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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第081話 揺れる垂直線 ~メアリ視点~

 あの日、バド侯爵家の嫡男がこの部室の平穏を土足で踏みにじり、結果、リーゼロッテの冷徹な一筆によって社会的に抹殺されてから、早いもので一年が経った。


 学園の旧校舎にある、私たち『建築設計研究会』の部室。そこに流れる空気は、以前よりもずっと濃密なまでの情熱を孕んでいる。

 部屋の中央にドンッと鎮座する巨大な模型は、私たちの理想を具現化した、一つの都市の雛形になればいいと思っている。


 トマスは、その模型の最も重要な土台部分にかじりつき、指先をわずかに震わせながら繊細な調整を続けている。

 一年前、泥に汚れ、顔や手を血に染めていた臆病な平民の少年。あの時、ユウに『君は僕たちの誇りだ』と言われ、泣きそうな顔をしていた彼は、今やこの場所で、巨大な模型の重さを一手に支える骨組みの担当者として、なくてはならない存在になっていた。


「トマス、主塔の計算をもう一度見せて。このままじゃ、私が昨日描き上げた空中庭園の重さを支えきれずに、全体が歪んでしまうわ。私の意匠を殺すつもりなの?」

 私が少し鋭い声で問いかけると、トマスは作業の手を止めず、断面図に目を落としたまま答えた。


「大丈夫です、メアリさん。その歪みは、夕方の気温変化で材料がわずかに縮むことを逆手に取った、計算済みの逃げなんですから。あと僅かばかり、この接合部を横に移動させて遊びを作れば、メアリさんが引いた曲線は、誰に支えられることもなく、自分自身の重さで完璧に高く自立するはずですよ」


 トマスの声は、かつての震えが嘘のように落ち着き、自信に満ちている。

 彼が覗き込む詳細な図面を、私は真横から黙って見つめる。一年前には解けなかった複雑な構造を、彼は今、呼吸をするように自然に解いてみせる。そのペン先が迷いなく線を引くたびに、私の描いた空想の城が、揺るぎない現実の建築物へと昇華されていくようだった。



 一年という月日は、彼の背を少し伸ばし、その指先に迷いのない職人の風格を刻んでいた。

 横顔を見ていると、彼は以前よりもずっと逞しく、大人びて見える。

 その首筋を流れる汗や、作業に没頭するあまり少し乱れた前髪。以前の私なら見過ごしていたはずの細部が、今は嫌というほど鮮明に私の網膜に焼き付いて離れない。

 ……いえ、私がそう見たいだけなのだろうか。


 ふとした瞬間、作業に没頭するトマスが、浮き出た額の汗を拭おうとして、汚れた袖を顔に近づけた。私は考えるより先に、スカートのポケットから清潔なハンカチを取り出し、彼の額にそっと押し当てていた。


「……メアリさん?」

 トマスが驚いたように、完全に動きを止める。至近距離で彼と目が合い、石粉の匂いと、彼の熱っぽい体温が伝わってくる。私の指先に触れる彼の肌が、思ったよりも熱いことに気づいて、心臓が跳ねた。


「動かないで。図面に汗が一滴でも落ちたら、線が滲んで台無しになるじゃない。貴方は、余計なことを考えずに、目の前の作業を完成させることだけを考えなさいと言ったはずよ」


 私は、自分でも驚くほど冷静で、それでいて少し刺のある声でそう告げた。

 一年前、泥だらけで傷ついていた彼のに冷却軟膏を塗っていた時と同じ、突き放すような、けれど彼を誰よりも高く評価しているからこその言葉。

 けれど、あの時とは決定的に違う何かが、私の胸の奥の中では、不規則なリズムで脈打っているのを感じる。


 ハンカチ越しに伝わる、彼の生々しい体温。

 一年前は『稀有な才能を持つ平民を保護すべきことは、貴族としての義務』だと言い聞かせていたこの感情が、最近では少しずつ、その定義を書き換えられようとしていた。

 彼がユウから『トマス君がいなければ、この塔は形にならない』と全幅の信頼を寄せられ、照れくさそうに、けれど誇らしげに目を輝かせるたび、私の胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚になるのだ。

 その輝きが私だけに向けられたものではないと分かっていても、彼の成功を一番近くで支えているのは私だという自負が、歪んだ熱となって私を焦がしているのだ。


(馬鹿馬鹿しい。私はヴァレンタイン家の娘。完璧な理論を組み上げることこそが私の生き甲斐で、恋だの愛だのといった、数値化できない不確かな事に時間を割く余裕なんてないはずなのよ!)


