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さすがに学園の帰りにそのまま立ち寄るというわけにはいかず、一度ハリエット家に帰って外出用のドレスに着替え、わたしはアーバイン侯爵家へ向かった。夫人による次期侯爵夫人教育においては、状況に応じた衣装を身につけられているかどうかという点も審査対象となるのだ。
なんとか予定時刻に間に合わせてアーバイン家に到着すると、今日はどうやら茶会形式での授業らしく、サンルームへと通される。茶会と言っても当然他の参加者はおらず、わたしと夫人の二人きりのものだ。
「まあ、及第点でしょう」
いつも通り感情の読めない微笑みを携えた侯爵夫人が、頭のてっぺんからつま先までなでるように見て頷いた。よかった、今日の装いは夫人の厳しい目に適うものだったようだ。
作法に則り夫人に挨拶をし、席に着く。既に夫人の授業は始まっている為気が抜けない。一つ一つの所作を丁寧に、しかし表情は柔らかく。
「学園の方はどうかしら?」
「つつがなく過ごさせていただいております」
まずは当たり障りのない会話から。
社交界では会話における一言一句にも注意が必要だ。決して相手に不快感を与えてはならず、そしてそれ以上に、相手からつつかれる穴を作ってはいけない。侯爵夫人たるもの決して敵に侮られてはいけない。社交界で夫の足を引っ張るような愚を犯してはいけない、というのが夫人の教えである。わたしもその点には強く同意するが、まだまだ器用に立ち回るのは難しい。
侯爵夫人は自身も侯爵家出身であることもあって、社交においてはまさに歴戦の猛者である。決して感情を悟らせない張り付けたような笑顔も、微笑みを湛えたまま相手を攻撃する話術もお手の物。にこやかに嫌味を言う……のはわたしにはちょっと難しいかもしれないけれど、常に感情を隠す微笑を崩さずにいられるようになりたいとは思っている。
侯爵夫人との茶会形式の授業は、表面的な会話の中にも、しばしば返答にテクニックが要求される鋭い話題が差し込まれる形で進む。言葉に詰まらないようにするだけでも一苦労だ。
「今日は特別なお菓子も用意したのよ」
夫人の言葉に合わせ、アーバイン家の侍女が淀みない動作で横から皿を差し出してきた。侯爵家の使用人は、皆教育が行き届いているのだ。
わたしの前に置かれた皿に目をやると、ミルフィーユが鎮座している。
「ハリエット領の林檎を使ったミルフィーユよ。先日伯爵から頂いたから、当家のパティシエに最高級のお菓子にしてもらったの。どうぞ、お召し上がりになって?」
なるほど、ミルフィーユとはまただいぶ難易度の高いお菓子である。夫人はこうして時々高難度の課題を出してくるから本当に油断ならない。
細心の注意を払わないと崩れてしまいそうなミルフィーユを、ナイフとフォークを使って切り分ける。使われている林檎は、我がハリエット領の特産のものだ。品種改良によって初春まで収穫できるようにした自慢の林檎で、鮮やかな赤とたっぷりの蜜が特徴だ。甘さを抑えたカスタードクリームとさっくりとした生地と相まって、まさに最高級のお菓子と言って良いだろう。
しかしいかんせん食べるのに神経を使うお菓子である。もちろん優雅に崩さないようにミルフィーユを食べつつ、夫人との会話も続けなければならない。そんな時に限って、あえて夫人は最近の社交界の最先端のファッションの話題や噂話などを盛り込んでくる。正解の返答をできるだけノータイムで弾き出しつつ、マナーも損なってはいけない。
夫人の手元にも用意されたミルフィーユは、流れるような会話の間も崩れることなく行儀よく消費されていく。夫人はなんてことのないようにやってのけるが、これがどれほど大変なことか。
「本当に、いつ食べてもハリエット領の林檎は美味しいわね」
貴婦人らしく優雅にミルフィーユを食べ終えた夫人が、ほうっと溜息をついた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、領民たちも喜びます」
ハリエット領の領民にとって、特産の林檎を褒めてもらうことは何よりの喜びである。もちろんわたしにとっても非常に誇らしい。
ミルフィーユを食べ終えたわたしの皿には、わずかにカスタードクリームと崩れた欠片が残ってしまった。理想を言えばはもっと綺麗に食べきりたかったが、やはり難しい。比べると、夫人の皿はとても綺麗だ。
