第085話 断絶の裁定
深い霧が、まるでこの世のすべてを葬り去る葬列のように、深夜のバド侯爵邸を音もなく、しかし着実に飲み込んでいた。
かつては王国の社交界において、その圧倒的な富と権勢を誇示する華やかな象徴であったはずのこの壮麗な邸宅も、今では灯される蝋燭さえまばらで、廊下を渡る夜風の音さえ、一族の凋落を嘆く不吉な呻き声のように聞こえる。
壁に飾られた歴代当主たちの肖像画は、没落の影に塗り潰され、冷ややかな暗がりに沈んでいた。
バド侯爵は、執務机に突っ伏すようにして、震える手で最後の一杯となる安酒を喉に流し込んだ。
あの日。
すべては、リーゼロッテ・フェルトンから届いた一通の手紙から始まった。
王家公認の監察官という、公爵家の絶対的な庇護を受けた彼女から突きつけられた『執行通告』。
あの一通の紙切れが、これほどまでに執拗に、これほどまでに残酷に、バドという家門の首を絞め続けるとは、その時の彼は微塵も想像していなかった。
息子を廃嫡し、即座に人里離れた修道院へ幽閉してまで許しを請うた。
それが、貴族としての最大の譲歩であり、誠意だと思っていた。
だが、リーゼロッテという女性の優しさは、ユウ・ヴァルゼイドの箱庭を荒らす不純物に対しては、一欠片も発揮されることはなかった。
手紙が届いたあの日から、この一族の運命は根底から塗り替えられていた。
リーゼロッテは自ら軍を動かすことも、力ずくで財を奪うこともしなかった。
ただ一通の手紙で『この家門はヴァルゼイドの敵である』という境界線を引いた、それだけだった。
だが、その一線がすべてを決めた。
昨日まで友人を自称していた者たちは、バドという名を聞いただけで汚物を見るように顔を背け、取引のあった商家は一斉に資金を引き揚げていく。
彼女が引いたその境界線の外側に置かれることは、王国という文明社会からの完全なる追放を意味する。
バド侯爵は、自分の屋敷の土台が、目に見えないシロアリに食い荒らされるように崩れていくような音を、毎日、毎晩、執務室で独り聞き続けていたのだ。
自暴自棄になり、トマスという平民一人を狙って放った刺客も、結局は自分たちの終わりを早める最悪の呼び水となった。
数時間前、ヴァルゼイド公爵家の私兵たちが、音もなく屋敷の門を潜り抜けてきた。
抵抗する者など、この屋敷には一人も残っていなかった。
忠誠を誓っていたはずの騎士たちは、公爵家への反逆という逃げ場のない大罪に加担することを恐れ、屈辱に耐えながら剣を捨て、床に膝をついた。
執務室の重厚な扉が、抵抗を許さぬ力で静かに開かれた。
そこに立っていたのは、ユウの父、ガルド・ヴァルゼイド公爵の腹心である、感情を氷に凍らせたような男だった。
その手には、王家の紋章が血のように赤い蝋で封印された、漆黒の羊皮紙が握られている。
バド侯爵が、脂汗を流しながら、掠れた声で問いかけた。
「……何を持ってきた。公爵家は、まだ、私を嬲り足りないというのか」
男は答えず、ただ無機質に、王家から託された決定を読み上げ始めた。
その声は、執務室の冷えた空気を震わせ、侯爵の逃げ道を完全に塞いでいく。
「バド侯爵。貴殿、及びバド一族のすべての特権、並びに爵位を今この瞬間をもって剥奪し、子爵への降爵を命ずる。これは、ヴァルゼイド公爵家の申し立てを正当なものとして受理した、王家が下した最終的な裁定である!」
その言葉は、バド侯爵の心臓を直接貫く処刑の宣告も同然だった。
侯爵は椅子から崩れ落ち、豪華な絨毯に這いつくばりながら、狂ったように叫んだ。
