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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第080話 ヴァルゼイド公爵家特派監察官

 予定よりも数時間早く王宮での公務を切り上げ、リーゼロッテと共に旧校舎へと戻ってきた俺が目にしたのは、異様な沈黙と重苦しい緊張感に支配された部室の光景だった。


 部屋の中央では、トマスが模型の台座にかじりつくようにして、震える手で精密なヘラを操っていた。床にぶちまけられ、砂混じりとなった特殊結合剤。俺たちが心待ちにしていた素材を一片も無駄にすまいと、彼は必死に調合を繰り返している。

 その制服は泥だらけになり、顔には痛々しい痣や血が滲んでいるが、彼は瞬きすら忘れた様子で、硬化速度を計測する魔導計を凝視し続けていた。


 その隣では、メアリが手際よくトマスの手当てを行っている。トマスは顔に走る激痛に歯を食いしばり、その度に顔を歪めていたが、その視線だけは一度も模型の接合部から逸らそうとしなかった。


 「トマス、動かないでよ」

 「すみません、メアリさん。でも今、この充填を止めると結合剤の強度が落ちるんです。皆さんの努力を、僕の不手際で無駄にはできないんです!」

 「分かってるわよ。だから、あなたの作業を妨げないように手当をしているのよ。あなたは、その眼前の結合剤を完成させることだけを考えなさい」


 メアリはトマスのわずかな震えさえも計算に入れているかのように、作業を邪魔しない絶妙なタイミングで軟膏を塗り込んでいる。それは単なる身分差による介抱などではないようだった。

 その横では、アルフォンス先輩がトマスの作業環境を死守すべく、精密な湿度管理の術式を編み上げ続け、カイルはトマスの足元に散った破片を無言で拾い集めていた。


「……みんな、どうしたんだ?その、トマス君、服が泥だらけじゃないか。顔の怪我もひどい……。一体何があったんだ」


俺が歩み寄ると、作業の補助をしていたカイルが、こらえきれないといった様子で顔を上げた。


「……ユウ。予定より早かったな。いや、大したことじゃねえ。ただ、ゴミの撤去が必要になっただけだ」


 カイルの声は、押し殺した怒りで低く震えていた。実直で隠し事のできない彼は、廊下でトマスが受けた理不尽な仕打ちを、吐き出すように語ってくれた。

 バド侯爵家の嫡男たちが、トマスを不浄な平民と罵り、突き飛ばし、執拗に蹴り続けたこと。そして、この部室の全員が完成を待ち望んでいた、あの結合剤の素材を地面に叩きつけたことを。


「……そう、だったんだね」


 俺は静かに、トマスの隣へと歩み寄った。そして、一心不乱に手を動かし続けるトマスの、その小さな背中にそっと手を添えた。


 「ごめんね、トマス君。僕たちのために、そんなに怖い思いをさせて。でもね、君がこうして命がけで守ろうとしてくれているこの素材は、僕にとっても、ここにいる皆にとっても、何にも代えがたい宝物なんだ。君がいなければ、僕たちの描く理想の建築は決して形にならない。君は、僕たち全員の誇りだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、極限まで張り詰めていたトマスの肩から、わずかに力が抜けたのが分かった。


 だが、俺の背後で、リーゼロッテが纏う空気が一変した。それは温度という概念を置き去りにした、絶対零度の殺気へと急降下していくようだ。


 「あら……。わたくしたちの目の前で、野良犬が吠えていたのですか?」


 リーゼロッテの声は、どこまでも穏やかで、優雅ですらあった。しかし、それゆえに聞き手に死を予感させるほど冷酷な響きを帯びている。彼女の脳裏には、かつて王宮の謁見の間で、共に暮らすヴァルゼイド公爵家の面々が見守る中、国王から授けられたあの全権の重みが鮮明に蘇っていたはずだ。


