第1話 十七歳の朝、黒歴史が帰ってきた
春の終わりを告げる柔らかな風が、開け放たれた窓から部屋の中へ入り込んでいた。
薄いカーテンがゆっくりと膨らみ、その向こうから朝の光が差し込んでいる。遠くでは荷馬車の車輪が石畳を転がる音が響き、屋敷の裏手にある厩舎からは馬のいななきも聞こえてきた。厨房ではすでに朝食の準備が始まっているらしく、焼きたてのパンと炒めた肉の匂いが、二階の部屋にまで微かに届いている。
アルヴェイン男爵家の屋敷は、貴族の邸宅として見れば決して大きくない。
王都の高位貴族が所有する豪邸のように、広大な庭園や舞踏会を開ける大広間があるわけでもなければ、何十人もの使用人が絶えず廊下を行き交っているわけでもない。それでも代々この土地を治めてきた家らしく、灰白色の石で造られた建物には長い年月を感じさせる落ち着きがあり、シュウにとっては十七年間暮らしてきた自分の家だった。
「……朝か」
寝台の上で目を開けたシュウ・アルヴェインは、眠気の残ったまま枕元へ右手を伸ばした。
指先がシーツの上を探る。
何もない。
「…………」
数秒ほど動きを止めてから、シュウは小さく息を吐いた。
「まだやるんだよな、これ」
前世なら、そこにはスマートフォンが置かれていた。
目覚ましを止めて時刻を確認し、ついでに天気予報やニュースを見る。社会人になってからは、会社から連絡が入っていないことを祈りながら通知欄を確認することもあった。
そんな生活を送っていたのは、もう十七年以上も前になる。
シュウはゆっくりと上半身を起こし、寝癖のついた黒髪を掻いた。窓の外から聞こえてくるのは自動車の走行音ではなく、荷馬車や馬の足音。部屋を照らしているのも電灯ではなく、朝日と壁際に残された魔導灯の淡い光だ。
ここは日本ではない。
前世の自分――神代修司が生きていた世界とはまったく違う、魔法と魔物が当たり前に存在する世界だった。
神代修司は、ごく普通の会社員だった。
世界を変えるような仕事をしていたわけでも、何か特別な才能を持っていたわけでもない。朝になれば仕事へ向かい、夕方――というより残業があれば夜になってから帰宅し、休日には好きなものを食べたり、家で本や漫画を読んだりして過ごしていた。
その人生がどう終わったのかについても、シュウには記憶がある。
けれど、それを昨日の出来事のように引きずってはいない。
この世界で赤ん坊として生まれ、シュウ・アルヴェインという名前を与えられてから十七年が経っている。
父ローデリックの大きな腕に抱かれた記憶。
母エレノアに手を引かれて庭を歩いた記憶。
兄レイモンドの後ろを追いかけて転び、膝を擦りむいた記憶。
初めて木剣を握った日。
魔法の灯りを作ることに成功し、家族に褒められた日。
ローデリックに叱られたことも、エレノアに心配をかけたことも、レイモンドとくだらない喧嘩をしたこともある。
前世の記憶は、確かに今のシュウを形作っている。
それでも、今の家族を「転生後に与えられた家族」などと他人行儀に考えたことはなかった。
ここが自分の家で、ローデリックとエレノアが両親で、レイモンドが兄だ。
「さて……」
シュウは寝台から降りると、窓辺へ歩いた。
窓をさらに開けば、少し冷たい風が頬を撫でる。眼下にはアルヴェイン領の町並みが広がり、赤茶色や灰色の屋根が朝日に照らされていた。
屋敷は小高い丘の上に建っているため、町の中央を通る大通りまでよく見える。中央広場では露店の準備が始まり、商人たちが荷台から木箱を下ろしている。町の外側には広い畑が続き、さらに向こうには新緑に覆われた森と低い山々が連なっていた。
十七年間見てきた景色。
だが、もうすぐしばらく見られなくなる。
「あと少しか」
王都へ出発する日が近づいていた。
今年、シュウは王立魔法学院へ入学する。
貴族の子供として特別珍しい進路ではない。魔法の素養がある貴族の子弟の多くは学院へ進み、魔法や剣術、学問、歴史などを学んだあと、それぞれの道へ進んでいく。
アルヴェイン家の家督を継ぐのは、長男であるレイモンドだ。
兄弟仲が悪いわけでもなければ、後継者争いがあるわけでもない。シュウ自身、男爵位を奪いたいなどと考えたことは一度もなかったし、レイモンドも弟だからという理由でシュウを遠ざけるような兄ではない。
むしろ次男であることを、シュウは少しありがたいとさえ感じている。
進路を自由に選べるからだ。
騎士になる。
魔術師になる。
官僚として働く。
領地へ戻ってレイモンドを補佐する。
あるいは、まったく違う道を選ぶ。
まだ決めていない。
前世で一度社会人まで経験しているからこそ、十七歳の時点で残りの人生をすべて決める必要はないと思っていた。
ただ、一つだけ漠然とした願いがある。
この世界を見てみたい。
アルヴェイン領は好きだ。
家族も、この町も、この景色も好きだった。
それでも、この世界には前世には存在しなかったものがあまりにも多い。
魔法。
魔物。
迷宮。
異なる種族。
まだ見たことのない国。
書物の中でしか知らない巨大な山脈や海。
そんなものが本当に存在しているのなら、自分の目で見てみたい。
「まあ、学院に行ってから考えればいいか」
焦ることはない。
そう思いながら窓を閉めたところで、廊下から足音が近づいてきた。
二度、扉が叩かれる。
「シュウ様、起きていらっしゃいますか?」
「起きてるよ」
「朝食の準備が整っております」
「分かった。すぐ行く。ありがとう」
返事をすると、扉の向こうから「失礼いたします」と声が返り、足音が遠ざかっていった。
シュウは簡単に顔を洗い、普段着へ着替える。
鏡の中には、黒髪と灰色の瞳を持つ十七歳の少年が映っていた。
幼い頃なら、鏡を見るたびに前世の顔との違いを意識することもあった。
今はもうない。
鏡に映っているのが自分だ。
「よし」
髪を簡単に整えて部屋を出る。
階段を下りるにつれて、朝食の匂いが濃くなった。
◇ ◇ ◇
食堂へ入ると、家族はすでに席についていた。
窓から差し込む朝日が長い食卓を照らし、籠に盛られた焼きたてのパンから湯気が立っている。野菜と香草を煮込んだスープ、薄く切った燻製肉、卵料理が並び、シュウの席にも食器が用意されていた。
食卓の上座に座るローデリック・アルヴェインが、入ってきたシュウへ顔を向けた。
アルヴェイン男爵家の当主である父は、領民の前では落ち着いた領主として振る舞うが、家族だけの食卓ではそれほど堅苦しくない。今も手元のパンをちぎりながら、少し面白がるように口元を緩めている。
「遅かったな」
「朝食には間に合ってるだろ?」
「あと少し遅ければ、お前の分までレイモンドが食べていたぞ」
向かい側に座っていたレイモンド・アルヴェインが、手にしていたカップを静かに置いた。
長男としていずれ父から男爵家を引き継ぐ予定の兄は、普段はシュウよりずっと落ち着いている。しかし父の冗談にまで黙って付き合うほど無口ではなかった。
「父上。なぜ私がシュウの朝食を奪うことになっているのですか」
「昨日の夕食で肉を追加していただろう」
「あれとこれとは関係ありません」
「兄さん、欲しいならパン一個あげるよ」
「いらない。父上の話を真に受けるな」
真面目な顔で返すレイモンドを見て、母エレノア・アルヴェインが口元へ手を添えて笑った。
「朝から仲がいいわね」
「母上まで」
「俺は何もしてないけど」
「お前が面白がって乗るからだろう」
シュウは笑いながら自分の席へ座った。
こういう時間が好きだった。
何か特別な出来事があるわけではない。
それでも、家族と同じ食卓を囲んでくだらない話をする時間は、王都へ行けば当分減る。
「シュウ」
エレノアがスープを口へ運んでいたシュウを見る。
「学院へ持っていく荷物は確認したの?」
「昨日、一通り。服、筆記具、教本、剣の手入れ道具。あとは向こうで必要になったものを買えばいいかなって」
「常備薬は?」
「入れたよ」
「本当に?」
「…………」
エレノアの目が僅かに細くなった。
怒っているわけではない。だが幼い頃から、この顔をした母に曖昧な返事をして逃げ切れた記憶もなかった。
シュウは視線を逸らす。
「……たぶん」
「食べ終わったら確認しなさい」
「はい」
即答すると、レイモンドが肩を震わせた。
「お前、昔から母上には弱いな」
「兄さんは勝てるの?」
「勝とうと思ったことがない」
「逃げたな」
「賢明な判断だ」
「そこ、二人とも聞こえているわよ」
エレノアが笑顔で言う。
兄弟揃って口を閉じた。
その様子を見て、ローデリックが声を立てて笑った。
「学院へ行っても、その調子なら心配はいらんな」
「どういう意味?」
「お前は昔から妙なところで考えすぎる。王都へ行けば、この領地では見たことのない人間も大勢いるだろう。全部一人で理解しようとせず、分からなければ人に聞け」
ローデリックの言葉に、シュウは少しだけ目を瞬いた。
学院へ行くこと自体を反対されたことはない。