 それでも、トマスが新しい補強材の開発に成功し、真っ先に私の方を向いて

「できました!これで、メアリさんの理想を形にできます!」

 と、子供のような無邪気な笑顔で報告してくる瞬間、私は自分の頬が火照るのをどうしても抑えることができなかった。


「ありがとうございます、メアリさん。いつも、僕の至らないところを補っていただいて。メアリさんの手は、いつも正確ですよね」

 トマスが少しだけ顔を赤らめて、はにかむように微笑んでくる。

 その真っ直ぐで不器用な瞳を直視できず、私は無造作にハンカチを引っ込めて背を向けた。


「勘違いしないでちょうだい。貴方の作る土台が崩れれば、私の描いた芸術はただのゴミの山に成り下がる。私が完璧でいるために、貴方を手伝っているだけ。それ以上の意味なんて存在しないのよっ!」


 突き放すように言い放って歩き出した私の視線の先には、最高級の茶葉で紅茶を淹れながら、すべてを見透かしたような優雅な笑みを浮かべるリーゼロッテが立っていた。

 彼女の『特派監察官』としての鋭い瞳は、かつてバド侯爵家の傲慢を完膚なきまでに断罪した時と同じ、逃げ場のない精度で、私の心の揺らぎをも正確に測量しているようにも見える。


「ふふ、メアリさん。お茶が入りましたわ。トマスさんも、少しその凝り固まった頭を休めなさいな。あまり一点ばかりを注視しすぎては、全体の景観が持つ美しさを見失ってしまいますわよ」


 リーゼロッテの含みのある言葉に、私は手に持っていた三角定規をわずかに震わせた。彼女が淹れる紅茶はいつも完璧で、今の私の乱れた心を見透かしているようで恐ろしく感じる。


 

 一年前、ユウを守るために一つの家門を一夜で瓦解させた彼女の苛烈なまでの守護と、今この部室に漂う、まどろむような穏やかな空気。

 この部屋を包む沈黙は、もはや静寂ではなく、信頼という名の強固な構造物である。

 ユウを支え、トマスを守り、アルフォンス先輩が全体を統括し、カイルが不要な雑音を排除する。そう、私たちのこの幸せな時間は、一つの巨大な建築物のように積み上げられているのだ。


 ユウは、アルフォンス先輩と塔の頂上に冠する装飾の意匠について、少年のように楽しそうに議論を戦わせている。

 ユウが語る理想は、時に無謀で、時に美しい。けれど、それを形にできるのは、ここにいる私たちだけなのだという自負が、私をこの場所に留まらせる。

 その平穏な光景を、壊さないように、大切に守りたいと思いながら、私はリーゼロッテから差し出されたティーカップを受け取り、その中身をじっと見つめた。


 カップの中に満ちた紅茶の、琥珀色に透き通った液体。

 そこに鏡のように映り込む自分の顔は、いつも冷静に、美は構造に従うと説く理知的なメアリ・ヴァレンタインではなかった。

 わずかな指先の震えが液面に伝わり、そこに映る私の輪郭を、情けなく、不格好に歪ませていった。

 

 私は大きく息を吐き出し、わざと熱い紅茶を喉に流し込んだ。

 喉を通る熱が、胸の奥で燻る名前のない感情を強引に押し流してくれることを願いながら。

 けれど、温かさが体に広がるほどに、トマスの真剣な眼差しや、触れた額の熱さがより鮮明に思い出されてしまう。


 一年後の今、この建築設計研究会には、大きな設計変更が必要なようだ。

 ”恋心”という、どんな複雑な方程式を用いても答えを弾き出せない、甘く、そしてあまりに不確かな重みを組み込んだ新しい設計図が……。

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