第095話 スラムの設計図
王立建築設計院の総帥として、俺が最初に選んだ現場は、白亜の設計院の中ではなかった。
王都の最南端。華やかな大通りから一歩路地へ入れば、そこには石畳の代わりに泥濘が広がり、腐った残飯と饐えた残り香が漂う下層区、通称スラムが広がっている。
俺はあえて豪華な正装を脱ぎ捨てていた。
身に纏っているのは、丈夫な厚手の布で作られた、機能本位の外套だ。だが、その襟元にはヴァルゼイド公爵家の双頭の鷲が金糸で密やかに刺繍されており、腰に下げた魔導計測器の銀の意匠が、俺が単なる貴族ではなく、国家の技術の根幹を担う者であることを無言で誇示している。
隣に立つリーゼロッテもまた、今日は華美な装飾を排し、活動しやすい長袖のチュニックと細身の革靴を選んでいた。それでも、彼女の胸元で輝く『蒼月の涙』が放つ青白い輝きは、泥にまみれた周囲から彼女を浮き立たせ、否応なしに上層の人間であることを示していた。
広場に運び込まれた炊き出しの木箱。香ばしいパンの匂いに誘われて集まってきた住人たちの視線は、しかし、尖った礫のように鋭い。
「……何しに来やがった、お貴族様が。俺たちの薄汚いツラを拝んで、慈悲深い自分に酔いしれるつもりか?」
列の先頭にいた男が、俺を睨みつけ、足元の泥をわざと跳ねさせた。護衛騎士達が殺気立つが、それを制する。
周囲の住人たちも、パンを求めていながら、その表情には隠しきれない嫌悪と、いつ裏切られるかわからないという怯えが混じっているようだった。彼らにとって貴族とは、自分たちの生活を壊して再開発という名の大義名分を押し付けに来る、略奪者と大差ない存在なのだ。
俺は罵声に顔色一つ変えず、静かにパンを一つ取り出した。そして、男の目を真っ向から見据え、問いかけた。
「君の家の、どこが一番不自由だい?」
「はあ?何言ってやがる……」
「文句を言う前に答えなさい。パンを配るのは私の勝手だが、君の家の欠陥を聞き出すのは私の仕事だ」
男は拍子抜けしたように口を噤んだ。俺の瞳には、憐れみもなければ、貴族特有の傲慢さもない。ただ、目の前の構造物をどう改善するかという一点だけだ。その温度のない視線に毒気を抜かれたのか、男は不承不承ながら口を開いた。
「……東側の壁が地盤沈下で歪んでてよ。嵐が来ると今にも倒れそうなんだ。寝てる間に下敷きになるんじゃねえかって、毎日ビクビクしてんだよ」
俺は頷き、外套のポケットから一束の白紙の羊皮紙と鉛筆を取り出した。
男がパンを必死の形相で齧りついているが、俺は、革まずに家の詳細なことを聞き取って行く。聞きながらも俺の右手は、驚異的な速さで白紙の上に迷いのない線を走らせた。その時、俺の外套がふわりと揺れ、空っぽの左袖が住人たちの目に晒されてしまった。
『……おい。あのお貴族様、腕がねえぞ』
『本当だ。左腕が、付け根からねえ……。俺たちの仲間にも、事故や病気で腕を失った奴は腐るほどいるが……』
『ヴァルゼイド公爵家の神童だって噂だが、あんな身体で……』
住人たちの間に、さざ波のような動揺が広がった。
彼らにとって、貴族とは非の打ち所のない完璧な存在であり、自分たちのような欠落を抱える者とは無縁の世界に生きる住人だと思っているはずだ。しかし、目の前の少年は違う。自分たちと同じように、あるいはそれ以上に過酷な欠損を抱えて生まれてきたのだ。
俺は、彼らの視線に含まれた色が嫌悪から戸惑いへ、そして強烈な仲間意識へと変わっていくのを肌で感じとっていた。同情ではない。自分たちと同じ地獄を背負いながら、こうして泥の上に立っている俺への奇妙な連帯感だった。
「東壁の沈下なら、この角度で梁を一本追加しなさい。廃材を使えば君の手でも補強できる。さぁ、帰ってすぐにでも補修しなさい」
