第092話 誓いの庭
国立魔導学園の卒業式前日。
明日になれば、数年間にわたり共に切磋琢磨した多くの生徒たちは、この学び舎を去り、それぞれの家督を継ぐ準備や国家の要職へと散っていくことになる。
ヴァルゼイドの跡取りとしては、文武共に完璧なゼノン兄様が決まっており、次男である俺にその重責は回ってこない。だが、公爵家の人間として、俺には俺にしか果たせない役割があるはずだ。この卒業という大きな節目は、俺が誰の意思でもなく自分自身の足で自ら選んだ唯一無二の伴侶と共に歩み出すための、決定的な境界線だった。
俺は、夜風が庭園の木々をざわめかせる音を聞きながら、リーゼロッテを連れて公爵邸の広大な敷地の最奥へと足を運んだ。
十八歳になり、学園でのすべての過酷な課程を修了している。俺たちの前には遮るもののない、それでいて未知の不安を孕んだ長い未来が広がっている。
庭園の一角、噴水の飛沫が月光を複雑に反射し、まるで砕け散った白銀の宝石が夜の闇に舞い踊っているかのようだった。
「ユウ様。卒業を前に、こうして邸の庭園を二人きりで歩けるなんて……。まるで、世界の時間が、私たちの門出を祝うために止まってしまったかのようですわね」
隣を歩くリーゼロッテが、俺の歩幅に合わせて歩を進め、慈しむような、それでいてどこか焦がれるような熱を帯びた視線をこちらに向けてくる。
幼い頃からこの公爵邸で家族同然に育ち、学園生活においても、彼女は常に俺の欠損した左腕の代わりとなり、文字通り俺の半身となって務めてくれた。母様から『婚約者候補筆頭』という身分を授かってから数年、彼女はその立場に甘んじることなく、一度として献身を絶やさなかった。ただひたすらに俺の影として、あるいは敵を阻む楯として、その身と心のすべてを俺という存在に捧げ続けてきたのだ。
俺は立ち止まり、月明かりに照らされた噴水の縁に腰を下ろすと、彼女は白く細い指先を、俺の右手で包み込むようにそっと握った。
「リーゼロッテ。明日、僕たちは卒業する。でも、それは学園という箱庭から出るだけのことに過ぎないんだ。僕は、君が隣にいない未来なんて、もう一秒たりとも欠片ほども想像することができない。これまで、君は僕の欠けた身体を、そして何より欠けた心を埋めるように寄り添ってくれた。僕が迷い、そして己の存在意義を疑う時も、君が向けてくれるひたむきな眼差しという光だけが、僕を暗闇から救い出してくれたんだ」
俺が言葉を紡ぐごとに、彼女の指先が微かに、しかし激しい感情の波を伝えるように震え始める。白銀の月光に照らされた彼女の横顔は、陶磁器のように白く、触れれば容易く壊れてしまいそうだった。
「これまでは、周囲の過度な期待や、何より父様や母様の決めた順序に甘えて、君を『候補』というどこか曖昧な場所に留めてしまった。けれど、もう迷いはない。リーゼロッテ、候補としてではなく、僕の正式な伴侶として、これからもずっと僕の隣にいてほしい。公爵家の義務でもなく、父様や母様の命令でもない。一人の男として、僕は君を、君だけを必要としているんだ。僕の人生のすべてを君に預けたい。僕の隣で僕と同じ景色を見て、一生を共に歩んでくれないか?」
静寂が、世界を完全に支配した。風の音さえも、二人の重なる鼓動を邪魔せぬように息を潜めている。
リーゼロッテは、俺が口にした言葉の一つ一つを、自身の魂に深く刻み込むように、時間をかけて何度も反芻していた。大きく見開かれたその瞳には、信じられないという純粋な驚きと、長年の祈りがついに届いたことへの戸惑い、そしてそれらをすべて飲み込むほどに深い、底知れぬ愛情が混ざり合い、やがて堪えきれなくなった大粒の涙が、その美しい頬を伝って零れ落ちた。
彼女は、この言葉を、常に一歩下がった場所で、何年も、何年も……気の遠くなるような時間をかけて、祈るような、あるいは呪うような心地で待ち続けていたのだ。
