リベーラ邸へ
のちに梨亜は何度も思った。あの時、医師に誘われるまま、夜会から抜け出し、そのまま旅に出ていたら、自分の運命も違うものになったんじゃないか、と。
でも、その時の梨亜はそうしなかった。涙を拭きながら、医師から身体を離し、医師に告げた。
「私の仕事はあと二か月残っています。私は、私の仕事を全うしたい。もともとは、私が始めたことですから。それが終わったら、先生、一緒に連れて行ってもらえますか?」
「もちろんです、だが……。」
医師がなにか言いかけたとき、「リアナ!」と呼ぶセリオの鋭い声が聞こえてきた。梨亜はゆっくりとそちらを振り向く。
「ここで何をしてるの……ロレンソ先生と。」
「先生は、ラウージャ男爵さまのお父様の診察にいらしていたの。たまたま会ったから、ここでお話していただけ。」
「そう……。」
セリオは何か言いたげな唇をぐっと噛む。セリオの険しい表情を見て、梨亜は急いでセリオの横に戻る。
「もう、夜会に戻らなきゃ。今日はまだ三曲しか踊っていない。」
「ああ…。」
「では、先生、失礼いたします。」
医師の顔を見ないように、梨亜は挨拶をして、セリオに連れられ、また華やかな宴の席に戻って行った。
夜会が終わり、いつものように疲れ果て、ぐったりと馬車の中で眠る梨亜を、彼女に知られないようにこっそりと腕の中にしながら、セリオは暗がりで医師と彼女が抱き合っていたことを思い返していた。彼女を女性としては見ていないようなことを言いながら、あの医師、とんだ二枚舌だ、とセリオはぎりぎりと歯噛みする。このまま旅に出られてしまったら、二人がどうなるか火を見るよりも明らかだ。
真珠姫を辞めさせるのは、セリオも賛成だ。「真珠姫」発案者のセリオの母も、リアナ自身が辞めたいと言えば、無理に引き止めたりはしないだろう。そこまで情のない女ではないはずだ。そして、彼女が領地に戻るときについていくか、あとを追いかけてゆき、彼女の親族に結婚の許しをもらおう。自分は領地はなくともフェルディナント商会の継嗣で、男爵の爵位も自分が継ぐことになっている。子爵家から反対があるとは思えない。眠る梨亜のまぶたに唇を押し当てながら、セリオは思いをめぐらせていた。
次の朝、セリオは早々に梨亜の部屋に来て、梨亜に告げる。
「梨亜。今日はレッスン日だけど、レッスンはお休みだ。僕らふたりとも、リベーラ議長さまのお屋敷に呼ばれた。」
「そう……。」
梨亜の胸はふたたび強い緊張感に包まれる。昨日、彼が残した強い言葉には、なにかの思惑や続きがあるのだろう。それに梨亜も怖いが知りたい。彼がどこまで知っているのか、祖父の意志は事実なのか、と。
リベーラ邸に向かう馬車の中で、セリオに尋ねる。
「セリオは議長さまと親しいの?」
「ああ、フェルディナント商会で扱う刃物など鉄製品のほとんどはリベーラ社のものだし、小さいころからリベーラ夫妻にはかわいがってもらっていたからね。よく屋敷にお邪魔していたよ。……でも、大人になって行くのは初めてかな。」
「そう。昔から偉い方なのね」
「議長の会社は昔で言うアフィラードの近くに鉱山を持っている。鉄製品の生産もそこで行っているけど、仕事が忙しくてなかなか南都に顔を出すことができない。何といっても、鉱山の生産量はオーキッド一だから、鉄製品だけでなく、銑鉄も鋼もオーキッド全土に送られているし、とにかく会社はいそがしい。議長はこの時期と議会のシーズンには来ないけれど、息子さんたちも立派になられたことだし、そろそろ南都に本格的に戻ってこられるかもしれないね。」
セリオの解説を聞いているうちに、馬車は広い邸内に入り込んだ。一年のほとんどが主の留守だというのに、綺麗に手入れされた美しい庭園に、梨亜は目を見張る。
「いらっしゃい!セリオよく来たわね!」
馬車から降りたとたんに、年配のふくよかな婦人にぎゅうとしがみつかれ、セリオは重さでよろめいていた。
「リベーラ議長夫人、お久しぶりです。」
なんとか体制を立て直したセリオが挨拶すると、二重あごのたっぷりとした丸顔の夫人は、ペタペタとセリオの体のあちこちに触れる。
「少し見ないうちに立派になって!今日は綺麗なお嬢さんと一緒なのね。恋人?カタブツ返上したの?」
「ルイサ、これがおまえの会いたがっていた『ポロネーシュの真珠姫』だよ。」
そう言いながら、マヌエル・リベーラはゆったりとした足取りで二人の前に立った。