家督を継ぐレイモンドとは違い、シュウには好きな道を選べと言われてきた。だからこそ、父が何も考えていないわけではないことも分かっている。
「分かってる」
「ならいい」
「困ったら私にも連絡しろ」
レイモンドが続ける。
「王都に知り合いが多いわけではないが、一人で抱え込むよりはいい」
「ありがとう、兄さん」
「ただし借金の相談は断る」
「まだ学院にも行ってないのに何を想定してるの?」
「王都には誘惑が多いと聞く」
「どんな学院生活を送ると思われてるんだ、俺」
「その心配は私もしているわよ?」
エレノアまで穏やかな笑顔で加わってくる。
「母さん!?」
「冗談よ。半分くらいは」
「半分残ってるじゃん……」
ローデリックが再び笑い、レイモンドも今度は隠さず口元を緩めた。
シュウも呆れながらパンをちぎる。
もうすぐ離れるからといって、必要以上に湿っぽくならない。それが今はありがたかった。
朝食を終えたシュウは、エレノアに言われた通り部屋へ戻って荷物を確認した。
常備薬は入っていなかった。
「……危なかった」
母の確認がなければ、そのまま王都へ向かっていたかもしれない。
薬を荷物の奥へ入れ、今度こそ確認を終えると、シュウは午前の日課である剣の訓練へ向かった。
◇ ◇ ◇
屋敷の裏手には、アルヴェイン家に仕える騎士たちが使用する小さな訓練場がある。
朝の陽射しが土の地面を照らし、何人かの騎士がすでに身体を動かしていた。木剣が打ち合わされる乾いた音に、革靴が地面を擦る音が混じる。
「おはようございます、シュウ様」
「おはよう」
「今日も?」
「もちろん」
壁際の武器掛けから木剣を一本借りる。
シュウは幼い頃から、剣と魔法を学んできた。
転生者だからといって、何もしなくても強くなったわけではない。
前世の知識で、この世界を簡単に変えられたわけでもなかった。
たとえば石鹸。
存在も大まかな仕組みも知っている。
だが「では材料の正確な割合と安全な製造工程を説明してください」と言われれば無理だ。
蒸気機関も同じ。
電気についても同じ。
現代社会で完成品を使っていたことと、それを何もないところから作れることはまったく違う。
だからシュウは、この世界で普通に学んだ。
剣を振り、魔法を練習し、失敗し、少しずつ身につけてきた。
「お願いします」
騎士の一人と向かい合う。
「こちらこそ」
互いに軽く礼をしたあと、騎士が木剣を構えた。
空気が変わる。
シュウも腰を落とした。
先に動いたのは騎士だった。
踏み込みと同時に振り下ろされた木剣を受けると、乾いた衝撃が両手へ伝わる。シュウは真正面から押し返さず、力を横へ逃がしながら半歩移動した。
相手もすぐに対応する。
横薙ぎ。
受ける。
返す。
木剣同士が何度も打ち合わされ、朝の訓練場に音が響いた。
いつも通りのはずだった。
だが、数度打ち合ったところで、シュウは僅かな違和感を覚えた。
身体が軽い。
相手の剣が、いつもよりよく見える。
木剣が振られる前の肩の動き。
踏み込む足。
重心。
それらを考えて見ているわけではないのに、自然と目に入ってくる。
「……っ」
騎士の剣を受け流し、空いた脇へ身体を滑り込ませる。
木剣の先端が、相手の肩へ触れた。
「そこまで」
見守っていた別の騎士が声を上げた。
シュウはすぐに剣を下ろした。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。しかし……」
対戦相手の騎士が、自分の肩を見てからシュウへ視線を戻す。
「また腕を上げられましたか?」
「いや……どうだろう」
シュウ自身にも分からない。
昨日までできなかった動きではない。
だが、これほど自然でもなかった。
「学院へ行けば、もっと強い人がいるんだろ?」
「もちろんです。王国中から才能のある若者が集まりますから」
「楽しみだな」
それは本心だった。
知らない剣術。
知らない魔法。
自分より強い同年代。
前世で「学生生活をもう一度やりたい」と考えたことはほとんどないが、魔法学院となれば話は違う。
「もう一本お願いしてもいい?」
「もちろん――」
騎士が答えた、その瞬間。
胸の奥で何かが脈打った。
「……っ?」
シュウは反射的に胸へ手を当てた。
心臓ではない。
痛みもない。
それなのに、自分の内側を何かに触れられたような奇妙な感覚があった。
「シュウ様?」
「……ごめん」
呼吸を整えながら、自分の魔力を探る。
乱れてはいない。
体調が悪いわけでもない。
それでも確かに何かがあった。
「今日はここまでにしていい?」
「もちろんです。ですが、顔色が悪いようでしたら治癒術師を――」
「そこまでじゃないよ。ちょっと変な感じがしただけ」
騎士は心配そうな顔をしていたが、シュウが木剣を戻すのを止めなかった。
訓練場から屋敷へ戻りながら、シュウは何度か胸へ意識を向ける。
もう何も感じない。
「……なんだったんだ?」
独り言に答える者はいなかった。
この時点では。
◇ ◇ ◇
午後は何事もなく過ぎた。
ローデリックから学院へ提出する書類について説明を受け、荷物の最終確認を進め、昼食後にはレイモンドと王都について話した。エレノアからは旅の途中で食事を抜かないよう念を押され、そのたびにシュウは「子供じゃないんだから」と返したが、母からすれば十七歳の次男は十分に心配する対象らしい。
朝の違和感は戻ってこなかった。
シュウ自身も、夕食の頃には「疲れていたのかもしれない」と考えるようになっていた。
問題が起きたのは、その日の夜だった。
町の灯りもほとんど消え、屋敷が静けさに包まれた頃。
シュウは自室の机に向かい、学院から届いた入学案内を読んでいた。
窓の外では虫が鳴いている。
時折吹く夜風が木々を揺らし、葉の擦れる音が微かに聞こえてくる。机の端に置いた魔導灯は淡い橙色の光を放ち、その明かりの中で紙面の文字が浮かんでいた。
「入学式は……朝からか」
王都には数日前に到着する予定なので、時間的な余裕はある。
寮の規則。
授業時間。
持ち込み可能な武器。
学院内での魔法使用制限。
読み進めていたところで、朝と同じ感覚が胸の奥に走った。
「……また?」
シュウは紙から顔を上げた。
今度は消えない。
胸の奥に何かがある。
身体の中というより、自分自身のさらに深いところに、異物が触れているような感覚だった。
シュウは椅子から立ち上がった。
魔力を探る。
異常なし。
呼吸もできる。
痛みもない。
それなのに、その存在感だけが徐々に強くなっていく。
「なんだよ、これ……」
意識を向けた。
その瞬間。
胸元から黒い光が溢れ出した。
「は?」
シュウは咄嗟に後ろへ下がった。
椅子の脚が床を擦り、大きな音を立てる。
黒い光は服を突き破るのではなく、まるで身体そのものを透過するように現れた。細かな粒子が空中へ集まり、ゆっくりと渦を巻き始める。
敵意は感じない。
だが、明らかに普通ではない。
シュウはいつでも魔法を使えるよう右手へ魔力を集めながら、目の前の現象を睨んだ。
黒い光の中に銀色の線が走る。
長方形の輪郭。
厚み。
表面。
やがて光は、一冊の本へ変わった。
「……本?」
黒い表紙には銀色の装飾が施され、中央には赤黒い宝石が埋め込まれている。古びた書物ではなく、むしろ異様なほど美しく、見るだけで普通の本ではないと分かる存在感があった。
魔導書。
そう呼ぶのが一番近い。
それがシュウの目の前で、誰の手にも支えられず浮いている。
「なんだ、これ……」
シュウが一歩横へ動く。
本の向きが変わった。
逆へ動く。
またこちらを向く。
「俺を見てる?」
自分で言ってから馬鹿らしくなる。
本だ。
目などない。
そのはずだった。
《起動を確認しました》
「…………」
シュウの動きが止まった。
静かな声だった。
男とも女とも断定しづらい、落ち着いた声。
耳から聞こえたのではない。
意識へ直接届いた。
《魂魄照合を開始します》
「……誰だ?」
《照合中》
「いや、待て」
《照合完了》
「だから待てって」
《登録魂魄との一致率、百パーセント》
シュウの頬が引きつる。
「人の話を聞け」
《所有者認証を完了しました》
「…………」
こちらの戸惑いなど一切考慮せず、声は淡々と処理を続けていく。
シュウは眉間を揉んだ。
「分かった。順番に聞く」
《どうぞ》
「お前は誰?」
《質問を確認》
「それはいらない」
《私の名称を回答します》
「ああ」
黒い本の中央にある赤黒い宝石が、ゆっくりと明滅した。
《禁書アルカディア》
シュウの呼吸が止まった。
「…………は?」
《禁書アルカディア》
「…………」
聞き間違いではない。
その名前を知らないはずがない。
だが。
知っているからこそ、あり得ない。
「……嘘だろ」
神代修司。
十四歳。
中学二年生。
当時の自分は、想像力だけは豊かだった。
世界の裏側には一般人の知らない組織がある。
自分にはまだ覚醒していない力が眠っている。
もし異世界へ行ったなら。
もし魔法が存在したなら。
もし自分が最強だったなら。
そんな妄想を一冊のノートへ書き続けた。
魔法。