――――

『リーゼロッテ。貴公の働き、主を支え抜いた忠誠は、王宮騎士にも勝るものだ。よって貴公には「ヴァルゼイド公爵家特派監察官」の地位を授ける。これより貴公は、公爵家の代理人として王家が認める公的な発言権を持ち、ユウ・ヴァルゼイドの身辺を脅かす不届き者を監視、あるいは処断する全権を法的に保障される。何者も、特派監察官である貴公の執行を妨げることは許されぬ』

――――


 フェルトン子爵の娘でありながら、公爵家に住まい、この俺を守るためにのみ振るわれる絶対的な公権。

 リーゼロッテは冷たい手つきで、公爵家の代理人としての証である銀の刻印を卓上に置き、さらさらと迷いなくペンを走らせている。それは単なる抗議文ではない。王家が公認した監察官による、法的な処断の執行通告である。


 「バド侯爵家は、少しばかり自分たちのお立場を履き違えておられるようですもの。わたくしが、特派監察官として直々に正して差し上げましょう」



――――

 その夜、バド侯爵邸。

 当主であるバド侯爵が優雅な晩酌を楽しんでいるところへ、学園から戻ったばかりの嫡男が、興奮気味に部屋に入ってきた。


 「父上、聞いてください。今日、学園で例の平民を教育してやりましたよ。あんな汚らわしい者がヴァルゼイドの威光を傘に着て大きな顔をしているのが許せなくて、持って歩いていたゴミをぶちまけてやりました!」


 息子が鼻高々に語るその報告を聞いた瞬間、バド侯爵の手からグラスが落ち、床で粉々に砕けた。


 「おい、貴様、今、何をしたと言った?相手は誰だ?まさか、あの公爵家のご子息がいらっしゃる建築設計研究会の部員か?」


 「ああ、ベルシュタインのアルフォンスたちもいましたが、侯爵家である僕に気圧されて一言も言い返せませんでしたよ!やはり身分というものを教え込んでやるのは気分がいい……」


 「この、大馬鹿者がッ!!」

 侯爵の怒声が邸宅を震わせた。


 彼らの背後には、ヴァルゼイド公爵家に住まい、公爵家子息の傍らで王家公認の処断権を振るうことができる、リーゼロッテ・フェルトンが控えていることを、当主である父だけが理解していた。


 「お前が手を出したのは、ヴァルゼイドの代理人が聖域と定めた場所なんだぞ!あの監察官がペンを一転がしすれば、我が侯爵家の土台など一夜で瓦解するのだ!お前は、自分の家を、親を、一時のつまらぬ見栄で取り壊したのだぞ!」



 翌朝、バド侯爵の絶望は現実のものとなった。

 彼のもとに届けられたのは、特派監察官の名で叩きつけられた『処断の執行通告書』であった。


 そこには一切の慈悲の文面はなく、バド侯爵家の嫡男が公爵家の安寧を乱し、ひいては公爵家が保護する研究活動を侵害した罪状が、逃げ場のないほど理路整然と並べられている。

 ヴァルゼイド公爵家の絶対的な威厳と、王家公認の処断権を背負ったその宣告を前に、バド侯爵家が抗う術など皆無である。


 侯爵は、家門の存続と引き換えに、即座に、かつ冷酷な決断を下した。

 泣き叫び許しを乞う嫡男を、その日のうちに廃嫡。家系図からその名を永久に抹消し、法的に存在しない人間とした。しかも、人里離れた北方の極寒の修道院へ終身監禁する手続きを、自らの手で完了させたのであった。



 放課後。


 「ユウ様、見てください!再精製した結合剤、以前より弾性率が上がりました。怪我の功名、というやつですかね」


 トマスが少し照れくさそうに、しかし誇らしげに目を輝かせると、俺まで嬉しくなって微笑み返した。

 「凄いよ、トマス君!これなら、僕が考えていた空中の架構が完璧に固定できる。さあ、最高の続きをやろう!」



 昨日、傲慢な態度でトマスをいたぶっていた侯爵嫡男や取り巻き連中が、今、どうなっているのかは知らない。知る必要もない。


 ヴァルゼイドの庭を荒らす不純物は、もはやこの世界に存在することすら許されないのだ。

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