「待ってくれ!あんな、あんな平民一人のために!たかが商人のガキに、少し傷をつけただけで、侯爵家が子爵にまで落とされるなど、そんな道理があるか!王家も、あの左腕のない異質な子供に甘すぎるのではないか!」
男が、ゴミを見るような冷徹な視線を侯爵に向けた。
その眼光は、一切の慈悲を拒絶していた。
「公爵閣下はこう仰った。『息子の居場所を汚した不純物は、一欠片も残さず、この世界から消せ』と。王家もまた、閣下のその揺るぎないご意思を尊重された。貴殿が侮ったその平民は、若様にとってはただの部下ではない。ヴァルゼイドの魂の一部なのだ。それを傷つけたことは、王家に対する不敬であり、この王国の秩序を乱す反逆にも等しい。爵位を奪われず、子爵として命を繋げるだけでも、王家の慈悲であると知れ!」
翌朝、王国の膨大な公式記録から侯爵としてのバドの名は消え、没落した子爵家としての再編が刻まれた。
当主は、実質的な追放に近い形で、枯れ果てた大地しかない地へと送られた。
そこは外界からの情報は一切遮断され、言葉を交わす相手もいない、生きながらにして死を待つだけの煉獄である。
彼のバド家が再び華やかな社交界に日の光を浴びることは二度とない。
名門の系譜から切り落とされ、誰の記憶からも消え去る。
それがリーゼロッテの引いた境界線の本当の外側だった。
放課後。
旧校舎の部室。
昨夜の騒乱が嘘のように、窓から差し込む夕陽が、美しく磨き上げられた床を染めている。
リーゼロッテはいつも通り、穏やかで優雅な所作で、五人分の紅茶を淹れていた。
部室の扉が開き、トマスが新しい資料を抱えて入ってきた。
包帯で左手を吊っている姿は痛々しいが、彼の表情には技術者としての誇りが満ちているようだ。
だが、そのすぐ背後には、まるで影のように付き従うメアリ・ヴァレンタインの姿がある。
彼女の目は、トマスのわずかな躓きさえも見逃さないほど、異様な目つきで注がれている。
「トマス、あまり無理をしてはダメよ。その腕が完治するまで、重いものはすべて私が持ちますから。さあ、こちらへ。少しでも顔色が悪いようなら、すぐに横にならせるわよ」
メアリの声はどこまでも優しく響いたが、その指先はトマスの袖を片時も離さず、執拗に彼の無事を確認し続けている。
トマスが少しでも歩を早めれば、彼女の眉間には深い憂慮の皺が刻まれる。
トマスは困惑しながらも、彼女の献身的な介護を拒むことができず、ただされるがままに椅子へと導かれていく。
この閉鎖された空間、守られた箱庭こそが、俺にとってのすべてであり、それを守るためならば、外の世界でどれほどの血が流れようとも、知ったことではない。
リーゼロッテが差し出したカップから立ち上る湯気が、俺の冷えた瞳をわずかに和らげる。
彼女の献身。
家族の過保護。
仲間の信頼。
それらすべてを組み込み、俺は新たな理想の世界を描き始めた。
凋落した者たちに対しては、もう誰も語ることはない。
ただ、この旧校舎の静寂だけが、永遠に続いていく予感だけがあった。
「トマスさん、お茶を。メアリさんも、あまり詰め寄っては彼が息苦しくなってしまいますわよ」
リーゼロッテが窘めるように言ったが、メアリはトマスの隣にぴたりと腰を下ろしたまま、その瞳から警戒の光を消すことはなかった。
一度傷ついたものは、二度と外の世界に出してはならない。
ここでは誰もが、そう確信している。
俺は、リーゼロッテが淹れてくれた紅茶の香りを深く吸い込んだ。
夕陽が沈み、部室に魔法灯が灯される。
外の世界は暗闇に包まれていくが、この箱庭だけは、永遠に変わることのない、優しく残酷な光に満たされていた。
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