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南都の港へ。

 早朝、梨亜はベッドの中で目を覚ました。


「……これからどうしよう。」


 一応、社交界デビューを果たした後は、おじいさまに好きにするように、と言われてはいる。だから仕事を探そうと思っていたのだけれど、セリオの求婚を断ってしまった以上、フェルディナントの伝手を頼って働き口を探す、というのは難しそうだ。セリオの話が本当なら、王都やほかの都市で、働くことは難しいのだろうか。……一度、おじいさまの領地に帰って出直そうか。


 そう考えながら、身を起こした梨亜は、手早く動きやすいワンピース状のドレスに着替えた。南都を去るのなら、最後にゆっくりあちこち見て回っておきたい。今まではセリオがいないと自由に街歩きもできなかったから、最後ぐらい、一人でまだ見たこともないところへ行ってみよう。梨亜はそっとフェルディナントの屋敷を一人で抜け出した。


 街はまだ店を開くには早い時間だけれど、人々はもう働いていることも多く、速足で行き交う人々の顔には活気があふれる。目的をもって労働している人の表情は輝いて見えて、梨亜はうらやましくそれらの人を眺めた。

 歌声が街角から聞こえてきて、そちらに惹かれて足を向けてみると、洗濯屋、日本で言うクリーニングの店の女たちが、広い洗い場で歌声に合わせてたくさんの木綿の服を踏み洗いしている。洗い女たちの汗ばみ、桃色に染まった頬は可愛らしいな、と梨亜は思った。梨亜もできるなら、その洗い場に飛び込んで、洗い女たちのように足もあらわにして歌を歌いながら踏み洗いに参加してみたいな、と思ったが、シンプルなものとはいえ、こんな貴族然とした服を着ていては、そんなこともできない。


「恵まれているようでも、貴族様って意外と窮屈なのよね。」


 もともと庶民の梨亜はため息をついて、その場から離れた。しばらく歩くと、細い路地から痩せた猫が、なにかをくわえて飛び出してきた。すると、

「待て!この泥棒猫!」

 という男の怒鳴り声が、その路地裏から聞こえてきた。

「ディアン、どうしたのさ。」

 女の声も聞こえる。

「いつもの薄汚ねえ縞猫が、スープにするための干し肉をかっさらっていきやがった!」

 でっぷりと太ったコックらしい大男がレストランの裏口に仁王立ちになり、ぷりぷりと怒っている。

「きちんと扉を閉めておかないから、猫なんぞに出入りされる隙をやっちまうんだよ。あきらめな、ディアン。」

 おかみさんのたしなめる声も聞こえるが、

「ちくしょう、あの猫め。今度来たら、煮え油をぶっかけてやる!」

 と男は物騒な言葉を言い残して、勝手口の扉の奥に消えた。

 梨亜は自分が叱られたような、いたたまれない気持ちになってその場を後にした。セリオのいう通り、この町でたまにみかける猫は、やせ細っていて、毛も薄汚れて見える。残飯をあさるか、人の目を盗んで、ああして人の食べ物をかっさらうように食べるしか、食物を得る手段がないのだろう。猫が人の目に触れるところで、悠々とひなたぼっこをするような光景は、この町でまだ見たことがなかった。

 セリオはひどい言い方で猫をののしっていたけど、あれはこの世界では案外普通の感覚なのかもしれない。すると、自分はひどい言いがかりでセリオを袖にした、風変わりな人間、ということになるのだろうか。


 ……でも猫は。梨亜は膝の上に乗ってじゃれついてきていたマリの子猫たちを思い出す。ほんとは猫たちは人懐こくて、ふわふわして、可愛らしい生き物なのに。目はくるくると丸く、ピンク色の肉球は丸くて、愛らしい。あの可愛らしさを、ほんとにこの国の人は理解できないのだろうか。


 猫のことを考えながら、足を進めていた梨亜の耳に、不意に猫に似た鳴き声が頭上から聞こえてきて、ギョッとした。


「あ、カモメ……?ウミネコ?」


 いつの間にか、港の近くまで来ていたようだ。いくつもの白い鳥が頭上を飛んでいる。海の藍が見えてきて、梨亜は自然と足を早め、桟橋の近くに行ってみる。


 大きな湾に囲まれた穏やかな港は、オーキッド国一の漁港で、たくさんの船が繋がれ、人々がいそがしく働いている。ふと、ニャア、という声が足下から聞こえた。今度こそ、海鳥ではなく、本当の猫だ。しかも、かなり太った大きな雄猫だった。こげ茶の長いしっぽをゆらし、桟橋へ悠々と近づく。その目の前に、中型の漁船が一艘つけられた。