必殺技。
武器。
魔眼。
召喚獣。
自分自身の設定。
格好いいと思ったものを片っ端から詰め込んだ。
強い敵を思いつけば、それを倒せる能力を追加する。
その能力でも倒せない敵を思いつけば、さらに強い能力を追加する。
限界など考えなかった。
整合性など後回しだった。
十四歳の神代修司にとって、最も重要だったのは一つ。
格好いいかどうか。
そのノートに、自分で名前をつけた。
「……禁書アルカディア」
《はい、マスター》
その呼び方まで聞いた瞬間、シュウの背筋を悪寒が駆け抜けた。
記憶の奥に押し込めていたものが、一気に蘇ってくる。
「うわあああああああああああああっ!」
両手で顔を覆う。
成人後、一度も思い出さなかったわけではない。
何かの拍子に昔の自分を思い出し、布団の中で呻いたこともある。
だが、そのたびに記憶へ蓋をした。
忘れろ。
あれは子供の頃のことだ。
誰にも見せていない。
もう存在しない。
そうやって生きてきた。
なのに。
ある。
目の前に。
しかも喋る。
「なんでだよ!」
《質問が不明瞭です》
「なんでお前がここにいるんだよ!」
《回答不能です》
「なんで!?」
《私にも不明だからです》
「そこは分からないのかよ!」
思わず叫んだあと、シュウは慌てて口を押さえた。
夜だ。
ローデリックもエレノアもレイモンドもいる。使用人だってまだ完全に眠っている時間ではない。
耳を澄ませる。
廊下から足音は聞こえない。
「……危ない」
《音量を抑えることを推奨します》
「誰のせいだと思ってる」
《マスターの感情制御の問題かと》
「お前、昔からそんな性格だった?」
《質問の意図が不明です》
「俺、お前が喋るなんて設定した?」
《はい》
即答だった。
嫌な汗が背中を流れた。
「……なんて書いた?」
《全文を読み上げますか?》
「待て」
《承知しました》
知りたい。
だが、知ったら死ぬ。
前世で成人まで生きた精神が、全力で警報を鳴らしている。
「……要点だけ」
《禁書アルカディアは自我を有する》
「うん」
《所有者である神代修司の唯一無二の理解者》
「…………うん」
《あらゆる戦場において冷静なる助言を与え――》
「もういい」
《まだ序文ですが》
「序文!?」
再び声が大きくなる。
シュウは自分の口を塞いだ。
「何ページ書いた?」
《私自身に関する設定のみで十二ページ》
「…………」
十四歳の自分は何をしていたのか。
《非常に熱心でした》
「心を読むな」
《発言内容から推測しました》
「余計に腹立つな」
《ありがとうございます》
「褒めてない」
シュウは深く息を吐き、机へ手をついた。
「……そのマスターって呼び方も?」
《マスター自身の指定です》
「変えられる?」
《設定変更権限を確認します》
「よし」
少しだけ希望が見えた。
数秒後。
《確認完了》
「シュウで」
《変更不能です》
「今、確認した意味は!?」
《変更権限が存在しないことを確認しました》
「十四歳の俺ぇ……!」
頭を抱える。
しかし、いつまでも羞恥だけで騒いでいるわけにはいかない。
シュウは何度か呼吸を整え、改めて黒い本を見た。
「……アルカディア」
《はい、マスター》
「お前は本当に、前世で俺が書いたあのノートなのか?」
《肯定します》
「名前だけ同じとかじゃない?」
《否定します》
「俺の記憶を読んで再現されたものは?」
《現時点で確認できる情報上、否定します》
「じゃあ、なんでこの世界に?」
《不明です》
ここだけは一貫している。
アルカディア自身にも、自分がなぜこの世界に現れたのか分からない。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に確認しなければならないことがあった。
「お前、何ができる?」
黒い本が開いた。
誰も触れていないのに、紙の擦れる音を立てながらページが次々とめくられていく。
数枚。
十数枚。
さらに続く。
「……ちょっと待て」
《はい》
「何ページあるの?」
《多数》
「答えになってない」
《現在、分類処理中です》
「分類が必要なの?」
《必要です》
シュウの嫌な予感が膨らむ。
やがてページが止まった。
《分類完了》
「……聞こうか」
《戦闘能力》
「うん」
《防御能力》
「うん」
《回復能力》
「うん」
《召喚能力》
「……うん」
《魔眼能力》
「…………うん」
《具現化能力》
「待って」
《特殊能力》
「待ってって」
《その他、分類不能》
「分類不能まであるの!?」
記憶が少しずつ戻ってくる。
そうだ。
書いた。
確かに書いた。
思いついた能力を、ほとんど際限なく。
「……俺、どれだけ盛ったんだよ」
《詳細を読み上げますか?》
「今はやめろ」
《承知しました》
だが、ここで一つ重大な疑問が生まれる。
「それ……使えるの?」
《使用可能です》
「…………」
シュウはしばらく言葉を失った。
妄想ではない。
設定資料でもない。
使える。
この世界で。
「全部?」
《条件を満たす限り》
「条件は?」
アルカディアのページが一枚めくられた。
《選択式能力について説明します》
「頼む」
《マスターは登録された選択式能力から一種類を選択できます。一度選択した能力は二十四時間固定され、その期間中は繰り返し使用可能です》
「一回使ったら終わりじゃないんだな?」
《はい》
「ただし二十四時間は変更できない」
《その通りです》
シュウは少し考えた。
強い。
だが、選択を間違えれば困ることもある。
移動に便利な能力を選んだ日に強敵と遭遇する可能性もあるし、戦闘能力を選んだ日に治療が必要になるかもしれない。
「今は何か選んでる?」
《いいえ》
「じゃあ何も使えない?」
《選択式能力は使用不能です。ただし、常時適用されている設定が存在します》
「常時?」
嫌な予感が戻ってきた。
「……何を書いた、俺」
《読み上げます》
「要点だけな」
《神代修司は常人を遥かに超える身体能力を有する》
「…………」
《あらゆる武器を自在に扱う》
「…………」
《魔力を視認・感知する》
「ちょっと待って」
《毒、麻痺、呪詛等に対する強大な耐性を有する》
「まだ?」
《自然治癒能力――》
「なんで全部常時なんだよ」
《記述上、これらは能力ではありません》
「は?」
《「これは能力ではない。俺自身が元々備えている基本性能である」と明記されています》
記憶が蘇った。
「……あああああ……」
能力を封じる敵が出てきた場合どうするか。
十四歳の修司は真剣に考えた。
そして出した答えが。
能力が封じられても、自分自身が強ければいい。
「馬鹿だろ、俺……」
《対策としては合理的です》
「肯定しなくていい!」
朝の訓練で身体が妙に軽かった理由も分かった。
すでに影響が出ていたのだ。
「いつから?」
《本日朝、第一段階の同期開始時点からです》
「だから朝に……」
胸の違和感。
あれが始まりだった。
「他には?」
《常時保有魔力として《漆黒魔力》が登録されています》
「…………」
今度は、名前だけで記憶が蘇った。
「それ、覚えてる」
《結構です》
「できれば忘れたままでいたかった」
普通の魔力では特別感が足りない。
そう考えた十四歳の修司は、自分だけの魔力を設定した。
「……使える?」
《はい。こちらはマスター自身の魔力として定着しているため、解放は不要です》
「どうやって?」
《意識してください》
「それだけ?」
《それだけです》
シュウは右手を持ち上げた。
普段魔法を使うときと同じように、魔力を掌へ集める。
ただし今回は、色を意識した。
黒。
途端に。
「うわっ……」
掌の上に、小さな漆黒の光球が生まれた。
炎ではない。
闇属性魔法とも違う。
密度の高い魔力そのものが、黒い光として凝縮されている。
周囲の空気が僅かに震えた。
シュウは目を見開いた。
「……すげえ」
《十四歳のマスターと意見が一致しました》
「今のなし」
《記録しました》
「消せ!」
《記録内容の削除機能は――》
「もういい!」
慌てて魔力を消す。
静かな部屋へ戻る。
それでも、掌に残った感覚まではすぐに消えなかった。
恥ずかしい。
名前も設定も思い出したくない。
なのに、実際に使うと格好いい。
そこが一番腹立たしい。
「……これ、絶対隠した方がいいな」
《同意します》
「お前のことも」
《妥当です》
「誰かに声は聞こえる?」
《いいえ。現在、私の音声情報を受信できるのはマスターのみです》
「姿は?」
《実体化中は視認可能です》
「じゃあ普段は?」
《収納可能です》
シュウが固まった。
「…………」
《マスター?》
「それを最初に言えよ!」
今夜一番の大声が出た。
直後、廊下から足音が近づいてくる。
「シュウ?」
レイモンドの声だった。
シュウの顔から血の気が引く。
「起きてる!」
「それは分かっている。さっきから随分声が聞こえるが、何かあったのか?」
「何もない!」
返答が早すぎた。
扉の向こうで沈黙が落ちる。
「……本当に?」
「ちょっと学院の練習を!」
