第089話 至宝の揺り籠 ~ガルド視点~
王都の夜を支配する静寂は、この王宮の最深部にある『紫紺の間』にまでは届かない。より、静かさが増したようだと感じてしまう。
重厚な黒檀の扉に閉ざされたこの空間では、今、国家の存亡を懸けた会談にも劣らぬ、異様な議論が交わされている。
円卓を囲むのは、兄上である国王エドマンド、次代の王を継ぐ王太子ウィンザー、そして我が公爵家の嫡男ゼノン。王国を動かす最高権力が一堂に会しているが、我々の議題は外交文書でも軍事機密でもない。ただ一人の青年のことである。それは、我が愛しき末子、ユウ・ヴァルゼイドの未来をいかにして神聖不可侵なものとするか。その一点のみである。
「兄上。やはり、あの子には権限を与えるべきです。閉じ込めるのではなく、あの子が進むすべての道を、我らの名において事前に清め、塗り潰しておくのが必要です」
私は、自分の声が震えているのを自覚していた。
本来、剛毅な武人として知られる私だが、ユウのこととなれば精神は崩れ去ってしまうのだ。産まれてきたときに、左腕が無いとわかった時、私は誓ったのだ。二度とあの子の身に不浄なものは触れさせないと。あの子をただ暗い部屋に閉じ込めるような、無慈悲な真似はしない。あの子には、王国全土を遊び場として与えたい。ただし、その遊び場のすべての石ころを、この父が事前に取り除いてやるという、絶対的な支配の下での自由なのだ。
「ユウを卒業と同時に新設する『王立建築設計院』の終身総帥に任命してください。拠点は王城の隣、旧離宮を改装した本院に置きます。だが、あの子をそこに縛り付けてはならない。あの子が望むなら、王国内のあらゆる場所に自由に出入りし、視察し、その場で命令を下す権限を公式に与えるのです。あの子の類稀なる知性は、王国の秩序そのものなのです。ならば、その足がどこの泥を踏もうとも、その先々で王族と同等の敬意と鉄壁の安全が保障されなければならない!」
国王エドマンドは、私の言葉に深く、重々しく頷いた。兄上にとっても、ユウは血縁を超えた愛着の対象であり、同時に失ってはならない国家の至宝なのだ。
「ガルドよ、お前の言う通りだ。ユウを鳥籠に閉じ込めておくには、その才能はあまりにも大きすぎる。あの子が現場視察を望むなら、王都の喧騒さえもあの子を歓迎する祝祭に変えれば良いだけのことだ。この『王立建築設計院』は、あの子の自由を保障するための、公的な楯となるだろう。だが、兄として王として、一つ懸念がある。あの子が外へ出る際、無礼な民草の視線があの子に触れるのを、どう防ぐつもりだ?」
その問いを待っていた。私は身を乗り出し、用意していた言葉を語る。あの子の友についてだ。
「ええ。あの子の純粋な交流まで奪うつもりはありません。学園の研究会で絆を深めた四名。ベルシュタイン侯爵家のアルフォンス、ロドリック伯爵家のカイル、ヴァレンタイン子爵家の娘メアリ、そして商家の息子トマス。彼らには、設計院への無条件かつ自由な立ち入りを許可します。彼らは公的な補佐官などという堅苦しい枠にはめず、あくまでユウの友として傍に置くのです。しかし、ただの友人であってはならない。ユウがあらゆる場面で彼らに協力を仰いだ際には、たとえそれが家門の利益に反しようとも、無条件でこれに応じ、持てる力すべてをユウのために投じることを彼らの家系に義務づけます。彼らには、ユウが自由であるために必要な、最高級の道具であり、盾であり、理解者であってもらわねばならないのです」
国王はその名簿をなぞり、満足げに目を細めた。アルフォンスの政治力、カイルの武力、メアリのも同回路としての知識、トマスの商才。あの子が自ら選び、懐に入れた駒たちを、王家の権威で磨き上げ、あの子の所有物として固定してしまう。これならば、あの子の自由を守りつつ、その才能を王国全土に発揮させられるだろう。
王太子ウィンザーが、ここで静かに、しかし確信に満ちた口調で補足した。
「父上、叔父上。ユウを飽きさせないための工夫も必要です。あの子は知的好奇心が強い。ですから、私が一生かかっても終わらない”王国全土の再編”を、無制限の予算と共に発注し続けましょう。王都を出て、避暑地や要塞線、果ては隣国との国境地帯まで、あの子が見たいと願う場所すべてに、あの子のための建物を先に建てておくのです。あの子がどこへ行こうとも、そこが常に安全な自分の家であると感じられるように。あの子は視察と称して、私たちが用意した楽園を渡り歩くだけでいい。そうではありませんか?」
