第088話 それぞれの進路
王都の街並みが、茜色の夕闇に溶け始めていた。旧校舎の三階に位置する建築設計研究会の部室には、窓から差し込む斜光が長い影を落としている。
いつもなら、この部屋の中心にはユウが座り、その傍らでリーゼロッテが完璧な差配を振るっているはずだった。しかし今日、二人の姿はない。ユウは公爵家の公務に伴い登城を命じられ、リーゼロッテもまた、その実務補佐として同行を余儀なくされていたからだ。主たちが不在の部屋で、残された四人たちは、これからの身の振り方について言葉を交わし始めた。
「ふむ。この空中回廊の構造式、現時点での最適解といえるだろう。これ以上の洗練は、もはや神の領域に踏み込むことになる、だが、この程度の成果で満足している場合ではない。私の卒業は、すぐそこに迫っているのだからな」
アルフォンス・ベルシュタインは、眼鏡を指先で押し上げ、満足げに鼻を鳴らした。彼はこの場にいる他の三人より一学年上の先輩であり、学生の身でありながら、すでに国立魔導学園の客員教授として教壇に立つ予定となっている。
アルフォンスの言葉に、部屋の隅で武具の手入れをしていたカイル・ロドリックが顔を上げた。
「そうだな。アルフォンス先輩は、来年にはもう学園にべったりなんだろ?俺たちも王都での気楽な学生生活はあとわずかだ。卒業すれば国へ戻り、正式に家督を継ぐ準備を始める。ロドリックの武名を背負い、軍の最高戦略官としての席に着くことが決まっているからな」
カイルにとって、建築を学ぶことは単なる部活動ではなかった。それは、いかなる外敵も寄せ付けない絶対的な防衛線を、王都に刻み込むための軍事教育の一環でもあった。
「俺は単なる壁を作るつもりはねえ。敵が侵攻すること自体を不可能にする不落の城壁を設計するつもりだ。理論や美学もいいが、最後には力がすべてを解決する。それが武門の生きる道だからな」
カイルの力強い宣言に対し、繊細な魔導式の設計図に見入っていたメアリ・ヴァレンタインが、ふう、と溜息を漏らした。彼女は魔導具制作において、並ぶ者のない精密な技術を有するヴァレンタイン子爵家の令嬢である。
「カイルは相変わらず、暑苦しい話ばかりね。私なら、そんな無骨な防御壁なんて作らずに、王都全域に極細の感知網を張り巡らせてやるわ。指先一つで情報のすべてを統御して、敵の意図を事前に摘み取る。それこそが、究極の調律っていうものでしょ」
メアリの語る言葉は、美しくも冷徹な響きを帯びている。
卒業後は、自らが主宰する工房で、王都の情報網を根底から書き換えるような魔導具の開発に従事する予定だ。
「……でも、そのためには、私の設計を現実のものにする確かな支えが必要なんだけどね」
メアリはそう呟くと、チラリと視線を部屋の入り口付近に座るトマスへと向けた。商家の息子であるトマスは、この部室に集まる天才たちの中で唯一、特別な爵位も異能も持たない平民であった。しかし、彼は誰よりも現実的であり、誰よりも貪欲に実利を追求する男である。
「メアリさんの仰る通りです。どんなに高尚な理論も、堅固な戦略も、それを支える資材と資金の循環がなければ、ただの絵に描いた餅ですからね」
トマスは、穏やかだが自信に満ちた笑みを浮かべた。彼は卒業後、実家からのれん分けしてもらい、トマス商会として大陸規模の物流組織へと考えている。
「僕は卒業後、王都の物流のすべてを掌握するつもりです。アルフォンス先輩が求める極上の魔石も、カイルさんが必要とする軍用鋼材も、そしてメアリさんの工房に欠かせない希少な触媒も。僕を通さなければ手に入らない、そんな経済の血流を作り上げますよ」
トマスの言葉には、商人の誇りと、仲間たちを支え続けようとする彼なりの誠実さが込められている。それを聞いたメアリの頬が、夕焼けのせいばかりではなく朱に染まる。
「トマスがそう言うなら、私の工房の資材供給は、全部あんたに任せるしかないわね。期待してるんだから」
メアリは勇気を振り絞るように、しかし努めて不遜な口調を装う。だが、その瞳は描かれた術式を追ってはいない。彼女は自分自身の心に関しては、どれほど精緻な魔導回路を構築しても理想通りに制御できないことを痛感している。
卒業すれば、それぞれの身分や立場が彼らを隔てることになる。アルフォンスは賢者へ、カイルは将軍へ。そして自分は技師へ。平民であるトマスとの接点は、普通に生きていれば消失してしまうだろう。
それでも、トマスが届ける資材という名の契約がある限り、自分の世界は彼と物理的に繋がり続ける。トマスに会うための理由を、彼女は仕事という隠れ蓑で必死に捏造しようとしていた。
(あんたが商売のことしか考えてないのは分かってる。でも、私に会いに来る理由が金儲けだっていいわ。それが途切れないなら、私は一生、あんたに最高級の魔導具を作らせてあげる)
そんな密かな、そして少々歪な執着を、彼女はまだ言葉にできずにいた。
「……ところで」
ふと、アルフォンスが窓の外を見やりながら、独り言のように声を漏らした。