「何の?」
「発声!」
「発声?」
「魔法の!」
自分でも苦しいと思う。
《非常に不自然です》
『黙ってろ!』
《私は発声しておりません》
『分かってる!』
「シュウ?」
「大丈夫だから! もう寝る!」
「……そうか。体調が悪いなら無理せず言えよ」
「分かった!」
レイモンドの足音が離れていくまで待つ。
シュウは大きく息を吐いた。
「危なかった……」
《収納方法を説明します》
「お願いします」
今度は素直に頭を下げた。
《私が自身の内側へ戻ることを意識してください》
「戻れ」
言葉と同時に意識する。
アルカディアの輪郭が黒い光へ変わった。
無数の粒子となり、それらがシュウの胸へ吸い込まれていく。痛みはなく、むしろ本来あるべき場所へ何かが収まるような、不思議な安心感があった。
数秒後。
黒い本は消えた。
「アルカディア?」
《はい、マスター》
「この状態でも話せるのか」
《問題ありません》
「基本これでいこう」
《承知しました》
「できるだけ出てくるなよ」
《選択式能力の解放時には実体化が必要です》
「……なんで?」
《そのように設定されています》
「誰が?」
《十四歳のマスターです》
「聞いた俺が悪かった」
シュウは寝台へ向かった。
もう今日は十分だ。
明日になったら、少しずつ能力を確認すればいい。
そう思って掛け布団をめくる。
しかし、横になる直前。
「……アルカディア」
《はい》
「一つだけ」
《どうぞ》
「俺が一番気に入ってた能力って、何?」
《「気に入っていた」の客観的判定は困難です》
「じゃあ、一番設定を書き込んでたやつ」
答えは早かった。
《《心装武器》です》
胸の奥が微かに熱を持った。
「……心装武器」
炎。
水。
風。
雷。
光。
闇。
六つの色が記憶の中に蘇る。
炎の槍。
水の盾。
風の銃。
雷のアックス。
光のバスターソード。
闇の双剣。
「そうだ……あったな」
絵まで描いた。
何度もデザインを直した。
技名を考えた。
学校の授業中に新しい設定を思いつき、忘れないよう教科書の端へ書いて、帰宅してからノートへ清書したこともあった。
「うわぁ……」
《詳細を読み上げますか?》
「絶対やめろ」
《承知しました》
シュウは布団へ入った。
目を閉じる。
数秒。
「……心装武器も本当に使える?」
《はい》
「炎の槍も?」
《はい》
「水の盾」
《はい》
「風の銃」
《はい》
「雷のアックス」
《はい》
「光のバスターソード」
《はい》
「闇の双剣」
《はい》
「…………」
《マスター》
「何?」
《楽しみですか?》
「違う」
《心拍数が上昇しています》
「うるさい」
《期待されていますね》
「……ちょっとだけ」
《素直で結構です》
「もう寝る」
《おやすみなさいませ、マスター》
掛け布団を頭まで引き上げる。
けれど、目を閉じるたびに六つの武器が浮かんできた。
十四歳の自分が夢中になって考えたもの。
大人になってからは思い出すだけで恥ずかしかったもの。
それが本当に、この手に現れる。
「…………一回くらいなら」
《聞こえています》
「寝ろ!」
《私は睡眠を必要としません》
「じゃあ黙ってろ!」
結局、その夜シュウが眠りについたのは、いつもよりかなり遅い時間だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
屋敷の大半がまだ眠っている時間に、シュウは裏手の訓練場へ立っていた。
東の空が白み始めたばかりで、地面には薄い朝靄が漂っている。夜露を含んだ土から湿った匂いが立ち上り、草の葉には小さな雫が残っていた。
人影はない。
騎士たちが朝の訓練を始めるまで、まだ時間がある。
「…………」
《マスター》
『何も言うな』
《まだ何も申し上げておりません》
『絶対に余計なこと言うなよ』
《善処します》
『そこは承知しましたって言えよ』
胸の奥から返ってくる声に眉を寄せながら、シュウはもう一度周囲を確認した。
誰もいない。
屋敷の窓にも人影は見えない。
試すなら今しかない。
昨夜は「一回くらいなら」と考えていた。
寝て起きたら冷静になると思っていた。
むしろ気になって仕方なくなった。
「……アルカディア」
《はい》
「心装武器を使う」
《承知しました》
言ってしまった。
胸の奥が、期待と羞恥の両方で妙に落ち着かない。
「お前は出なくていいんだよな?」
《はい。《心装武器》はマスター自身へ直接定着しているため、私の実体化を必要としません》
「使い方は?」
《固有発動句を唱えてください》
「…………」
そこだけは昨夜聞かなかった。
嫌な予感がしたからだ。
しかし、使うと決めた以上は避けられない。
「短い?」
《比較的》
「何と比べて?」
《他の登録能力です》
「聞かなきゃよかった」
朝の風が訓練場を抜けていく。
シュウは深く息を吸った。
誰もいない。
十四歳の自分が考えた台詞だ。
多少恥ずかしくても仕方ない。
今の自分は前世まで含めれば、精神的にはとっくに大人だ。
耐えられる。
「……教えて」
《承知しました》
アルカディアはいつも通りの平坦な声で告げた。
《《心装武器》初回発動句》
「うん」
《――『我が心よ、形を成せ。六つの想いを刃へと変え――《心装武器》』》
「…………」
朝靄が静かに流れていった。
どこかで鳥が鳴く。
《以上です》
「…………」
《マスター?》
「……帰る」
《まだ何もしていません》
「今日はやめる」
《昨夜、炎の槍について七回質問されていました》
「数えるな!」
声が訓練場へ響いた。
そして。
「シュウ様?」
「…………」
背後から聞こえた声に、シュウの身体が固まった。
ゆっくり振り返る。
訓練場の入口に、一人の若い騎士が立っていた。朝番なのだろう。片手に木剣を持ち、不思議そうな顔でシュウを見ている。
「……お、おはよう」
「おはようございます。今日は随分と早いですね」
「ああ。ちょっと自主練を」
「なるほど」
騎士が頷く。
大丈夫。
まだ何もしていない。
帰ればいい。
「では俺はこれで――」
「ところで」
足を踏み出したシュウが止まった。
「先ほどの《心装武器》というのは、新しい魔法でしょうか?」
「…………」
聞かれていた。
《マスター》
『黙れ』
《まだ何も申し上げておりません》
騎士は馬鹿にするどころか、どこか感心したような顔をしていた。
「六つの想いを刃へと変える、ですか」
「お願いだから復唱しないで」
「はい?」
「……なんでもない」
「しかし、格好いい詠唱ですね」
「…………」
胸が痛い。
物理的な攻撃ではない。
もっと深い場所へ刺さってくる。
《高評価です》
『お前も乗っかるな』
「シュウ様?」
「なんでもない。本当に」
騎士は少し首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
ただ、その目には明らかな期待がある。
「もし新しい魔法の訓練でしたら、見学しても?」
「…………」
逃げたい。
しかし、今ここで逃げたらどうなる。
昨日から急に身体能力が上がっていることも気になる。
《漆黒魔力》は本当に使えた。
なら、《心装武器》も。
シュウはゆっくり右手を持ち上げた。
「……一回だけだからな」
「はい?」
「こっちの話」
《起動準備を確認》
アルカディアの声が胸の奥へ響く。
シュウは目を閉じた。
覚悟を決める。
十四歳の神代修司。
お前が何を考えてこの台詞を作ったのかは、もういい。
責任は取る。
「――我が心よ、形を成せ」
口にした瞬間。
胸の奥が脈打った。
騎士の表情から軽い好奇心が消え、真剣なものへ変わる。
「六つの想いを、刃へと変え――」
熱い。
心臓のさらに奥から生まれた何かが、肩を通り、右腕を駆け抜けていく。
シュウは思わず自分の掌を見た。
赤い光が漏れていた。
「……え?」
騎士が小さく声を漏らす。
光はすぐに強くなった。
赤。
橙。
その中心には白に近い輝き。
胸から腕へ流れた光が掌を越え、空中へ伸びていく。
それは魔力の塊ではなかった。
炎になった。
赤黒い火の粉が渦を巻き、朝靄を押し退ける。
周囲の温度が明らかに上がった。
夜露に濡れていた地面から薄い湯気が立ち、騎士が無意識に半歩下がる。
シュウ自身も動けなかった。
記憶にある。
この光景を知っている。
十四歳の自分が、何度も頭の中で想像した。
ノートの端へ下手な絵まで描いた。
《発動句、最終節を》
アルカディアに促される。
シュウは喉を鳴らした。
ここまで来たら止められない。
「――《心装武器》」
炎が爆ぜた。
風圧が訓練場を走り抜け、朝靄が一気に散らされる。
「なっ……!」
騎士が腕を顔の前へ上げた。
シュウの右手の前で、炎が長い輪郭を作り始める。
柄。
石突。
穂先。
黒鉄を思わせる長い柄の周囲を、赤黒い炎が螺旋状に走る。先端には白熱するほど圧縮された炎が集まり、鋭い槍の穂を形作っていった。
まだ完成していない。
それでも分かる。
これは。
あの頃の自分が考えた――。