夫人の視線がちらりとわたしの手元の皿に移動する。吟味するような視線に、喉元がきゅうっと締まる。
「まあ、良いでしょう」
どうやら及第点を貰えたらしい。ほっと肩から力が抜ける。と、見計らったように夫人が手を打ち鳴らした。
「さあ、今日の授業はここまでにしましょう。完璧とまではいかないけれど、充分合格点だわ。頑張っているわね」
「ありがとうございます」
夫人に褒められて、自然と頬が緩んだ。厳しいけれど、努力すればきちんと認めてくれる――夫人はまさに理想的な教師だ。
「じゃあ次は……ああ、丁度帰ってきたようね」
言いかけた夫人がふと窓の外に目をやる。丁度侯爵邸の門の方から馬車の音が聞こえてきたところだった。この時間に侯爵邸に帰ってくる馬車……ということは、乗っている人間はおそらく一人だ。
しばらくするとバタバタとした足音がサンルームに近づいて来て、ノックもおろそかにドアが豪快に開け放たれた。
「母上! どういうことですか!」
貴公子らしからぬ荒々しい足取りでサンルームに入って来たのは、由緒正しきアーバイン侯爵家の嫡男であるレイモンド・アーバイン様その人である。
「なぜアメリアがここにいるのです!」
レイモンド様はサンルームに入ってきた勢いのまま、険しい視線を母親であるアーバイン侯爵夫人に向けた。しかし息子の視線など痛くもかゆくもないのか、夫人は涼しい顔でレイモンド様を見返す。
「今日が授業の日だからよ」
「僕はそんなこと一言も聞いていません!」
至極当然なことのように返された返事が不満だったのか、レイモンド様はキッと夫人を睨むと、その怒りを蓄えた顔をわたしに向け――一気に相好を崩した。
「ああ、アメリア! 僕の天使!」
普段社交界や学園で見るしかめっ面なんて一ミリも見当たらない蕩けきった顔でそのままずかずかとわたしに近づいてくると、躊躇いもなく床に膝をつきわたしの手を取る。
「アメリア、今日の君も一段と愛らしい! 学園で見る君の姿もまるで可憐に咲く一輪の花のような儚げな愛らしさだが、そのドレス姿もまたこの上なく愛らしくて堪らない! まるで天使……いや、天から降りてきた女神のようだ!」
レイモンド様は恍惚とした表情で、まさしく女神に忠誠を誓う信徒のようにわたしの手の甲に口づける。
わたしを伴う社交の場や学園でのレイモンド様しか知らない他の貴族子女が見たら、きっと目を疑うに違いない。まさにデレデレと蕩けきった笑顔でわたしを見つめるレイモンド様は、社交界――表の場では決して見ることはない。それもそのはず、表の場でのレイモンド様は、わたしを見るとソフトクリームのように蕩けてしまう表情をなんとか抑える為に眉間に皺を寄せて険しい顔をしているし、気を抜くととめどなく洩れてしまう愛の言葉を押し込める為にぎゅっと口を引き結んでいるのだから。
貴族――特に上位の貴族には、求められる振る舞いというものがある。貴族たちの手本となるよう、常に冷静に優雅に。腹の中でどんなに悪態をついていても決してそれを外には出さず微笑みを浮かべて滞りなく社交を行う。言わば『外面』である。
侯爵家の嫡男であるレイモンド様も、将来侯爵家を背負う身として相応の外面が求められる。間違ってもわたしの手を取って「僕の天使……」とうっとりと浮かべる蕩けそうな顔は、貴族的な『外面』とは言えない。
ところがレイモンド様はわたしと一緒にいると、いつでもどこでも蕩けきった顔で愛を囁き続けてしまう。そこで「侯爵家の跡継ぎとしてこれではいけない」と危機感を持った侯爵夫人によって発せられたのが、『外でのアリシア溺愛禁止令』である。つまり、わたしを伴う社交の場において”表情を崩さない”、”甘ったるく愛を囁かない”を徹底するという枷がレイモンド様には課せられたのだ。絶対禁止というと厳しすぎるように聞こえるかもしれないが、これは社交界で必要な外面を身に着ける訓練の一環だ。今のレイモンド様は、残念ながら、程よくわたしに微笑みかけたり親しみのある会話をすることができない。その為まずは自制を身につけ、社交界用の外面をコントロールするしかないのだ。
――そうして出来上がったのが、わたしがそばにいる時の”傍目には超絶不機嫌に見える侯爵令息”というわけだ。
婚約者であるアメリア・ハリエットを伴うと途端に不機嫌になるレイモンド・アーバイン侯爵子息の正体は、この上なく感情豊かにわたしに愛を囁いてくれる、わたしの愛しい婚約者様なのだ。




