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「レイモンド様、とりあえず椅子に座ってください」
椅子に座るわたしにいつまでも跪くレイモンド様が申し訳なく、察しの良い侯爵家の使用人が横からさっと差し出した椅子にレイモンド様を促す。レイモンド様はいそいそと椅子を動かし、わたしの横にピタリと隙間なくくっつくように腰を下ろした。もちろん、わたしの手は取ったまま。
「申し訳ありません、レイモンド様。今日の授業はレイモンド様には内緒で、という侯爵夫人からのお話でしたので、レイモンド様にはお伝えしていなかったのです」
「そうか、なら悪いのは全て母上だな。僕の愛しいアメリアを独り占めするなんて悪魔の所業だ」
「あなたが知ったら学園なんてそっちのけで帰って来て邪魔だから伝えなかったのよ」
「でも家に帰っても天使のようなアメリアに会えるなんて、僕は世界一幸せだ」
横から夫人が口を挟むが、レイモンド様は華麗に聞き流す。あ、夫人が溜息を吐いているわ。
「ああ、でもやっぱり学園から君をエスコートしたかった。せっかく学園で君の姿を目にすることができたのに、近づくことも声をかけることもできないまま、僕の心は千々に引き裂かれそうだった」
学園の正門付近での出来事を言っているらしい。本当に心が引き裂かれるかのように悲壮な表情をするレイモンド様を見ると、わたしの心も痛む。時間がなかったし周りに多くの子女の存在もあった為会釈するだけに留めたけれど、やはり一言ご挨拶申し上げるべきだったかしら。
「ですがレイモンド様。あの時レイモンド様の周りにはたくさんの方々もいらっしゃいましたし……生徒会の方から何か相談されていたのでは?」
あの時レイモンド様の周りにいたのは、学園の現生徒会の方々だった。前生徒会役員であったレイモンド様に何事か相談があってレイモンド様を取り巻いているのだと思ったが、違うのだろうか。
「ああ、僕の愛しいアメリア。君は本当に聡明で優しいね。確かに現生徒会役員の子女たちに卒業パーティーの件で相談を受けていたが、そんなことよりも君との時間の方が僕にとっては遥かに重要だ」
「いえ、そこはできれば生徒会の方のお話を優先させてあげてください」
学園ではもうすぐ最高学年の生徒の為の卒業パーティーが開かれる。そこには今年学園を卒業するレイモンド様も出席予定で、そのパートナーとしてわたしも参加することになっている。
社交シーズンの中頃に開かれる卒業パーティーには、卒業生の他にそれぞれのパートナーや家族、高位貴族たちも参加する。学園を卒業し本格的に一人前の貴族として生きることになる前途ある若者たちの、いわば門出のパーティーだ。それ以前からわたしやレイモンド様のように社交界に出ている生徒たちも大勢いるが、学園の卒業前後ではやはり社交界での扱いは変わる。学生の間の社交は”まだ学生である”という免罪符によって、多少の失敗は大目に見られる。しかし学園卒業後はそうはいかない。一人前の貴族の一員として、その言動には責任もついて回るようになるのだ。
卒業パーティーは、伝統として学園の生徒会が主体となって運営を行う。これもまた貴族としての仕事の練習の意味合いもあり、ここでの成功が社交界に出る時のアドバンテージとなると言っても過言ではない。
そんな卒業パーティーに関する相談であれば、わたしのことよりもきちんと優先して話を聞いてあげても罰は当たらないと思う。
「でも僕は今年は卒業パーティーの運営ではなく参加者だ。君のドレスを選ぶ許可も得て、僕がどれだけパーティーを楽しみにしているか知っているだろう? 生徒会からの相談なんて構っている暇はないよ」
取ったままのわたしの手に頬ずりしながらレイモンド様が不満そうに唇を尖らせる。相変わらずレイモンド様の頬はすべすべだ。
これまでもレイモンド様はいつもわたしのドレスを選びたがっていたが、息子の暴走を危惧した侯爵夫人によって禁止されていた。
しかし次は学園の卒業パーティーという晴れ舞台である。
これまで夫人による『外でのアリシア溺愛禁止令』を危うげながらも必死に守ってきたレイモンド様に、さすがの夫人も絆されたらしい。この度、卒業パーティーのパートナーであるわたしのドレスを選ぶ許可が下されたのだ。それ以来レイモンド様は卒業パーティーをとてもとてもとても楽しみにしている。もちろん、わたしもレイモンド様にドレスを選んでもらうのは楽しみだ。
「そういえばレイモンド。アリシアのドレスの手配はきちんと済んでいるの?」
相も変わらずプライベート空間では溺愛を垂れ流す息子の姿に溜息をついていた侯爵夫人が、ふと思い出したようにレイモンド様に尋ねる。テーブルの上にはいつの間にか新しいお茶が用意されていた。
「もちろんです。デザインもしっかり決まりましたし、卒業パーティーまでには余裕をもって間に合う手筈になっています」
レイモンド様は母親である侯爵夫人が同じ空間にいても、わたしに対する態度を改めることはない。当然夫人と会話している今も視線はわたしに注がれたまま、夫人の方には見向きもしていない。パーティー用のドレスを思い浮かべたのか、一層うっとりとわたしを見つめている。
