第十一話
軽く整備されて、踏み慣らされた道。
山に比べれば、格段に歩きやすい。
しかし、長い距離を歩くことに慣れていない時雨の足は鈍い痛みを訴え始めていた。
「……時雨。そろそろ休憩しよう」
「あ……いえ。まだ、歩けます」
軽い足取りで隣を歩いていた玄兎の声に時雨は首を横に振る。
ただでさえ、時雨に合わせてゆっくりと歩いてくれている玄兎に、これ以上迷惑はかけられない。
しかし、玄兎は繋いでいた手を引き、道から外れるように林の方へと歩いていく。
玄兎は人目に付かない木陰の岩に時雨を座らせ、そっと外套を外し、目の前にしゃがみ込んだ。
「俺が、時雨の顔見たくなっちゃったから……付き合ってくれる?」
少し首を傾けながら上目遣いでそう告げる玄兎に、時雨は暫く視線をさまよわせてから、小さく頷いた。
「ふふ……ありがとう」
顔から視線を外さずに時雨の足に頬を預ける玄兎に、時雨は顔を熱くする。
「……時雨の手は冷たいね」
くすくすと笑いながら時雨の手を取り自分の頬に当てる玄兎に、時雨は眉を下げながら、穏やかな笑みを口元に浮かべていた。
張り上げるような呼び込みの声。
見たことも無いような品々。
なによりも、道を埋めるほどに行き交う人々の姿に、時雨は少し後ずさりながら、外套の前を合わせるように握り締める。
「一度宿を取って、荷物置いてから市を見に行こうと思うんだけど……時雨?」
振り返った玄兎に、時雨は慌てて前を向く。
「あ……ええ。それで構いません」
玄兎が時雨と繋いでいる手を軽く引いた。
時雨はそのまま玄兎の腕の中に収められてしまう。
「……み、見られてます」
「いいよ。……俺の時雨だって見せびらかしてるんだよ」
交通に邪魔にならない端の方とはいえ、道端でそんなことをしていたら悪目立ちしかねない。
けれど、玄兎はお構いなしに時雨の背中をゆっくりと撫でている。
「一緒にいるから。……不安になったらちゃんと、言ってね?」
「……大丈夫ですよ」
時雨の返事に玄兎は抱き締める力を少しだけ強くする。
「俺が大丈夫じゃないから。……ね?」
「わかり、ました……」
頷く時雨にようやく満足したのか、一度名残惜しげに頬を擦り寄せてから、玄兎は時雨を解放する。
周囲の雑踏は、いつの間にか気にならなくなっていた。
着物や反物、陶磁器に小箪笥。
美しい装飾の施された手鏡に、簪。
村ではなかなか手に入れられないであろう品々に、時雨はつい目移りしてしまう。
「時雨……気に入ったのあった?」
「いえ……その、見ていただけです」
貨幣など、ほとんど持っていない時雨が手に取れる品などあるはずがない。
首を横に振る時雨に玄兎は近くの反物を手に取り、時雨の前に差し出す。
「これとか、時雨に合いそうな色だけど……どう?」
淡い藤紫色。
こんなに綺麗な色が自分に似合うとは思えずに、時雨は玄兎と手元の反物の間で視線をさまよわせる。
「こんなに綺麗な色は……駄目です」
俯く時雨に玄兎は首を傾げてから、納得したような声を出す。
「確かに……旅の道中だと汚れちゃいそうだもんね」
そうではないのだが……眉を下げる時雨にお構いなしに玄兎は別の反物や着物を吟味していく。
「玄兎、私は今のものだけで十分なので……」
「でも、もう少し替えがあった方がいいでしょ? それとも、俺が選んだのは嫌?」
「嫌なわけでは……」
眉を下げ、少しだけ唇を尖らせる玄兎に、時雨はついついそう返してしまう。
玄兎はすぐに、笑顔を浮かべて時雨に別の着物を差し出した。
時雨は玄兎が選んでくれた着物を両手で抱え、人込みの中を歩く。
隣では玄兎が瞳を和らげ、時雨を見つめている……はずだった。
「……玄兎?」
何度も人に押され、流されるうちにはぐれてしまったのだろう。
先に宿に戻っていた方がいいか、それとも、ここで待っていた方がいいか。
ひとまず、邪魔にならないように端に寄ろうとした時雨の外套が軽く引っ張られる。
「……っ」
