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飲食コーナーには軽食と様々な種類の飲み物が用意されていた。今日は身支度の為にほとんど食事は取っていないものの、あまりお腹は空いていない。飲み物だけ手にして、人気のない壁にそっと体を寄せた。
アルコールの入っていない、すっきりとした林檎ジュース。少し酸味のあるジュースは疲れた体にすっと沁みる。
――レイモンド様とダンスを踊れた。それだけでもう充分。
侯爵家の貴公子たるレイモンド様は、淑女からのダンスの誘いを断るわけにはいかないはずだ。これまでの夜会でも、わたしとは踊らなくても令嬢からの申し出を受けてダンスしている姿を見たことはある。見境なく多くの令嬢とダンスをするというわけではない以上、それもまた円滑な社交の為のテクニックである。
レイモンド様とは社交の場以外で何度も踊っている。他のどの令嬢よりも多く踊っているのは、このわたしだ。
そう思っても、まだ未熟なこの心は抱くべきではない独占欲を生じさせてしまう。困ったものだ。
自分自身にやるせなさを感じながら俯き、溜息を吐く。と、わたしの足元に影がかかった。つられて顔を上げると、青いドレスを着た令嬢が、手にグラスを持って立っていた。
確か、以前スタンフィード公爵邸での夜会でレイモンド様に話しかけていた子爵の娘だ。名前は何と言ったか。
令嬢の真っ赤な紅をひいた唇がいびつに歪んだ。
「レイモンド様にしがみつくのはそろそろおやめになったら? そんなドレスまで用意して……はしたないと思わないのかしら」
なるほど、レイモンド様の婚約者という立場にしがみつくわたしに直接難癖をつけにきたらしい。
学園でも社交界でも、実はこれまで直接難癖をつけにくる令嬢はいなかった。ひそひそと陰口を叩く令嬢は数えきれないほどいたし、目の前にいる令嬢の父親のように遠まわしにわたしとの破談を勧めるような人はいたけれど、わたしに直接的な苦情を言ってくる者は初めてだ。
さてどうしようか、とダンスホールに視線を走らせる。もともとこの飲食コーナーは若干物陰になっている為、おそらくダンスホールからこちらの状況を明確に把握することは難しい。見たくないものを見なくて済むようにとこの場所を選んだが、悪手だったかもしれない。
少し緩んでいた姿勢を正し、目の前の令嬢を見つめる。
「しがみつく、と言われましても。わたしはレイモンド様の正式な婚約者ですので、その表現は少々事実と異なるとしか言えませんね」
まさか言い返されると思っていなかったのか、令嬢の頬に朱が走る。どれだけわたしを侮っていたのだろう、と思うけれど、これまで陰口に抗議の一つもしてこなかったわたしの自業自得か。
「……っそんなの、どうせ親が勝手に決めた婚約でしょ!? 伯爵家以下の娘じゃなきゃいけないなら別にあなたじゃなくても良いはずなのに、ハリエット伯爵が小狡い手でも使って婚約に結びつけたに決まってるわ。お可哀そうなレイモンド様。好きでもないあなたなんかと結婚しなくちゃいけないなんて!」
「父は何一つ小狡い真似なんて画策していません」
表面しか見ていない令嬢がレイモンド様とのことを論うのはまだ我慢できる。しかし出世欲なんて欠片も持ち合わせていない父のことを悪し様に言われるのは別だ。わたしたちの婚約には、父の朴訥とした人柄も大きく影響したのは間違いないのだから。
「誰もそんなこと信じないわよ! レイモンド様があなたを嫌ってるのが何よりの証拠じゃない! あなたがレイモンド様に愛されることなんてないんだから、早く婚約を解消してレイモンド様を解放してあげなさいよ!」
「嫌です。わたしはレイモンド様をお慕いしていますので」
わたしと婚約を解消したらレイモンド様が解放されるだなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。確固たる意志を持ってお断りする。
揺らぐことのないわたしに、令嬢の手がわなわなと震えた。
「あなた……! いい加減弁えなさいよ! あなたにその色は似合わないのよ!!」
言うが早いか、令嬢は手に持ったままだったグラスの中身をわたしに向けてぶちまける。赤い液体がバシャリとドレスに広がった。白地に広がる金と青を、赤が染める。
「……何をするんですか!」
あんなにも鮮やかだったドレスが、赤くくすんでいく。
その様を見て令嬢が清々したとでも言うようにハッと笑った。
「あなたにはそっちの方がお似合いよ! 分かったのならさっさとレイモンド様と――」
「アメリア!!」
嘲笑いながら続けようとした令嬢の背後から、焦ったような大きな声と共に人影が躍り出てきた。
令嬢が大きく目を瞠る。
「なっ、レイモンド様!?」
「アメリア、大丈夫か!」
令嬢には目もくれず、レイモンド様はわたしの元へ足早に近寄り、全身に目を走らせる。ドレスに広がる赤に目を留めるとギリギリと音がしそうなほど歯を嚙み締めた。
突然響いた大きな声に、ホール内がこちらの異常に気づいたらしい。騒めきが広がり、人が集まり始めている。
でも今はそんなことを気にかけている余裕はなかった。
美術品のように整った顔に怒りを滲ませたレイモンド様がゆっくりと令嬢を振り返り、「貴様……」と低く唸るような声を発する。今まで見たこともない表情と聞いたこともない声音に、令嬢がひっと息を飲んだ。
「貴様! 僕のアメリアに何をした!!」
