マティアス公爵家にて
梨亜が次に目覚めたのは、煌々と日のさす明るい室内だった。むっくりと体を起こすと、そばに控えていた女の人が立ち上がり、
「あ!お嬢様がお目覚めで!おはようございます。」
「お、はようございます。ここは?」
ぼんやりとした頭で梨亜は女の人を見つめる。外国の人みたいな顔をした、人の好さそうな丸顔のおばさん。なんでこんな外国風のひとの言う言葉が、梨亜の耳にすうっと入ってくるんだろうか。……日本語じゃないことはわかる。わかるのに梨亜は容易に理解できるのだ。そして、今、梨亜がしゃべった言葉も、日本語を発したはずなのに、このおばさんの言う言葉に近い言語だったのだ。
「ここはご領主様のお屋敷ですよ。すぐにご主人様をおよびしますからね!そのままお待ちを!」
そう言って女の人は礼をして、静かに部屋をあとにしていった。その所作になんとなく品を感じる。梨亜はそのまま上体を起こして、部屋を見渡してみる。
部屋はヨーロッパの古城のような、くすんだ灰色の石造りで、部屋には暖炉もあって、調度も古めかしいけど、磨き抜かれていて、上等の品だとわかる。そして、天蓋付きの寝台……。
「どこよ、ここ。なんで、私、こんなとこに?」
寝すぎていたのか、体も頭もやたらと重い。まわらない思考で、梨亜はいろいろ思い出そうとする。
「あれ……私、確か子猫たちにエサをやってて、それで。」
確か、庭先に不審者が立っていて、その人に、自分が見えるのかとか聞かれて、それでなにか、いいところに連れて行ってあげるよ、みたいなことを言われて、それで……。
「……もしかして、誘拐?」
ヒュペリオンが神とは知らない梨亜が出した結論は、それだった。
「誘拐されたんだ、私。逃げないと……。」
ベッドから滑り降りた梨亜は、戸口に向かおうとして、ふと立ち止まる。
「待って、今逃げてもいいことならないかも。」
戸口に向かおうとした足を逆に向け、窓のほうへ近づく。窓の外は、ごちゃごちゃとした日本の住宅街……ではなく、美しい森と草原が広がっていた。
「うっわ、外出ても、これじゃどこへ向かえばいいのかさっぱり。」
そのとき、扉が大きく開かれ、誰かが入ってきた気配がした。梨亜ははっとして後ろを振り向いて身構えた。……けれど、少し脱力した。入ってきたのは、先ほどの女の人と、もうひとり、立派な服装はしているけれど、人の好さそうな、明らかに敵意も膂力もなさそうな、細身の老人だったのだ
「やあ、無事に起きたようだね。こんにちは。お嬢さん。……驚いただろう。」
「……おはようございます。」
「ソーニャ、いいよ、下がって。この子には私が事情を説明する。」
少し威厳のある様子で、さっきの女の人を部屋から退室させると、老人は小さな木製の丸テーブルの前の席に、梨亜を腰かけさせて、自分も正面に座る。それから、敵意のない笑顔で、にっこりと梨亜に向かって笑いかける。その顔を見て、梨亜は自分がここでひどい目に遭うことはなさそうだ、と少し肩の力が抜けた。
それでも緊張感の抜けない梨亜の表情を見て、老人は同情心にあふれる顔で梨亜を見つめた。
「きみ、あちらの世界で、母親にいじめられていて、大変な思いをしてたんだって?」
「はあ、まあ……。」
梨亜は口ごもりながら、ちらりと老人の目を見る。なんで、この人がそんなことを知ってるんだろう。梨亜の疑問は顔に出ていたようで、老人はうんうんとうなずいて、さらににっこりと目を細めて笑った。
「きみをここに連れてきたヒュペリオンさまに聞いたよ。きみ、ヒュペリオンさまの姿が見えるんだって?すごいねぇ。私はヒュペリオンさまの声だけはなんとか聞こえるんだけど、お姿までは拝見したことがないからねぇ。」
老人のもの言いには、尊敬の念と感嘆が混じっている。
「えっと、ヒュペリオン様……って、あのふ……じゃなくて、ローブみたいなのを着た、銀髪の男の人ことですか?」
このおじいさんの話しぶりからすると、ヒュペリオン様なる人を不審者や誘拐犯呼ばわりするのは、どうもまずそうだ、と梨亜はとっさに判断して、老人にそう尋ねた。
「そう、ヒュペリオンさまはこの世界を治める全知全能の神だよ。異世界のきみには知らない話だろうけどね。」
梨亜は狐につままれたような気分になる。神様?異世界?なんだそれ?
「異世界……。ここ、外国なんですか?」
「外国……とも違うね。まったく別の世界だよ。たぶん、きみの住んでいる国は、ここには存在しない。きみをいじめていた継母も、ここだと絶対きみには手出しができない。それもあって、ヒュペリオンさまはきみをここへ連れてきたんだろうね。ここはヒュペリオン様に守られている栄光の国、オーキッド王国だよ。」
「はあ……。」
聞いたこともない国名だ。梨亜はため息が出る。この老人が嘘を言ったり、妄想から発言している、とは梨亜には思えなかった。
「ええと、私はマティアス公爵という名前なんだけど、いちおう、ヒュペリオンさまのおはからいで、きみの祖父ということになったから、これからはおじいさまと呼んでくれると嬉しいな。……まあ、いきなりは無理だろうから、徐々に、ね。慣れていってくれたらいいから。」
かなりとんでもないことを言われている気がするけど、梨亜はこのおじいさんが嘘をついているとか、誘拐犯に絡んでいるとか、そんな風には全然思えなかった。……たぶん、あのヒュペリオンと言う人…ではなくて神様が、無理やり梨亜をこの人に押し付けていったんだろうな、としか思えなかった。それで、この人の好さそうなお爺さんが、「はい、わかりました。」と素直に梨亜を引き受けることにしたんだろう。
「きみは若いのに、大変な思いをしてきたんだね。大丈夫、ここにはきみに仇なすようなものは誰もいない。使用人もみんな気心のしれたものばかりだ。安心してここで暮らしていっていいよ。」
「はあ……。」
梨亜はなんと言っていいか、返答に困る。いきなり異世界に連れてこられて、ゆっくり暮らしていけ、と言われても、戸惑いのほうが大きい。……いったいいつまで、ここにいていいものなんだろうか。
「詳しいことはおいおい話すけれど、あくまでも君は市井から見つかった私の孫娘ということになっているから、使用人にもそのつもりで接してほしい。それよりもおなかが空いただろう。食べるものを用意させるから、ゆっくり食事をしなさい。」
「はい。」
梨亜もこれには素直にうなずいた。実際に空腹だったのだ。
……こうして、まったく梨亜自身は腑に落ちないまま、マティアス家公爵令嬢としての梨亜の生活は始まった。