「おう、なんだ、でぶっちょ、また俺のこと待ってんのか。」

 船から一人の漁師らしき、赤髪で赤銅色の顔の若者が飛び降りてきた。もやいで船を岸にしばりつけると、小魚を一匹、ぽんと猫に放る。ニャア、とお礼らしき声を発した太った猫は、小魚をくわえて、どこかに走り去ってしまった。

「おや、黒髪に、黒目……生粋のポロネーシュ人か?」

 その漁師が梨亜に目を止める。

「いえ。祖母がポロネーシュのひとでした。」

 梨亜は言い慣れた言葉を口に上らせる。

「そっか、まあ、ポロネーシュの娘がこんなところにいるわけもねえしな、そんないい服を着てるわけもないし。」

 漁師は上から下までじろじろと梨亜を眺めると、ニヤリと笑った。

「ねえちゃん、別嬪だな、どうだ、俺のところに嫁に来るか?」

「ふふ、冗談。」

 梨亜は苦笑して、男に言葉を返した。南都の人間は、よくよく黒髪、黒目が好きだと見える。


「ハハ。ま、そんな服着てるってことは、あんたお貴族さまだろ。そんなところにぼやっと立ってるとあぶねえよ。も少ししたらポロネーシュからの荷揚げ船が来るから、殺気立った奴らにぶつかって怪我するかもしんねえ。さっさと帰んな。」

「ポロネーシュ……。お兄さん、行ったことあるの?」

「ああ、あるよ、あんたみたいな黒髪、黒目のやつらばっかりぞろぞろ住んでる。でもま、あんたほどの別嬪はポロネーシュでもなかなかいねえけどな。女どもはいっつも短い丈の服着て、日に焼けて、なんも持ってなさそうなくせに、歌ばっかり歌って幸せそうな顔してるよ。んで、猫を友達にして仲良く暮らしてる。変なやつらさ。あいつらに毒されて、俺も猫にエサやる癖がついちまった。」

「そう、ポロネーシュの人たちは猫が好きなのね。私も行ってみたいなあ…。」

「ハッ。あんたみたいなお貴族さまがやっていけるとこじゃねえよ。」

 男は日に焼け顔をくしゃくしゃにして笑った。

「そんな細っこい腕で、ポロネーシュの娘みたいに地曳網が引けるかよ。」

「……やってみなくちゃわかんないわよ。慣れたらできるかも。」

 梨亜は口をとがらせる。梨亜は、「梨亜ちゃんは、文句だけ一人前で、なーんにもできないからね。」と冨美に馬鹿にされるのが一番嫌いだった。でも、いざ、梨亜が家事を自分の分だけでも、とやろうとすると、冨美にやんわり止められるのだ。でも、行動を制限する冨美はもういない。この国の基準ではもう成人もした。だからこそ、梨亜は、自分の力で生きてみたかった。自由の国、ポロネーシュ、本当に渡ってみようか。いまは貴族様なんてやってるけど、自分はもともと庶民だ。肉体労働はきついだろうけど、慣れればなんとかなるかもしれない。

 そう考えて、梨亜はポロネーシュの船が着くという漁船とは反対方向の大きな桟橋に、思いつきで足を進めた。さきほど漁師の男に、危険だから近づくな、と言われたことはすっかり頭から抜け落ちていた。

 桟橋の向こうには、大きな帆船がゆっくりと近づいてきていた。船首には、黒髪、黒目の女王の木像が取り付けられている。ポロネーシュの「黒の女神」を模したものだろう、じゃあ、あれがお目当てのポロネーシュの船か。梨亜が目を輝かせて桟橋に近づこうとしたとき、後ろからわあっと人の波が押し寄せてきた。

「ポロネーシュ船の荷揚げだ!どけどけ!」

 船に押し寄せる人々は、おのおのの雇われ先に所属する荷揚げ人夫たちだった。重い荷に鍛え上げられた男たちは、我先に我が荷を下ろそうと殺気立っている。 

「ねえちゃん、そんなとこに居られたら邪魔だ!」

 不意に太い腕が伸びてきて、梨亜は横にはじき出された。しまった、と思って、邪魔にならないように無意識に、二三歩、梨亜が横に体をずらすと、不意に足下の固い地面が消えた。

 落ちる。頭のどこかで梨亜は焦って何かをつかもうと左腕を伸ばそうとすると、二の腕に焼けるような痛みを感じて、そのまま海中に梨亜の体はざぶりと沈んだ。

 

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