ウィンザーの瞳にも、私と同じ、愛する従弟への歪んだ献身が宿っていた。あの子を飽きさせぬよう、常に新しい玩具、すなわち国土そのものを設計するという悦楽を与え続けるという発想。実に見事だ。
「ユウが現場に行きたいと願えば、その瞬間、街道のすべての関所を解放し、あの子の馬車が止まることのないよう手配しましょう。現場の職人たちには、あの子の言葉を神託として聞かせれば良い。ユウは安全な馬車の中から、あるいは新設された場所から、その指先で指し示せばいいだけなのです。現場の泥臭い交渉や不潔な調整、あるいはあの子が仰いだ協力事項は、立ち入りを許された四人が、ユウの願いを叶えるために命懸けで片付ければ済むことです」
長男のゼノンも、冷徹なまでの管理能力をこの計画に注ぎ込むべく、具体的な運用体制を提示した。情報の検閲、外界との調整。それらすべてを、私とゼノン、そしてあの子に付き従うリーゼロッテで引き受ける。
「ユウに近づくあらゆる外部からの陳情書、欲にまみれた貴族どもの接近、そしてあの子が興味を持つ情報のすべてを、事前に精査致しましょう。外の世界の醜い争いや、あの子の心を乱すような悲報は、あの子の耳に届く前にこの世から消し去ります。ユウが目にする世界は、常に平穏で、発展に満ちた、完成されたものでなければならない。あの子が自由に出歩く先々で、その目に映るすべてを我々が事前に演出するのです。あの子は自由だ。しかし、その自由の境界線はすべて我々が管理する」
国王は感心したように、ゼノンの顔を見た。
「リーゼロッテが常に真横に控え、あの子の環境を管理してくれるなら心強いな。彼女ほどユウの安全と純粋性に執着している者もいまい。公爵家特派監察官としての権限を、そのまま設計院の管理権限にスライドさせるとしよう。彼女がユウの最も近くで、その自由が侵されないよう常に目を光らせるのだ」
私は、窓の外に広がる王都の夜景を見つめた。
そこにユウが降り立った時、すべての民草が膝を突き、道を開けてあの子を迎え入れる光景が目に浮かぶ。あの子が設計図に線を引けば、山は削られ、川は流れを変え、新しい都市が生まれる。それは神の業にも等しい。
(ああ、ユウ……。お前は何も心配しなくていい。お前がどこへ行こうと、お前が歩く道に石ころ一つ落ちていないよう、この父が先回りしてすべてを取り除いてやろう。不快な者はあらかじめ排除し、望むものはすべて机の上に揃えてやろう。お前が手掛ける『王立建築設計院』は、王国という名の巨大な、お前だけの聖域になるのだから)
「よし!これで決まりだ。あの子が学園を卒業したその足で、この全権を手に取れるよう準備を急がせよう。あの子を縛る鎖などいらぬ。あの子そのものが、この国を縛り、再定義する法になれば良いのだからな」
エドマンドの力強い言葉とともに、勅令案に王印が捺された。
『紫紺の間』に灯る魔導灯の光は、夜が更けるほどにその輝きを増していく。
決定されたのは、ユウ・ヴァルゼイドという個人に、王国全土を遊び場として与え、自らが認めた四人の友を無条件の協力者として従わせ、リーゼロッテという最強の盾を常に真横に伴わせ、彼を歩く聖域として完成させること。
会議が終わり、私は晴れやかな充足感と共に『紫紺の間』を後にした。
廊下に出ると、そこには影のようにひっそりと佇む少女の姿があった。リーゼロッテだ。彼女は物音一つ立てず、この扉の向こうで下された神託を、誰よりも深い執着を持って待っていたのだろう。
ゼノンが彼女に歩み寄り、確信に満ちた声で何かを告げている。私にはその言葉の詳細は聞こえなかったが、彼女が深く、優雅に一礼する姿を見て、すべてを察した。
彼女の瞳には、私と同じ光が宿っている。愛する者を守るためなら、世界すべて塗り変えてしまう光だ。
彼女なら、あの子の真横を一時も離れず、外の世界という毒をすべて飲み込んでしまうだろう。彼女を通さなければ、あの子は何も見ず、何も聞かない。それこそが、彼女が望む献身なのだ。
私は、ゼノンとリーゼロッテの二人が暗い廊下で頷き合うのを見届け、満足して踵を返した。
新設される『王立建築設計院』。そこは、世界で最も広く、そしてどこへ行っても我らの愛が届く、完璧に管理された楽園となるのだ。
卒業への秒読みを始めよう。ユウには、最高の物を用意してやらねばな。
あの子が図面を引くその横で、リーゼロッテが茶を淹れ、四人の友が必要な資材を持って列をなす。
あの子にとって、これ以上の幸福はないのだから……。
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