《マスター》
『……何』
《転装指定を》
シュウは炎に包まれた槍を見つめた。
騎士も息をすることさえ忘れたように見入っている。
胸の奥には、恥ずかしさとは別の感情が生まれていた。
懐かしい。
嬉しい。
そして、どうしようもなく興奮している。
十四歳の頃。
絶対に手に入らないと分かっていながら、それでも本気で欲しかった武器。
それが今、自分の手の中に生まれようとしている。
シュウは右手を握った。
炎の中に、確かな柄の感触が生まれる。
「――転装」
喉が震えた。
最後の一言を口にする。
「炎」
轟音とともに、炎の槍が完全な形を得た。
赤黒い火の粉が空へ舞い上がる。
熱風が髪を揺らし、周囲の空気が陽炎のように歪む。握っているはずなのに不思議と重さは負担にならず、それどころか腕の延長のように馴染んでいた。
シュウは言葉を失った。
騎士も言葉を失っている。
数秒間。
朝の訓練場には、炎が燃える音だけが響いた。
やがて騎士の口がゆっくり開く。
「…………すごい」
その声には、冗談も嘲笑もなかった。
純粋な感嘆だけがあった。
「これが……シュウ様の《心装武器》」
「…………」
「心を武器へ変える魔法……」
「…………」
「なんて美しい……」
「お願いだから、もう褒めないで」
「え?」
《マスター》
『お前は絶対に何も言うな』
《十四歳当時の記録では――》
『言うなって言ったよな!?』
だが、アルカディアは止まらなかった。
《――「炎とは我が魂の激情。何者にも消すことのできぬ、永劫に燃え続ける心の証」と記載されています》
シュウの顔から表情が消えた。
『…………』
《非常に情熱的です》
『…………アルカディア』
《はい、マスター》
『いつか絶対、お前を黙らせる方法を探すからな』
《期待しております》
騎士にはそのやり取りは聞こえない。
ただ、シュウが炎の槍を握ったまま遠い目をしているようにしか見えなかったらしい。
「シュウ様?」
「……大丈夫」
「ですが」
「本当に大丈夫。ただ昔の俺に殴られてるだけだから」
「昔の……?」
「忘れて」
騎士がますます困惑する。
そのとき。
訓練場の端に置かれていた木製の訓練人形へ、炎の槍の穂先が僅かに向いた。
シュウはそれを見た。
騎士も見た。
《マスター》
『何』
《せっかくですので、性能確認を推奨します》
その提案だけなら、まともだった。
シュウは炎の槍を握り直す。
「……軽くなら」
《承知しました》
「本当に軽くだからな」
《はい》
騎士が少し離れた。
シュウは訓練人形へ向き直る。
距離は十歩ほど。
槍なら、近づいて突く。
それだけのつもりだった。
一歩踏み出す。
胸の奥から、炎の槍へ力が流れ込んだ。
「……ん?」
穂先の炎が膨れた。
《マスター》
『何?』
《魔力出力が――》
アルカディアが何かを言い切るより早く、シュウは槍を前へ突き出した。
轟音が響いた。
「――は?」
炎が走った。
槍そのものを突き出しただけのはずだった。
だが穂先から噴き出した赤黒い炎は一直線に訓練人形へ到達し、その胴体を一瞬で呑み込んだ。
爆発。
木片が飛ぶ。
地面が抉れる。
熱風が訓練場を駆け抜け、シュウと騎士の髪を激しく揺らした。
二人は動かなかった。
炎が消える。
訓練人形があった場所には、黒く焼け焦げた地面しか残っていなかった。
「…………」
シュウは槍を見る。
次に、地面を見る。
もう一度槍を見る。
「…………軽く?」
《はい》
『これが?』
《はい》
「…………」
騎士が震える声を漏らした。
「シュウ様」
「……はい」
「今の技は……?」
「技じゃない」
「え?」
「ただ突いただけ」
「…………」
騎士が焼け焦げた地面を見る。
そしてシュウを見る。
その目が、今まで以上に輝いた。
「すごい……!」
「やめて」
「これほどの魔法、見たことがありません!」
「だから褒めないで!」
「王立魔法学院でも、間違いなく――」
「期待しないで!!」
《マスター》
『お前は何』
《学院生活が楽しみですね》
シュウは朝日に照らされた炎の槍を見下ろした。
昨日まで。
王立魔法学院へ行くことを、純粋に楽しみにしていた。
新しい友人。
新しい魔法。
新しい生活。
知らない世界。
そんなものを期待していた。
だが今。
十四歳の自分が考えた最強設定が、本当に現実になってしまった。
しかも。
それを見たこの世界の人間は。
笑わない。
馬鹿にしない。
むしろ、本気で格好いいと思っている。
シュウはようやく理解した。
これは、とんでもない力を手に入れた物語なのかもしれない。
同時に。
誰にも理解してもらえない羞恥と、これから何年も戦い続ける物語でもあるのだと。
《なお、マスター》
『……まだ何かあるの?』
《《心装武器》には、残り五形態が存在します》
シュウは目を閉じた。
知っている。
知っているから困っている。
《さらに各武器には――》
『言わなくていい』
《固有深奥技が設定されています》
『言わなくていいって!』
《炎の槍については――》
『アルカディア!』
《《焔龍――》》
『やめろぉぉぉぉぉぉぉ!!』
早朝のアルヴェイン男爵邸に、シュウの絶叫が響き渡った。
屋敷の窓が一つ、また一つと開いていく。
何事かと顔を出す使用人たち。
訓練場へ視線を向ける騎士たち。
そして、その騒ぎに気づいたのだろう。二階の窓が勢いよく開き、寝間着の上から上着を羽織ったレイモンドが顔を出した。
「シュウ!? 今度は何を――」
そこまで言って、レイモンドの声が止まった。
朝日の中。
弟が、赤黒い炎を纏う槍を握っている。
その周囲では朝靄が熱によって消え、少し離れた地面には、先ほどまで訓練人形だったものの焼け跡が残されていた。
「…………シュウ?」
「兄さん」
「……その槍は何だ?」
「…………」
どう説明すればいい。
前世で十四歳のときに考えました。
名前は《心装武器》。
俺の心を六種類の武器に変える能力です。
発動するときには、自分で考えた専用の台詞まで言わなければいけません。
言えるわけがない。
「……新しい魔法」
結局、それしか出てこなかった。
「新しい魔法で、それなのか?」
「俺も今朝知った」
「今朝?」
「詳しいことはあとで!」
レイモンドは困惑したまま炎の槍を見ている。
その隣の窓も開いた。
「朝から何の騒ぎなの?」
エレノアだった。
さらに少し遅れて、別の窓からローデリックも顔を出す。
「シュウ。またお前か――」
父の言葉も途中で止まった。
家族三人。
使用人。
騎士。
全員の視線がシュウへ集中する。
「…………」
逃げたい。
今すぐ炎の槍を消して、自室の布団へ潜り込みたい。
だが、誰も笑っていない。
むしろ。
「……綺麗ね」
エレノアが最初に呟いた。
「母さん?」
「炎なのに、不思議。怖いというより……シュウの手に馴染んでいるように見えるわ」
シュウの胸へ、別方向から何かが突き刺さった。
「エレノアの言う通りだな」
ローデリックまで腕を組み、真剣な顔で槍を見ている。
「通常の炎魔法を武器の形へ固定したものには見えん。シュウ、これはお前が作ったのか?」
「作ったというか……」
作った。
十四歳の神代修司が。
ノートの上で。
「……まあ、俺が考えた」
「そうか」
ローデリックの顔に、僅かな笑みが浮かんだ。
「いい魔法じゃないか」
「父さんまで!?」
「なぜそこで嫌そうな顔をする」
「色々あるんだよ!」
レイモンドもようやく状況を飲み込んできたのか、窓枠へ片手をつきながら槍を眺めている。
「《心装武器》と言ったか?」
「なんで知ってるの!?」
「先ほど騎士が叫んでいたぞ」
シュウが勢いよく隣を見る。
若い騎士が気まずそうに視線を逸らした。
「す、すみません。あまりにも凄かったので……」
「広めないで!」
「ですが、とても格好いい名称だと思います」
「追加攻撃やめて!」
《好評ですね》
『嬉しくない!』
《昨夜のマスターは、《心装武器》の実在を確認した際、かなり高い興奮状態にありましたが》
『それとこれとは別なんだよ!』
《理解困難です》
『お前には一生分からなくていい!』
胸の奥で平然と返してくるアルカディアに言い返しながら、シュウは周囲へ視線を向けた。
まずい。
最初は若い騎士が一人いただけだった。それが先ほどの爆発音と自分の絶叫によって、訓練場を囲む状況は完全に変わっている。屋敷の窓からは家族や使用人たちが顔を出し、別棟から駆けてきた騎士たちも、何事かとこちらを見つめていた。
しかも、誰も炎の槍から目を離そうとしない。
赤黒い炎は朝の空気の中で静かに揺らめき続け、白熱した穂先の周囲では陽炎が立っている。握っているシュウには不思議なほど熱さを感じないのに、数歩離れた場所にいる若い騎士は額に薄く汗を浮かべていた。
「……シュウ」
二階の窓から、レイモンドが改めて弟を呼んだ。
「何?」
「その魔法、いつ覚えた?」
「……今朝」
「今朝?」
「正確には、使えることを知ったのが昨日の夜で、実際に使ったのが今朝」
嘘は言っていない。