渡された紙を見て、男の表情が変わる。そこには、適当な絵ではなく、素人でも理解できる明確な指示が、力強い筆致で描かれているからだ。自分と同じように身体が欠けているはずの青年が、右手一本で自分たちの窮地を救う答えを描き出す。その姿は、住人たちの反抗心を根底から揺さぶったのだろう。
二人目、三人目。俺はパンを渡すたびに、同じ質問を繰り返した。
「冬の風は、どの隙間から入ってくる?」
「下水の臭いが一番酷い場所はどこだ?」
最初は舌打ちをしていた住人たちも、俺が自分たちと同じ境遇にあると感じたことで、次第に自ら口を開き始めた。かつては隠していた家の惨状を、今では競うように俺に訴えかけてくる。
「お貴族様、俺のところも見てくれ!下水の戻りが酷くて、床板が腐りきってんだ!」
「おれのとこは天井だ!穴だらけで、これじゃ外で寝てるのと変わらねえ!」
パンを渡すたびに、俺の知性はスラムという巨大な腐敗した肺の中に深く入り込んでいった。一切れのパンと引き換えに、俺は彼らの信頼と、この街の真の構造図を手に入れていく。
「お、お兄ちゃん……。そっちの腕、どうしたの?」
ふいに、足元で小さな声がした。
ボロボロの布を纏った孤児の少年だった。少年は、自分の欠けた指を隠すようにしながら、俺の空っぽの左袖を指差してくる。その指先が、僅かに震えているのが見える。
騎士たちが制しようとしたが、俺はそれを無視し、泥の上に片膝をついて少年の目線に合わせた。
「これかい?生まれつき、どこかに置き忘れてきたんだ。どこに行っちゃったのかな?君と私は同じだね」
俺がそう言って穏やかに微笑むと、少年の顔から緊張が消えた。少年は恐る恐る手を伸ばし、俺の左袖の空洞に触れた。そこには何もない。少年は自分の欠けた指と、俺の左袖を見比べ、小さく頷いた。
「腕がないのに、どうしてそんなにかっこいい絵が描けるの?」
「腕がなくても、頭の中に完璧な形があれば、右手はただそれをなぞるだけなんだ。君、この街の抜け道に詳しいだろう?大人たちが通れないほど狭くて、地図にも載っていない道を。それを私に教えてくれないか。その代わり、私は君に、世界を設計する方法を教えよう」
少年の瞳に、絶望ではなく希望の光が灯ったようだった。
「おれ、知ってるよ!床下の排水溝から隣の街区まで繋がってる道があるんだ!そこなら、大人たちも絶対に来れないよ!」
少年が泥の上に不器用に引いた線に、俺は優しく手を添え、それを即座に白紙へと写し取っていった。
気づけば、俺を取り囲む空気は完全に一変していた。
貴族を忌み嫌っていた住人たちは、今や俺の周りに層をなし、自分たちの街がどう作り直されるべきか、熱心に語り合っている。彼らは認めたのだ。目の前の青年は、自分たちを見下す支配者ではなく、自分たちと同じ欠けた身を持ちながら、知識で世界をねじ伏せる人物であることを。
「リーゼロッテ、見てごらん。ここには無限の欠落がある。僕たちがパンを一つ配り、彼らの不平を聞き出すたびに、この街の歪みが僕の頭の中で正されていく。彼らの語る絶望こそが、僕にとっては最高の設計素材なんだよ」
リーゼロッテは、俺の外套に飛び散った泥を払いながら、畏怖を込めて俺の横顔を見つめてきた。
「あなたは、この住人たちを、あなたの目と手に変えるおつもりなのですね。彼らの欠落を組み込んでいく。なんて恐ろしく、なんて美しい光景なのでしょうか」
「ああ。僕に足りない左腕は、彼らが補ってくれる。この街そのものを、みんなが楽しく暮らせる街に作り替えるためにね」
俺は、最後に残ったパンを少年に手渡し、その頭を撫でた。
スラムの住人たちは、もう俺を遠ざけようとはしない。それどころか、俺が馬車へ戻ろうとすると、彼らは泥だらけの道を自ら空け、敬意を込めた沈黙で見送ってくれた。
泥の上に刻まれた無数の直線。それは、完成された王都の秩序を内側から食い破る、新しい設計図の始まりなのだ。
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