「レイモンド様……、これは、あの、レイモンド様の為を思って……婚約を解消すべきだと……」
がたがたと震えながらも、令嬢は気丈に言い訳を口にする。
だがその言葉はますますレイモンド様の逆鱗に触れたらしい。
「僕の為、だと!? 貴様に僕の何がわかる! アメリアは僕が誰よりも愛する僕の天使だ! アメリアほど愛らしく清らかな令嬢なんて他にいない! 僕はアメリア以外となんて婚約も結婚もしない! 貴様のような蛾がアメリアに手を挙げるなど許されると思うな!」
「え、な、え……? レイモンド様……?」
鬼のような形相から繰り出される言葉に、令嬢が混乱したように戸惑いの声を挙げた。
「アメリア、一人にしてすまない」
レイモンド様は振り返ると、わたしの手を取った。
「他に怪我はないかい、アメリア。ああ、せっかく僕が用意した天使のようなアメリアの為だけのドレスが……。僕が君のそばを離れたばかりに、君にこんな思いをさせてしまうなんて。一瞬たりとも君のそばを離れるべきではなかった。君のことはいつだって僕がこの手で守りたいし、いつだって君を見つめていたいのに。社交なんて優先するべきではなかったんだ。まさか卒業パーティーの場で女神のような君にこんなことをする愚民がいるなんて……。いや、これは言い訳に過ぎない。ああ、僕のアメリア。この不届き者はどう処分してくれようか? 君のドレスをこんな風にした罪はやはり命で贖ってもらうべきかな?」
「レイモンド様、少し落ち着いてください。命はさすがに重すぎます」
騒ぎに集まってきていた貴族や子女たちが、揃って唖然としている。
それはそうだろう。社交界の誰一人としてこんなレイモンド様は見たことがないのだから。
「どういうこと……?」
「今のは本当にレイモンド様なのか……?」
「え、天使? 女神? え?」
などと戸惑う声が方々から聞こえて来る。社交界の猛者であろう年配の貴族たちも戸惑いの色を隠せていない。
ざわめく人々の先に、長く溜息を吐くお義母様の姿と、その横に寄り添うアーバイン侯爵が見えた。
「ああ、僕のアメリア! こんなことをされても命を取ろうとしないなんて、本当に君はなんと慈悲深いんだ! やはり君は天使だ!」
令嬢に向けていた鬼の形相はどこへやら、うっとりと蕩けそうな顔でわたしを見つめてくるレイモンド様。どうやら完全にたがが外れてしまったようだ。
「レイモンド様、決してわたしは慈悲深くなどありません」
せっかくレイモンド様が用意してくれたわたしにとっても宝物のようなドレスを汚されて、わたしだって非常に腹を立てている。
レイモンド様から令嬢へ視線を移す。令嬢は顔を青ざめさせながら呆然と口を開き、事態についていけていない様子だ。
「……わたしが今身につけているドレスは、レイモンド様がデザインをし、わたしの為に用意してくれた大切なものです。口で何かを言われるのは構いませんが、大切なドレスを傷つけられて、わたしは非常に怒っています。確かにわたしはただの伯爵家の娘に過ぎませんが、今のわたしは侯爵家嫡男の婚約者です。わたしもまた侯爵家に連なる一員であるということが理解できていますか?」
「でも、だって、そんなの、ただの形式だけのものじゃ……」
「形式だけ、だと……?」
隣から地を這うような声が聞こえてきた。
「僕とアメリアの婚約が形式だけのものだと? 貴様が僕たちの何を知っている? 僕と一緒にいる時のアメリアがどれほど愛らしく頬を染めるか知っているのか? どれほど幸せそうに微笑んでくれるか知っているのか? 僕が天使のようなアメリアをどれほど愛しているのか、知っているのか? 僕が社交の場でアメリアだけを見つめていたい気持ちをどれほど必死に抑えているか知っているのか? アメリアだけに愛を囁き続けたい口をどれだけ必死に噤んでいるか知っているのか? 僕がアメリアと婚約することができてどれほど幸せか知っているのか!?」
「そんな、レイモンド様……」
普段の柔和な貴公子然としたレイモンド様とは似ても似つかない様相に、令嬢だけでなく集まった貴族たちも息を飲んでいる。張り詰めた空気の中、わたしが言を繋ぐ。
「日頃のわたしたちの態度が誤解を生んだことは謝罪いたします。ですが、外側だけを見て勝手に判断し、仮にも貴族である方が礼を失する行いをするのはいかがなものでしょうか」
貴族社会では身分の上下が重視される。侯爵家の嫡男であるレイモンド様と、伯爵家の娘とはいえその婚約者であるわたし。どんなに外側からは不仲に見えていたとしても、越えてはいけないラインがあるのだ。
「貴様は確かラット子爵家の娘だったな。――そこでこそこそしてるのが兄と父親だな。兄の方は僕と同級生だったか」
レイモンド様が鋭く冷えた視線を人垣に向ける。氷の視線で射抜かれた子息と中年の男性がヒッと情けない声を挙げた。なるほど、令嬢は卒業生である兄の家族としてパーティーに参加しているのか。
「確か先日の夜会でも僕に娘を売り込みに来たな。ラット子爵家ではまともな貴族教育すらできないらしい。役に立たない爵位など返上して一から学びなおしてはどうだ?」
「も、申し訳ありませんでした! てっきりレイモンド様は意に沿わない婚約を結ばされていると思い……」
「僕たちは互いに望んで婚約を結んでいる! 僕は今すぐにでも結婚したいくらいアメリアを愛している!!」
「申し訳ありません!!」
ラット子爵とその息子がその場でへたり込んだ。令嬢も真っ青なドレスをぐしゃぐしゃにしながら力なく膝をついている。




