第082話 恋の構造検査 ~メアリ視点~
旧校舎の部室、その静謐な空間には、巨大な模型が、鈍い輝きを放ちながら鎮座している。
一年。その月日は、私たち『建築設計研究会』の在り方を決定的に変えた。かつては個々の情熱の寄せ集めに過ぎなかったこの場所は、今やユウの理想を核として、リーゼロッテの細かいフォロー、アルフォンス先輩の統率、カイルの献身、そして私とトマスの技術が織りなす、一つの完璧な建築群へと進化を遂げている。
私は、壁一面を占拠する大型の製図板に向かい、巨大な中央塔を支えるための複雑な骨組みの線を整理していた。すぐ横には、私の意図を完璧に汲み取ってくれるトマスが控え、私が次に必要とする図面や、使い分けの細かい定規、削りたての鉛筆を、言葉を交わさずとも最適なタイミングで差し出してくる。
「トマス、主塔の三階部分の断面図を。それから、硬めの鉛筆をちょうだい」
「はい、メアリさん。荷重の計算値は、僕が昨夜の実験結果に基づいて最新のものに更新しておきました。ここを少し厚くすれば、メアリさんの理想とするあの細い尖塔も、風に負けずに自立できます。でも、大丈夫ですか?さっきから少し呼吸が速いですよ?」
一年前、泥に汚れ震えていたあの少年とは別人のような、迷いのない言葉と洗練された手つき。トマスの指先が、図面を介して私の肌をかすめるたび、意識の深いところで火花が散る。
彼が私の体調を案じるように少しだけ身を寄せてくると、石粉の匂いと、作業で火照った彼の生々しい体温が、容赦なく私の鼻腔を突いてくる。私の指先が、ほんのわずかに震えてしまった。けれど、私はそれを表に出してはならない。私は、この研究会において誰よりも正確に”美”を追求する設計者でなければならないのだから。
やがて、トマスが新しく開発した補強材の強度を実証するため、アルフォンス先輩に呼ばれて大型模型の裏側へと移動した。ユウも『僕がライトを照らして支えるよ、トマス君!』と、少年のように楽しそうに彼らに付いていく。
部室の入り口近くに置かれた、目隠し代わりの大きな製図板の影に、私と、そしていつの間にか背後に音もなく立っていたリーゼロッテの二人だけが取り残された。
「ふふっ。メアリさん、ようやく少し落ち着いてお話しできますわね」
耳元で囁かれた、湿り気を帯びた艶やかな声。私は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、背筋を凍らせた。リーゼロッテの手には、いつの間にか二つのティーカップが握られている。彼女は優雅な所作で一つを私に差し出し、もう一方で、私が今しがた描き上げたばかりの図面を細い指先でなぞった。
「な、何よ。私は今、主塔の重さを再計算している最中なの。作業の邪魔をしないでくれる?リーゼロッテ、貴女だってこの塔を完成させる責任の一端を担っている部員でしょう」
「ええ、邪魔なんていたしませんわ。ただ、あまりに不格好な構造の歪みを見つけてしまったものですから。同じ部活動の仲間として、見過ごすわけにはいきませんでしょう?建築において、隠された歪みは、いつか全壊という最悪の結末を招くと、常日頃からユウ様が仰っておりますもの」
リーゼロッテは、私を製図板と自分の体の間に閉じ込めるようにして、ジリジリと距離を詰めてくる。模型の影に隠れ、作業に没頭している男性陣からは、死角となって私たちは見えない。ここは今、リーゼロッテが完全に支配する、逃げ場のない檻になってしまった。
「歪み……?私の引いた線に、何かミスがあるとでも言うの!?私は誰にも劣らない誇りを持ってこの線を引いているわ。不備なんて一箇所だって存在しないわよっ!」
「あら、計算にミスはありませんわ。数値の上では完璧です。けれど、この直線を見てごらんなさいな。貴女が引いたこの柱……、真っ直ぐではありませんよ。先ほどまでトマスさんが立っていた方向へ向かって、僅かに、ほんの僅かですけれど、吸い寄せられるように傾いていますわよ」
私は息を呑んだ。そんなはずはない。私は完璧に定規を固定し、呼吸を止めて、魂を削るようにして線を引いたはずだ。けれど、リーゼロッテが冷徹に指し示す先を凝視すると、確かにそこには、私の心の乱れがそのまま投影されたような、微かな迷いの跡が刻まれている。
無意識。
それは意識的な計算よりも遥かに残酷に、私の本音を図面の上に曝け出している。
「これは……、その、気温による材料の収縮を予測して、あえて遊びを作っただけよ。貴女には理解できない高等な技術なのよ」
「言い訳は見苦しいですわよ、メアリさん。貴方の指先、トマスさんが触れるたびに脈動が激しくなり、鉛筆を握る力が不安定になっていましたもの。トマスさんは、貴女にとって単なる部員の一人ではなくなってしまったようですわね?そうではありませんか?」
リーゼロッテの瞳が、私の瞳を至近距離で射抜くように覗き込む。彼女の唇が優雅な弧を描いている。
一年前、バド侯爵家を地獄の底へと突き落とした時と同じ、逃げ場のない微笑。その瞳に映る私は、あまりに無防備で、あまりに無様に映っていた。
「あ、貴女に何がわかるというのよ……!私はただ、彼の類稀なる才能を、最大限に引き出そうとしているだけで……!彼は、ユウが認めた人よ。私が仲良くするのは当然のことじゃない!」
「あら、お顔が真っ赤ですわよ。そんなに熱を帯びた顔で図面を引いていては、正確な美なんて構築できませんわ。認めなさいな。貴女の心の柱は、もう自分一人では自立できない。トマスさんという支えを失えば、音を立てて崩れてしまうほどに、彼に無意識に寄りかかっているのでしょう?どんな強固な石材よりも、彼の言葉一つが貴女の世界を揺るがしているようですわよ」
リーゼロッテは、私の震える手にそっと自分の手を重ねた。その温もりは、聖女のようでもあり、同時に私の逃げ道をすべて塞ぐ執行官のようでもあった。
模型の向こう側から、トマスの
「メアリさん、今のテストで、この構造ならいけると確信しました!早く報告したくて……!」
という晴れやかな声が聞こえてくる。その声を聞いた瞬間、私の心臓がまた一つ、自分でも制御できないほど大きく、不格好な音を立てて跳ねた。
「構造の不備は、早めに修正すべきですわね。無理に垂直を装って自分を騙すより、その傾きを前提にした新しい設計図を引きなさいな。貴女の恋という、どんな複雑な方程式を用いても答えが出せない、新しい方程式をね。それこそが、今の貴女が到達できる最高の美ではありませんの?」
リーゼロッテは満足げに身を引き、淹れたての紅茶を注いだカップを掲げ、琥珀色の液面を私に見せてきた。そこに映る私は、トマスの名を聞いただけで視線を泳がせ、自分の感情すら統制できなくなった、一人のひどく不器用で、熱に浮かされた少女だった。
リーゼロッテにすべてを暴かれ、私は認めざるを得なかった。
私の完璧だったはずの世界は、今、トマスという抗いようのない引力に引かれて、ゆっくりとだが決定的に傾き始めている。
そして、その傾きを不快に思う自分と、同時に、どうしようもない心地よさを感じている自分の感情が激しくせめぎ合う。
私は、リーゼロッテから差し出された紅茶を、火傷するような熱さのまま喉に流し込んだ。
その熱さが、トマスが戻ってきた時の私の頬の赤さを、少しでも誤魔化してくれることを願いながら。
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