ただし、肝心なところを徹底的に隠しているだけだ。
レイモンドは当然ながら納得していない様子だった。普段は落ち着いている兄の眉間に深い皺が寄り、その視線が炎の槍からシュウへ、さらに焼け焦げた訓練場へと移っていく。
「昨日の夜」
「うん」
「お前が部屋で大声を出していた時間か?」
「…………」
「発声練習だと言っていたな」
「兄さん」
「なんだ」
「世の中には、深く追及しない方が幸せなこともあると思う」
「少なくとも弟が一晩で見たこともない魔法を身につけた理由は、兄として追及するべきだと思っている」
正論だった。
正論だからこそ困る。
シュウが答えを探している間に、今度はローデリックが窓から身を乗り出した。
「とにかく、そこで待っていろ。今から下へ行く」
「父さん、別に大丈夫だから!」
「お前が大丈夫でも、訓練場が大丈夫ではない」
「……はい」
言われて焼け跡を見る。
反論できなかった。
軽く突いただけで、木製の訓練人形が跡形もなく消えている。周囲の地面まで黒く焼け焦げ、その一部は爆発の衝撃で浅く抉れていた。
《出力としては極めて低水準です》
『今それ言うな』
《《炎の槍》は本来――》
『説明しなくていい!』
《まだ通常攻撃の範囲です》
『聞きたくなかった!』
これで通常攻撃。
シュウは改めて、自分が十四歳の頃にどれほど加減を知らなかったのか思い知らされた。
強い敵を考える。
倒すためにもっと強い能力を作る。
さらに強い敵を考える。
それを上回る設定を追加する。
そんなことを繰り返した結果が、今この手の中にある。
数分もしないうちに、屋敷の裏口からローデリック、エレノア、レイモンドが揃って姿を現した。三人とも急いで出てきたらしく、普段よりずっと簡素な格好をしている。エレノアに至っては長い髪を簡単にまとめただけだったが、そんなことを気にする様子もなく、真っ先にシュウの全身を確認した。
「怪我はないの?」
「ないよ」
「火傷は?」
「それもない」
「本当に?」
「本当に。むしろ俺には全然熱くない」
そう答えながら炎の槍を少し持ち上げると、エレノアだけでなく周囲の騎士たちまで僅かに身構えた。
「ごめん」
慌てて穂先を誰もいない方向へ向ける。
自分にとっては身体の一部のように扱いやすくても、周囲から見れば訓練人形を一撃で消し飛ばした武器だ。今まで使ったことがない以上、慎重すぎるくらいでちょうどいい。
「しかし、本当に見たことがないな」
ローデリックは数歩手前で立ち止まり、炎の槍を観察していた。
領主として多くの魔術師や騎士と接してきた父だ。シュウより魔法に詳しいわけではないが、一般的な魔法なら何度も目にしている。それでも、この槍については見覚えがないらしい。
「炎を武器へ纏わせる術なら珍しくない。魔力で一時的に武器を形成する術も存在する。だが……これは、そのどちらとも違うように見える」
「俺も、たぶんそうだと思う」
「たぶん?」
「今日初めて使ったから」
「そうだったな」
ローデリックが苦笑する。
その隣では、レイモンドが焼け跡の近くへしゃがみ込んでいた。まだ熱が残っているのか、直接触れずに地面の状態を確かめている。
「シュウ」
「何?」
「さっき、本当にただ槍を突いただけなのか?」
「……うん」
「何か攻撃魔法を同時に使ったわけではなく?」
「使ってない」
「意図的に炎を飛ばしたわけでもない?」
「むしろ、普通に訓練人形を突こうと思ってた」
レイモンドが黙った。
周囲の騎士たちも黙った。
その沈黙が痛い。
「……その反応やめてくれない?」
「いや」
レイモンドは立ち上がると、もう一度炎の槍を見た。
「学院へ行く前に分かってよかったと思っている」
「どういう意味?」
「それを学院の訓練場で初めて使っていたら、もっと大変なことになっていただろう」
「あ」
考えていなかった。
入学後。
実技授業。
教師から「得意な魔法を使ってみろ」と言われる。
何も知らないまま《心装武器》を発動する。
訓練用の標的へ軽く一撃。
爆発。
シュウの脳裏に、ありそうな未来が鮮明に浮かんだ。
「……確かに」
「だろう?」
「兄さん、ありがとう」
「礼を言われるようなことはしていない」
「いや、今ので一つ事故を回避できた気がする」
《同意します》
『お前は先に教えてくれてもよかっただろ』
《質問されませんでしたので》
『お前、絶対その言い方好きだろ』
《否定はしません》
昨夜出会ったばかりだというのに、すでにアルカディアの扱いが分かってきた気がする。
たぶん、こいつは性格が悪い。
しかも自分が十四歳の頃に作った設定を完全に把握しているという、シュウにとって最悪の武器を持っている。
「シュウ?」
レイモンドに呼ばれ、シュウは我に返った。
「ごめん。考え事してた」
「最近、一人で黙り込むことが増えていないか?」
「気のせい」
《私との会話が原因ですね》
『黙ってろ』
「……本当に?」
「本当に!」
少し強く答えてしまい、レイモンドが怪訝そうな顔をする。
これも気をつけなければならない。
アルカディアの声は自分にしか聞こえない。思考だけで返事をしているつもりでも、腹が立つとつい声に出そうになる。
今後学院で同じことを繰り返せば、変人扱いされる可能性がある。
《すでに昨夜、発声練習をする人物として認識されている可能性があります》
『誰のせいだよ』
《マスターです》
『お前だよ』
「それで」
ローデリックが二人の会話を区切るように声を上げた。
「その槍は消せるのか?」
「あ」
シュウは炎の槍を見る。
「……アルカディア」
小さく呟きかけて、慌てて口を閉じた。
危ない。
家族にはまだ何も話していない。
『どうやって消す?』
《解除を意識してください》
『発動句は?』
《不要です》
『そこは不要なんだ……』
どうにも基準が分からない。
シュウは槍を握ったまま、解除を意識した。
すると白熱していた穂先から光が失われ、赤黒い炎が細かな火の粉へ変わっていく。黒鉄の柄も端から光へほどけ、最後には無数の赤い粒子となって朝の空気へ溶けていった。
右手から感触が消える。
同時に、周囲の温度も少しずつ元へ戻り始めた。
「……消えた」
エレノアが目を瞬く。
「身体は?」
「なんともない」
シュウは右手を握ったり開いたりしてみた。
疲労感もほとんどない。
魔力を大量に失った感覚もなかった。
《《心装武器》はマスターの心象および魔力を複合的に具現化するため、通常魔法と消耗機構が異なります》
『長時間使っても平気?』
《一定の精神疲労は発生します》
『そこはちゃんと疲れるんだな』
《当然です》
少し安心した。
何をしても疲れない身体になっていたら、それはそれで自分が人間ではなくなったようで怖い。
「シュウ」
今度はエレノアが静かに呼んだ。
「部屋で話しましょう」
「……うん」
怒られているわけではない。
それでも、母の表情には心配が滲んでいた。
当然だ。
昨日まで普通だった息子が、朝になったら見たこともない炎の槍を出し、訓練場の人形を消し飛ばしていた。
自分なら心配する。
「分かった」
シュウは素直に頷いた。
◇ ◇ ◇
場所を移したのは、家族が普段使っている小さな居間だった。
大きな応接室ではない。窓際にはエレノアが好んで育てている鉢植えが並び、壁際の棚にはローデリックが途中まで読んだ本や、レイモンドの資料が雑然と置かれている。
朝食前のため、使用人に頼んで温かい茶だけを用意してもらった。
シュウは長椅子へ座り、その向かいに両親と兄がいる。
何だろう。
ものすごく居心地が悪い。
子供の頃、庭の木へ登って枝を折ったことがばれたときも、似たような状況になった覚えがある。
《懐かしいですね》
『お前、その記憶まで知ってるの?』
《現在のマスターとの同期によって一部情報を参照可能です》
『勝手に人の思い出見るなよ』
《必要な情報のみです》
『本当だろうな?』
《はい》
疑わしい。
「それで?」
ローデリックが口を開いた。
「どこから聞けばいい?」
「俺に聞かれても……」
「では最初からだな。あの魔法は何だ?」
予想していた質問だった。
だから訓練場からここへ来るまでの間に、シュウなりに答えを考えている。
すべてを話すつもりはない。
話せるわけがない。
自分には前世の記憶があります。
その前世で十四歳の頃に書いた妄想ノートが、なぜかこの世界で本物の魔導書になりました。
そこに書いた最強設定が全部使えます。
そんな説明を家族にする勇気はなかった。
信じてもらえるかどうか以前の問題だ。
家族に黒歴史を公開するくらいなら、魔物の群れへ一人で突っ込む方がまだましだ。
「……俺にも全部は分からない」
シュウは慎重に言葉を選んだ。
「昨日から、今までと違う魔力みたいなものを感じるようになった。それで調べていたら、自分の中に今まで使えなかった力があることが分かった」
完全な嘘ではない。
昨日からアルカディアを感じるようになった。
今まで使えなかった力が使えるようになった。