「侯爵夫人、侯爵家でドレスを用意していただいてありがとうございます。両親もお礼を申しておりました」
「いいのよ、婚約者のドレスを用意するのも甲斐性というものよ。それよりアリシア、”侯爵夫人”だなんてよそよそしいわ。”お義母様”と呼んで頂戴と言っているじゃないの」
侯爵夫人――いえ、お義母様がちょっぴり不満そうに頬をぷくっとさせる。そこにあるのはまるで少女のように愛らしい感情豊かな表情だ。
お義母様の社交中の微笑は、まさしく貴族の外面だ。その外面を取り払えば、いつだって感情豊かでかわいらしい方なのだ。最初はその転身振りに驚いたけれど、わたしもいつかお義母様くらいの外面を身につけたいと思っている。
「ところで母上、いつまで僕とアリシアの邪魔をするつもりですか? そろそろ父上もお戻りになるでしょうから、お出迎えに行かれては?」
と、母親の存在なんて歯牙にもかけていない様子だったレイモンド様がお義母様に言う。むしろ邪魔をしないように比較的空気に徹していてくれたのでは? と思ったけれど、口には出さずにおいた。
「まったく、本当にあなたときたら。外で必死に言葉と表情を抑えようとしているのは認めるけれど、早く上手に外面を作れるようになりなさい。そうでないといつまでもアリシアが肩身の狭い思いをすることになるのよ」
「それは……」
お義母様は、社交界でわたしがどのように言われているのか知っている。それはもちろんレイモンド様も同じで、わたしを見つめる瞳に罪悪感が浮かぶ様子が見て取れた。
「レイモンド様、お義母様。わたしは気にしておりません。貴族として社交の妨げにならない程度の振る舞いを身につけることは重要だと思っております。レイモンド様には大変な思いをさせてしまっていますが、わたしのことは気になさらず、まずは社交術を身につけることを優先してください」
「アリシア……! すまない、僕が不甲斐ないばかりに……! 本当はいつだって君の愛らしさだけを見つめていたいし、天使のような君を褒め称えていたいのに! まさしく天からの贈り物としか言い表せない君に愛を囁いて何がいけないんだ……! 夜会で片時も離れず君とぴったりと寄り添っていることの何が罪だというのか……!!」
「そういうところよ、レイモンド」
社交界において、多くの貴族令嬢たちに遠巻きにされてしまうことはやはり少し寂しい。しかし、そんなことよりも、わたしの存在がレイモンド様の社交の妨げになってしまうことの方が遥かに心苦しい。わたし達がこれから先もずっと共にある為には、今は周りからどんな風に言われようと、社交界での立ち回りをマスターすることが不可欠だと思っている。
以前わたしの陰口を言っていた令嬢たちにレイモンド様が苦言を呈そうとしたことがあった。しかし、わたしはそれを止めた。伯爵家の中でも下から数えた方が早い程度の家格しかないハリエット家の娘であるわたしは、見目も家柄も良い侯爵令息の婚約者としてはやはり分不相応だ。彼女たちが陰口を言いたくなる気持ちは、理解できてしまう。ただでさえ家格が下であるわたしという存在はレイモンド様の社交の妨げになる可能性が高い。ならば、これ以上レイモンド様の足を引っ張ることがないよう、下手な波風が立つような対応は避けるべきだ。
――なんて、そんなことを言うとレイモンド様は悲しそうな顔をしながら怒ると思うけれど。でも、何よりもレイモンド様が大切なわたしとしては、社交界でのわたしの評判などよりも、レイモンド様が最優先なのだ。
「大丈夫です、レイモンド様。おかげでわたしもちょっとやそっとでは崩れない微笑みが上手になりましたもの。将来の侯爵夫人として、社交界での武器になる技術です。そうでしょう、お義母様」
「そうね。アリシアはとても頑張って侯爵夫人の修行を積んでくれているわ」
外面ではない優しい微笑でわたしを見つめてくれるお義母様は、まるで本当の母のようだ。社交中や授業中はとても厳しいけれど、それだってひとえにわたしの為を思ってのもの。零細伯爵家出身というわたしの身分は、レイモンド様と結婚した後もどうしたってついて回る。そして残念なことに、社交界にはそこをつついてくる意地悪な方が星の数ほどいるのだ。お義母様はそうした方たちと戦う技術をわたしに教えてくれているのだ。誰よりもわたし自身と、そして息子であるレイモンド様の為に。
「ありがとうございます、お義母さま」
「それに比べてレイモンド。あなたはもっと励まなくてはならないわね。今のままだと、来年アリシアが学園を卒業しても安心して結婚なんてさせられないわよ」
「嫌です! アリシアが卒業したらすぐにでも結婚します!! むしろ今すぐにでも結婚したい!」
お義母様の厳しい視線に、レイモンド様がわたしをぎゅっと抱きしめて抗議の声を挙げる。ちょっと苦しいけれど、全く嫌ではない。誰よりも愛しいレイモンド様がわたしとの結婚を強く望んでくれているのだ。嬉しさしかない。
「そう思うならもっと上手に立ち回りなさい」
レイモンド様の子供のような反応にお義母様がやれやれ、と息をつく。
社交界ではアーバイン侯爵家の不本意な婚約と言われているわたし達の婚約だけれど、それは違う。
だってわたしもレイモンド様も、お互い以外との結婚なんて天地がひっくり返っても考えられないのだから。




