これでは、薬草として使えない。


「申し訳ありません……私が摘むと、駄目なようですね」


 肩を落とし、玄兎に頭を下げる時雨に玄兎は首を横に振る。

 そして、何かを思い付いたように荷物をごそごそと漁り始めた。


「これ……直接触れなければ、どうかな?」


 差し出されたのは、麻で編まれた手袋だった。


 時雨は不安げに受け取り、手に着ける。

 そして、再び慎重な手付きで薬草を手折った。


 手の中の薬草は瑞々しい……とまでは言えないが、急速に萎れていくようなことはない。


 玄兎が感嘆の声をあげた。


 時雨は少しだけ目を輝かせて、玄兎にそれを差し出す。

 

 猶予が出来たとはいえ、時雨の傍に置き続けない方が良い。


 玄兎は何度も頷きながら、薬草を差し出す時雨の手を両手で包み込む。


「……玄兎?」


 薬草を受け取って欲しいのだが。


 手を握ったまま柔らかな表情を浮かべる玄兎に、時雨は頬を熱くしながら視線を落とした。








 充分な量の薬草を袋に詰め、少し離れた場所で調合をしている玄兎に、時雨はついつい調理の手を止めてしまいそうになる。


 少しの米と野草、町で購入した野菜を入れて煮込んだ鍋がぶくぶくと沸騰し始め、時雨は慌てて鍋をかき混ぜた。


 具材に充分に火が通り、辺りもすっかり薄暗くなり始めてから、調合を終えた玄兎が火の傍までやってくる。


「……終わりですか?」


 時雨の差し出す湯気を立てている椀を受け取りながら、玄兎はまた頬を緩めた。


「……時雨の手作りだ」


 両手で抱えて、見つめる玄兎に時雨は苦笑を浮かべる。


「……冷めてしまいますよ」


 手作りという程、何かをしたわけではない。

 ただ、具材を切り、鍋で合わせて煮ただけだ。


 なのに、玄兎はゆっくりと味わうように口に運んでいる。


「……また、作って欲しいな」


「……この程度なら、いつでも作りますよ」


 時雨の言葉に、玄兎は花が開くような笑顔を浮かべていた。









 柔らかい地面の上に外套を敷き、その上に腰を下ろした玄兎は時雨に向かって腕を広げた。


 何を求められているかは分かっている。

 けれど、やはり恥ずかしさは消えてはくれない。


「……時雨?」


「……その、火の番をしないと」


「俺が起きてるからいいよ。それよりも……来てくれないの?」


 しゅんと眉を下げながら時雨を見上げる玄兎に、時雨はおずおずと近付くしかできない。


「……ふふ、捕まえた」


 先程の顔はどこに行ったのか、玄兎は楽しげに時雨を腕の中に閉じ込めて、そのまま地面に横たえた。


 時雨の存在を確かめるように、何度も背中や首を辿っていく玄兎の指先に、時雨は高鳴る鼓動を抑えきれなくなってしまう。


「……こっち見て欲しいな」


 胸元に顔を埋めるように俯く時雨の頬に手が添えられ、優しく上を向くように促される。


 暖かさが溶け出したような玄兎の瞳と目が合い、時雨は息を詰まらせた。


 そのまま玄兎の顔が近付いてきて、額や頬に柔らかいものが触れていく。


 何度か繰り返されてから、玄兎の指がそっと時雨の唇に触れた。


「……こっちにも、していい?」


 耳元で聞こえるいつもよりも低い玄兎の声に時雨は、何も考えられなくなりそうだった。


 それでも、ぎゅっと目を瞑りながら小さく頷きを返す。

 目の前、すぐ近くで喉の奥で笑うような音が聞こえた。


 支えるように、玄兎の手が後頭部に回される。


 額や頬に当てられていた柔らかさが、唇に触れた。

 すぐには、離れずに暫く時雨の唇の感触を確かめるように、何度も優しく押し当てられる。


「……っ」


 心地よい、けれど、同時に呼吸が出来なくなりそうな緊張が身体に走った。


 少しして、唇は離されて、時雨はおずおずと瞼を持ち上げる。


「……時雨、可愛いね」


 まっすぐと見つめながら、告げてくる玄兎に時雨は耳まで赤く染まってしまう。


「か、わいくは……」


「……可愛いよ。大好き」


 ふと、あの夜の幸福感を思い出した。

 それと同時に、途方もない羞恥が時雨の鼓動を早くしていく。


 微笑む玄兎の顔が近付いて、時雨はまたぎゅっと身体を強張らせながら瞼を閉じた。


 しかし、今度は軽く額に当てられて離れていく柔らかさに時雨は、少し安堵の息を漏らしながら瞼を開ける。


「……今日は、これ以上しないから安心して? おやすみ」


 胸の中に閉じ込めるように抱き締められて、背中を優しく撫でる手に、時雨の意識が揺らいでいく。


 火の番を変わらなければ。

 玄兎に先に休んで欲しい。


 そんな言葉も上手く出せずに、ただ微睡みに抗えずにゆっくりと瞼を閉じていってしまう。


 背中の薪の温もりではなく、玄兎の体温に、時雨の緊張は解かれていった。














 ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音を聞きながら、玄兎は腕の中で眠る愛しい相手の顔を見つめる。


「……ずっと、笑顔でいられるようにしてあげたいな」


 呟いた言葉は夜の闇に消えていった。



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