そこまでは事実だ。
「突然、か?」
「うん」
「何かきっかけは?」
「それが分からない」
これも本当だ。
なぜ十七歳の今になってアルカディアが現れたのかは、本人――本なのだが――にも分からない。
ローデリックは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「魔力の覚醒そのものは、例がないわけではない」
「そうなの?」
「珍しいがな。成長や強い感情、特殊な環境によって、それまで表面化していなかった適性が現れることはある。だが、あれほど完成された魔法が突然というのは、俺も聞いたことがない」
やっぱりそうか。
シュウ自身、十七年間この世界で魔法を学んできた。
新しい属性へ適性が目覚める話なら聞いたことがある。けれど《心装武器》のようなものが突然使えるようになる事例は知らない。
「名前は自分でつけたの?」
エレノアが尋ねる。
シュウの肩が僅かに跳ねた。
「……名前?」
「《心装武器》」
「…………」
《回答を推奨します》
『分かってるよ』
「……俺が考えた」
間違ってはいない。
前世の自分も自分だ。
だから嘘ではない。
エレノアは少しだけ微笑んだ。
「素敵な名前だと思うわ」
「ぐっ……」
「シュウ?」
「なんでもない」
《お母様からも高評価です》
『頼むから黙ってくれ』
《昨夜のマスターは名称を聞いた際、かなり――》
『やめろ』
「俺も悪くないと思うぞ」
今度はローデリックまで加わった。
「自分の心を武器として具現化するから、《心装武器》か。分かりやすいうえに意味もある」
「父さん、お願いだから分析しないで」
「なぜだ?」
「恥ずかしいから」
「何が?」
「そこから説明しないと駄目?」
「むしろ何を恥ずかしがっているのか分からん」
ローデリックは本気で分からないらしい。
隣ではレイモンドまで頷いている。
「俺もいい名称だと思うが」
「兄さんまで……」
「炎の槍も見た目だけ派手なわけではなかった。心を武器へ変えるという性質が本当なら、名称として自然だろう」
「頼む……もうやめてくれ……」
シュウは両手で顔を覆った。
これが一番つらい。
笑われるならまだいい。
十四歳の頃の自分を笑われたら、一緒になって笑い飛ばせる。
だが、この世界では違う。
魔法に大仰な名前がついていることなど珍しくない。長い詠唱も、象徴的な言葉も、むしろ高度な魔法では普通に存在する。
だから、誰も笑ってくれない。
本気で評価される。
《マスター》
『何』
《想定以上に受け入れられています》
『それが問題なんだよ』
《なぜでしょう》
『お前も分からない側か……』
孤独だった。
世界でただ一人、自分だけがこの痛みを理解している。
「でも、シュウ」
エレノアの声が少し柔らかくなる。
顔を覆っていた手を下ろすと、母の目には先ほどまでとは違う心配が浮かんでいた。
「力が増えたこと自体は、悪いことではないと思うわ。これから学院へ行くなら、自分を守れる力はきっと役に立つでしょう」
「……うん」
「ただ、突然手に入った力なのでしょう?」
「そうだね」
「だったら、慣れるまでは慎重に使って。今朝のように、軽く試しただけであれほどの威力が出るなら、誰かが近くにいたときに同じことが起きたら危ないわ」
シュウは焼け焦げた訓練場を思い出した。
もっともだった。
恥ずかしいとか、格好いいとか、それ以前の問題だ。
これは本物の力だ。
扱いを誤れば、人を傷つける。
「分かった」
今度は真剣に頷く。
「学院へ行く前に、できる範囲で確認しておく。少なくとも、どのくらいの力が出るのか分からないまま人のいる場所では使わない」
「ええ。それならいいわ」
エレノアの表情が少しだけ緩んだ。
ローデリックも頷く。
「必要なら騎士をつける。領地の外れに、魔法訓練に使っている場所もある」
「助かる」
「ただし、今朝のような威力なら訓練場ではなく、そちらを使え」
「……はい」
「人形一体で済んでよかったな」
「弁償する?」
「自分の家の訓練人形に弁償も何もあるか」
ローデリックが笑う。
その空気に救われ、シュウもようやく肩から力を抜いた。
ただし。
問題は何も解決していない。
むしろ、始まったばかりだ。
《心装武器》だけではない。
昨夜、アルカディアは言った。
戦闘。
防御。
回復。
召喚。
魔眼。
具現化。
特殊。
その他分類不能。
その全貌を、シュウはまだ知らない。
知りたいような。
一生知らない方が幸せなような。
《マスター》
『何』
《能力一覧の確認を推奨します》
『今そのこと考えてたんだから言うなよ』
《思考を読んだわけではありません》
『分かってる』
《なお、昨夜説明していない重要事項が複数存在します》
シュウの眉が動いた。
『……重要事項?』
《はい》
『危険なやつ?』
《判断基準によります》
『その答え一番怖いんだけど』
家族の前で聞く話ではなさそうだ。
シュウはひとまずアルカディアとの会話を切り上げた。
朝食を終えたあと。
人のいない場所で。
今度こそ、全部ではなくても主要な能力くらいは確認しておこう。
そう決めた。
◇ ◇ ◇
家族との話を終えて食堂へ移る頃には、屋敷の中はすっかり朝の時間になっていた。
使用人たちが廊下を行き交い、厨房から食器の触れ合う音が聞こえてくる。先ほどの騒ぎを知っている者も多いらしく、シュウが通るたびに普段より視線を感じた。
「……もう広まってる」
《当然かと》
『まだ十分も経ってないぞ』
《屋敷内で爆発音と絶叫が発生しましたので》
『絶叫は余計だ』
《事実です》
食堂へ入る直前、廊下の端で若い使用人二人が小声で話しているのが聞こえた。
「炎の槍だったって」
「見たの?」
「窓から少しだけ。すごく綺麗だった」
「シュウ様が新しい魔法を作ったって聞いたけど」
「《心装武器》っていうらしいよ」
シュウの足が止まった。
「…………」
《順調に伝播しています》
『全然順調じゃない』
振り返りたい。
訂正したい。
広めないでくれと頼みたい。
しかし、それをすれば余計に注目を集めるだけだ。
シュウは何も聞かなかったふりをして食堂へ入った。
「シュウ」
先に席へ戻っていたレイモンドが顔を上げる。
「どうした?」
「……何でもない」
「顔が疲れているぞ」
「朝から色々あったから」
「ほとんどお前が起こしたことだろう」
「正論やめて」
椅子へ座る。
朝食が運ばれてきた。
焼きたてのパン。
卵。
野菜のスープ。
いつもと変わらない朝食なのに、今日は妙にありがたく感じる。
シュウはパンをちぎりながら、ぼんやり考えた。
王都へ出発するまで、あと僅か。
それまでに最低限、自分の力を把握しなければならない。
学院では実技試験も授業もある。
今まで通りの魔法だけを使って過ごすこともできるだろう。
だが、常時適用されている身体能力はすでに変化している。
《漆黒魔力》もある。
完全に隠し通すことが可能なのか。
そもそも、隠し通すべきなのか。
答えはまだ出ない。
「シュウ」
ローデリックに呼ばれ、顔を上げる。
「何?」
「今日の予定だが、荷物の確認が終わっているなら午後は空いているな?」
「うん」
「なら、さっき話した郊外の訓練地を使うか?」
「……いいの?」
「むしろ出発前に確認しておけ。学院で事故を起こされる方が困る」
「ありがとう」
願ってもない提案だった。
アルカディアの能力確認も、人のいない広い場所なら多少は安全にできる。
《好都合ですね》
『そうだな』
《では、各能力の実演を――》
『しない』
《なぜでしょう》
『一個選んだら二十四時間変えられないって昨日自分で言っただろ』
《覚えていらしたのですね》
『馬鹿にしてる?』
《いいえ》
絶対に少し馬鹿にしている。
それでも。
シュウは思わず口元を緩めた。
昨夜まで存在しなかった声が、今は胸の奥にいる。
面倒で。
腹が立って。
自分が忘れたい過去を全部知っていて。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
前世の自分が残したもの。
十四歳の神代修司が、本気で格好いいと信じて作った世界。
それがなぜ今になって現れたのかは分からない。
けれど。
せっかくなら。
少しくらい楽しんでもいいのかもしれない。
「……午後、試してみるか」
小さく呟いた。
レイモンドが反応する。
「何を?」
「何でもない」
「またそれか」
「本当に何でもないって」
笑いながらパンを口へ運ぶ。
そのときだった。
《マスター》
『今度は何?』
《一点、訂正があります》
『訂正?』
《午後まで待つ必要はありません》
シュウの手が止まった。
『どういう意味?』
《《心装武器》はすでに選択されています》
『…………あ』
忘れていた。
今朝、発動した。
つまり。
《現在より二十四時間、《心装武器》が選択能力として固定されます》
『じゃあ今日は他の能力を試せない?』
《はい》
「…………」
「シュウ?」