心臓が跳ねる。
足元を見れば、小さな手が時雨の外套の裾を掴んでいた。
「……どうしましたか?」
触れないように、だが、振り払うわけにもいかずに、少し後ろに下がりながら、その子供に優しい声色で声をかける。
「……おかあちゃん、いないの」
親とはぐれた心細さに、目を真っ赤に腫らし、鼻を啜っている子供に時雨は眉を下げる。
時雨の腰にも届かないような幼子。
言葉もまだ辿々しい。
放っておくわけにもいかずに、時雨は周囲を見渡した。
「……では、一緒に探しましょう。大丈夫です。すぐに見つかりますよ」
人込みの中に母親らしき人は見つからず、時雨は少し屈んで子供に声をかける。
その声に少しだけ表情を明るくした子供は、時雨の顔を見上げた。
……見てしまった。
「あ……」
子供の表情が一瞬で変わる。
目を見開き、身体が震えていた。
何度も見た反応。
向けられてきた視線。
くしゃりと歪められた顔を大粒の涙が伝い、喧騒を裂くような泣き声が上がった。
「おばけ……!!」
子供は外套から手を離し、後ずさろうとして地面に尻餅をつく。
時雨は心配するように手を伸ばしかけ、びくりと震えた子供に動きを止めた。
泣き声が更に大きくなる。
怖がらせてしまった。
胸が鈍い痛みを訴える。
「清太……!!」
雑踏の中から飛びだした女性が、泣きじゃくる子供を抱き締め、時雨をぎりっと睨み付ける。
気が付けば周囲は、時雨と彼らを遠巻きに眺め、何かを囁きあっていた。
突き刺さる視線から逃げ出すように、時雨は後ずさり、その場から駆け出す。
宛があるわけもなく、ただただ、人がいない方へと。
後ろから時雨の名前を呼ぶ微かな声すら、耳に入らずに。
町外れの誰もいない細い道。
息を切らした時雨はようやく足を止めた。
そのまま俯けば、地面にぽたりと汗がこぼれ落ちる。
外套の影から覗く震える手を見下ろせば、淀みに侵された醜い肌が目に映った。
「……怖いものです、よね」
身を蝕む淀み。
その恐ろしさは時雨が一番分かっている。
「……当然です」
あの子には申し訳ないことをした。
彼の母親にも。
ふと、顔を上げた時雨の視界に、道の端に咲く小さな野草が映った。
時雨はそっとそれに手を伸ばす。
指先が触れる。
花は愛らしく咲いている。
少し力を入れれば、あっさりと細い茎は手折られた。
花が地面を離れたのと同時に、花弁がくすみ始める。
はらはらと落ちていく花びらを見つめ、時雨は腕の中の着物をぎゅっと抱き締めていた。
時雨は一人で宿に戻っていた。
やはり、広い町中を無闇に探して、すれ違いになるよりも、こちらの方がいい。
外套は脱げないまま、荷物を整理していれば、そう待たずに玄兎も帰ってくる。
「……あ、おかえり、なさい」
息を切らしている玄兎に、時雨は立ち上がり、優しい声を心がけて微笑みかける。
「申し訳ありません。……探してくださっていたんですね」
「時雨……」
一歩距離を詰めようとした玄兎に時雨は身体をびくりと揺らしてしまう。
「あ……その、はぐれてしまって、申し訳ありませんでした。迷惑をかけてしまって……」
次々と言葉を紡ぐ時雨に、玄兎は泣き出しそうな顔で手を伸ばす。
思わず外套を抑えた時雨に、一度動きを止めて、外套の上から時雨を強く抱き締める。
「……ごめん」
「……何故、玄兎が謝るのですか」
「一人にして……嫌な思いさせて、ごめん」
「玄兎のせいでは……ありません」
時雨の言葉に玄兎の腕の力が強くなる。
時雨は少し痛いほどの抱擁に、ただただ身を任せてしまう。
「……醜いですね」
暫しの沈黙の後、ぽつりと時雨が呟いた。
「……俺は、そうは思わないよ。時雨が、淀みを引き受けて……頑張って耐えてくれてた証でしょ?」
ゆっくりと玄兎の手が、外套へと伸ばされた。
外套で遮られていた光に晒されるのを厭うように、時雨は玄兎の肩に顔を埋める。
玄兎の優しい瞳に、何かが崩れてしまいそうだったから。