「僕たちは皆、自分の帰るべき場所や、進むべき道が決まっている。だが、ヴァルゼイド君はどうするんだろうな。彼は、この先どこへ向かうつもりなんだろう。今日も今日とて、あのお堅い王宮に呼び出されて、リーゼロッテ嬢と二人は何を言われてるんだか」
その問いに、部室内の空気が一変した。
「ユウか。あいつの才能は、もはや一つの学問や、一つの職能に収まるものではないだろ?ここの四人を一本の線で束ね上げてしまっただろ。あれは設計者などという言葉では語り尽くせないだろ?」
「ええ、カイルの言うとおりね。ユウが各設計図は不思議な力があるわ。卒業した後も、彼はきっと私たちが想像もできないような何かを設計し続けるんでしょうね。リーゼロッテも、それを支えるため一緒にいるでしょうけど」
メアリの言葉には、羨望と少しの寂しさが混じっていた。
「僕たちの仕事は、彼が描く未来の邪魔をしないこと、そして彼が望むものをいつでも用意できるようにしておくことかもしれませんね。彼ならきっと、誰も見たことがない世界を形にしてしまうでしょうから」
トマスが感慨深げに付け加える。
彼らは理解している。
卒業という節目が、単なる別れではないことを。自分たちがそれぞれの分野で頂点を目指すのは、いつか彼が新しい世界を描こうとしたとき、その最高の歯車として選ばれるためなのだと。
「ふん。ならば、ますます手を抜くわけにはいかん。ヴァルゼイド君が私の理論を必要としたとき、それが未完成なものであっては、ベルシュタインの名が廃るからな」
アルフォンスが再び鋭い筆致で数式を書き込み始める。カイルとメアリはより精緻な術式図へと没頭する。その傍らで、トマスは静かにメアリの茶杯に新しい茶を注ぐ。その何気ない動作一つにさえ、メアリの心臓は不器用な鼓動を刻んでいた。
「カイル、君の言う防衛戦略だが、その基点となる座標に私の干渉術式を組み込んでおけ。軍部の旧態依然とした陣形など、私の数式一つで無力化できる。君が守るべき領土は、私の理論を実証する最高の大地になるはずだ」
「はっ、相変わらず自信満々だな、アルフォンス先輩。だが、その数式を維持するための魔力供給源は、俺の部隊が物理的に死守してやるよ。理屈が正しくても、石を投げられて壊れるようじゃ話にならねえからな」
「ふふふ、二人とも、将来の話になると途端に熱くなるのね。でも忘れないで、そのすべての連絡を支えるのは、私の通信術式なんだから。アルフォンス先輩の数式を伝達し、カイルの部隊に情報を流す。私の網がなければ、あなたたちの理想はただの孤島よ」
メアリがペンを置き、誇らしげに胸を張る。彼女の脳裏には、王都全域を覆い尽くす魔導の神経網が浮かんでいた。それは、人々の生活を密かに支え、あるいは支配し、世界という巨大な装置を調律するためのものだ。
トマスは、そんな天才たちの会話を聞きながら、心の中で既に未来の販路を考えていた。彼らがそれぞれの分野で最高峰に至る。それは、トマス商会が扱う商品に、絶対的な価値が宿ることを意味する。
「皆さんがそれぞれの道で頂点に立つとき、僕の商会は世界で一番有名な店になっているでしょうね。でも、ここでのよしみです。皆さんには、最高の品質を適正価格で届けさせてもらいますよ。もちろん、メアリさんの工房には特別に、僕が自ら目利きした品を優先的に回すと約束します」
「……っ、そんなの当たり前じゃない。トマス、あんたが私のわがままを聞かなくて、誰が聞くっていうのよ」
メアリは顔を背け、熱くなった耳たぶを隠すように髪を弄った。トマスの言葉はあくまで大口顧客へのサービスに過ぎないのかもしれない。それでも、その言葉の端々に自分への配慮を探してしまう。彼の瞳に映る自分が、単なる得意先の娘ではなく、唯一無二の設計士として刻まれていることを願わずにはいられない。
トマスは、そんな彼女の反応に少しだけ目を細め、言葉を続けた。
「ええ。メアリさんの設計には、僕も並々ならぬ思い入れがありますから。卒業しても、僕たちの関係がこれで終わるとは思っていません」
商人の丁寧な言葉使い。それが敬意なのか、それとも一歩踏み込んだ親愛なのか。メアリには判別がつかない。けれど、その曖昧な空間こそが、今は心地よかった。
夕日は完全に没し、王都の街灯が一つ、また一つと点り始める。彼らは、それぞれの図面を鞄に詰め、静かに席を立つ。
「では、今日のところは散会にしよう。ヴァルゼイド君に、明日の報告をまとめるのを忘れるなよ。彼なら、僕たちの進捗を聞いただけで、さらに先の答えを見抜いてしまうだろうからな」
アルフォンスが告げ、四人は部室を後にする。鍵をかける音だけが、廊下に虚しく響いた。しかし、その内側に残された熱気は、明日にはまた、新しい世界の設計図を鮮やかに描き出すことだろう。
卒業への秒読みは、静かに迫っている。主のいない部室で、一枚の白紙が風に舞い、床に落ちる。それはまるで、これから彼らが書き記していく、無限の未来そのものであるかのようだった。
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