「……ああ、ユウ様……っ!そのお言葉を、私はどれほど……どれほど夢に見て、焦がれてきたことか……。はい、喜んで。この身も、この魂も、最後の一片に至るまで全てあなたのものです。私は、あなたが差し伸べてくださるのなら絶望でさえも、天の恵みとして喜んで受け入れましょう。たとえ世界中が私たちを拒もうとも、私は地獄の底まで、あなたの忠実な影としてお供いたしますわ。あなたの欠けた左腕となり、あなたの心を一生守り抜く壊れぬ楯となります」
リーゼロッテは、感情の重みに耐えきれなくなったように崩れ落ち、俺の胸に顔を埋めた。
そして、この世で最も尊い宝物に触れる巡礼者のように、俺の右手に、さらに空いた左腕の袖に、熱烈な口づけを幾度も幾度も落とした。
彼女の涙が服の袖をじわりと湿らせ、熱を持って俺の肌へと浸透していく。その温かな重みこそが、俺が彼女を独占し、彼女に俺の魂を永久に縛り付けるための、何よりも確かな契約の証だった。
「ああ。これからもよろしく、リーゼロッテ。僕を支えてくれ」
俺は、震える彼女の体を右手で強く抱き寄せた。
俺たちは、正式な婚約という名の鎖によって、ようやく一つの完全な存在、離れられぬ運命になれたのだ。
俺は、泣きじゃくる彼女の背を、落ち着かせるように優しく撫で続けた後、その手をしっかりと引き、邸内で家族が待つ、あの重厚な広間へと向かうために。
重厚な彫刻が施された扉を押し開けると、そこには父様と母様、そして次期公爵であるゼノン兄様とサリア姉様が、まるでこの時をあらかじめ予見していたかのように、静謐な空気の中で揃っていた。
「父様、母様。それに兄様、姉様。先ほど、庭園で彼女に、僕の真実の気持ちを伝えてきました。僕は、リーゼロッテ・フェルトンを、単なる候補ではなく、僕の正式な婚約者として迎えたい。僕の隣を任せられるのは、世界中を探しても彼女しかいません。彼女と共に、これからの人生を歩むと決心しました。どうか家族として、正式にお認めください」
俺の真っ直ぐな、一点の曇りもない覚悟の言葉に、部屋を満たしていた張り詰めたような厳格な空気が、ふわりと和らいだ。
母様は優雅な所作で椅子から立ち上がると、俺たちの前までゆっくりと、絹の擦れる微かな音を響かせて歩み寄り、リーゼロッテの細い肩に慈しむように、そして確信を持って優しく手を置いた。
「ようやく、自らの意志で男の顔になったわね、ユウ。その言葉を待っていたわ。これまでは私たちが主導して決めていたようなものだけれど、あなたが自らその手で選び取ったのなら、もう私から言うことは何もないわ。リーゼロッテ、あの子をよろしく頼むわね。これからは『候補』などではなく、正式な私の娘として、あなたを心から歓迎するわ」
父様は深く重厚な声で
「励むのだぞ。ユウの選択が、人生そのものを形作るのだ。ヴァルゼイドの名を背負う誇りを忘れるじゃないぞ」
と短く、しかし魂の震えるような力のこもった言葉をかけ、その眼差しには確かな信頼と息子への期待が宿っていた。
「もう、本当に待ちくたびれたわよ。お祝いの準備、どれだけ前から進めていたと思っているの?明日の卒業式は、最高の晴れ舞台にしてあげるから覚悟しておきなさい」
サリア姉様は、茶目っ気たっぷりに言い、ゼノン兄様も無言のまま、満足げな表情で深く頷いた。その沈黙は、弟の自立を認め、一人の男として尊重するという兄としての強い意志表示だった。
家族に囲まれ、正式な婚約者として祝福されたリーゼロッテ。
明日の卒業式は、俺たちが新たな世界へと踏み出し、歴史を刻むための輝かしくも過酷な最初の一歩に過ぎないだろう。
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