エレノアが不思議そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
「……いや」
シュウはゆっくりスープを飲んだ。
「今日一日、予定が決まったなって」
「訓練でしょう?」
「うん。たぶん、かなり長い訓練になる」
何しろ六種類ある。
炎の槍。
水の盾。
風の銃。
雷のアックス。
光のバスターソード。
闇の双剣。
そして、それぞれに十四歳の自分が嬉々として考えた設定がある。
さらに。
発動するための言葉まで。
シュウは目を閉じた。
《ご安心ください》
『何を?』
《各転装時の発動句は、初回発動句より短く設定されています》
『それは助かる』
《ただし、各形態の固有深奥技については個別の発動句が――》
『聞いてない』
《かなり力の入ったものが登録されています》
『聞いてない!』
「シュウ?」
「なんでもない!」
家族三人が揃ってこちらを見る。
シュウは何事もなかったように朝食へ戻った。
もう遅い。
《心装武器》を選んでしまった。
なら、今日一日は徹底的に付き合うしかない。
自分の黒歴史に。
◇ ◇ ◇
朝食を終えて自室へ戻ったシュウは、王都へ持っていく荷物の横を通り過ぎ、そのまま窓辺へ向かった。
町はすでに目を覚ましている。
大通りを荷馬車が進み、中央広場には色とりどりの露店が並び始めていた。遠くの畑では人々が働き、春の終わりの青空には薄い雲が流れている。
いつもと同じアルヴェイン領の朝。
けれど、自分だけが昨日までとは違う。
「アルカディア」
《はい、マスター》
「確認したいことがある」
《どうぞ》
「お前が現れた理由、本当に分からないんだよな?」
《はい》
「俺が転生したこととの関係は?」
《不明です》
「前世のノートが、どうしてこの世界にある?」
《不明です》
「俺が十七歳になったことに意味は?」
《現時点では判断できません》
「……そうか」
やはり、何も分からない。
それなら今考えても仕方がない。
シュウは窓枠へ手を置き、外を眺めた。
「じゃあもう一つ」
《はい》
「お前に書かれてる能力って、俺が覚えてないものもあるんだよな?」
《多数存在します》
「多数……」
嫌な言葉だった。
《マスターは執筆当時、非常に精力的に設定を追加されていました》
「その言い方やめて」
《ほぼ毎日のように》
「やめろ」
《新規能力、派生技、人物設定、敵対組織、召喚対象――》
「待て」
シュウが振り返る。
部屋には誰もいない。
それでも、思わず声を潜めた。
「……人物設定?」
《はい》
「俺以外の?」
《はい》
「…………」
背中に嫌な汗が流れた。
覚えているような。
覚えていないような。
いや。
思い出してはいけない何かが、記憶の底にある。
「それって……」
《詳細を確認しますか?》
「…………」
怖い。
ものすごく怖い。
しかし、知らないまま放置する方がもっと怖い。
「少しだけ」
《承知しました》
胸の奥で、何かが動いた。
実際に本が開いたわけではない。
アルカディアはシュウの内側に収納されたままだ。それでも、紙がめくられていくような感覚だけが意識へ伝わってくる。
《該当項目を確認》
「うん」
《召喚能力分類》
「うん……」
《幻想乙女召喚》
「…………」
シュウの顔から血の気が引いた。
名前だけで。
全部ではない。
それでも。
記憶の扉が、ほんの少しだけ開いた。
赤い髪。
黒紫の髪。
金色の髪。
銀色の髪。
剣士。
魔女。
聖女。
暗殺者。
そして。
十四歳の自分が、彼女たちの設定欄の一番上に大きな文字で書いた言葉。
「……待て」
《はい》
「それ以上言うな」
《まだ名称しか読み上げておりません》
「思い出したくない」
《しかし、能力情報の把握は安全上重要です》
「正論で俺の黒歴史を殴るな!」
《では要点のみ》
「待てって!」
《登録された幻想乙女たちは――》
「アルカディア!」
シュウは胸元を押さえた。
だが。
次に告げられた言葉で。
その表情が止まった。
《――現在、召喚可能です》
「…………」
部屋が静まり返った。
窓の外では、いつも通り町の朝が始まっている。
荷馬車が走り。
人々が行き交い。
鳥が空を横切っていく。
その穏やかな景色を前に。
シュウだけが動けなかった。
「……今、なんて?」
《現在、召喚可能です》
「いや」
シュウは首を振った。
「そこじゃない」
《では、どの部分でしょう》
「俺が書いた……あいつらが?」
《はい》
「本当に?」
《はい》
「この世界に?」
《召喚を実行した場合は》
「…………」
喉が乾く。
炎の槍とは違う。
武器ならまだいい。
魔法ならまだいい。
だが。
もし。
十四歳の自分が考えた「人物」まで、本当に現れるのだとしたら。
「アルカディア」
《はい、マスター》
「一つだけ答えろ」
《どうぞ》
シュウは恐る恐る尋ねた。
「……俺、あいつらにどんな設定つけてた?」
ほんの僅かな間。
アルカディアが沈黙した。
そして。
《本当に確認されますか?》
「…………」
嫌な予感がした。
これまで一度たりとも、アルカディアが確認を挟んだことなどなかった。
「なんで今だけ確認するんだよ」
《マスターの精神状態を考慮しています》
「そんなに!?」
《はい》
「…………」
《なお、当該項目の見出しは――》
「待て!」
シュウは叫んだ。
しかし。
アルカディアは。
とても静かな声で。
容赦なく告げた。
《――『俺を愛する運命の十二乙女』》
「…………」
時が止まった。
ように感じた。
シュウの脳裏に。
十四歳の神代修司が。
満足げな顔でノートへ文字を書き込んでいる幻が浮かんだ。
「…………十二?」
《はい》
「四人じゃなかった?」
《主要設定が詳細に記載されているのは四名です》
「じゃあ残り八人は?」
《設定のみ存在します》
「…………」
《確認しますか?》
「しない」
《承知しました》
「絶対にしない」
《承知しました》
「一生しない」
《努力目標として記録します》
「なんで努力目標なんだよ!」
再び、シュウの絶叫が屋敷に響いた。
廊下の向こうから、レイモンドの声が飛んでくる。
「シュウ! 今度は何だ!?」
「何でもない!」
「朝から何回目だ!」
「本当に何でもないんだ!」
《マスター》
『何だよ!』
《王立魔法学院への出発まで、あと三日です》
シュウの動きが止まった。
そうだった。
三日後。
自分はこの屋敷を離れる。
王都へ向かう。
王国中から生徒が集まる王立魔法学院。
そこで。
新しい生活が始まる。
シュウはゆっくりと自分の胸元を見下ろした。
その奥には。
十四歳の自分が作り上げた、あまりにも危険で、あまりにも恥ずかしくて、そして認めたくないほど格好いい魔導書が眠っている。
まだ。
その能力のほとんどを知らない。
なぜアルカディアがこの世界に現れたのかも分からない。
《心装武器》以外に、どれほどの力が眠っているのかも。
そして何より。
十四歳の神代修司が、いったいどれだけ余計な設定を書き残したのかも。
《学院生活が楽しみですね、マスター》
胸の奥から届いた穏やかな声に、シュウはしばらく黙った。
窓の外では、王都へ続く街道を一台の馬車が走っていた。
三日後。
自分も、あの道を行く。
新しい友人。
新しい魔法。
まだ見たことのない景色。
ずっと楽しみにしていた第二の人生の、新しい一歩。
そのはずだった。
「……アルカディア」
《はい》
「学院では絶対に目立たないからな」
《承知しました》
「《心装武器》も必要なときだけ」
《承知しました》
「お前の存在も秘密」
《妥当です》
「他の能力なんてもってのほか」
《承知しました》
「普通に学院へ行って、普通に友達を作って、普通に勉強する」
《はい》
「絶対に普通に過ごす」
《応援しております》
シュウは胸へ手を当てた。
少なくとも。
この瞬間の彼は、本気だった。
三日後に始まる学院生活を前に、自分の黒歴史さえ隠し通せば、きっと普通の学生として過ごせるのだと。
けれど。
シュウはまだ知らなかった。
十四歳の神代修司が、《禁書アルカディア》の最初のページに。
能力でも。
魔法でも。
召喚でもない。
もっと根本的な「自分自身の設定」として。
こんな一文を書き残していたことを。
《――なお、マスター》
「……何?」
《先ほど確認した常時設定に、一件の読み落としがありました》
「読み落とし?」
《はい》
シュウの眉が寄る。
「どんな設定?」
アルカディアは答えた。
《『俺は、平穏に生きようとしても――必ず世界の方から俺を放っておかない』》
「…………」
春の風が。
開いた窓から、静かに吹き込んだ。
「消せ」
《不可能です》
「今すぐ消せ!」
《不可能です》
「そんな設定いらないだろぉぉぉぉぉぉぉ!!」
三度目の絶叫が、アルヴェイン男爵邸を揺らした。
三日後。
王立魔法学院への出発。
そしてシュウ・アルヴェインの願う「普通の学院生活」が、その願い通りに進むのかどうか。
その答えを。
十四歳の神代修司だけは、とっくの昔に決めてしまっていた。




