第079話 平民と貴族
ユウとリーゼロッテが、学園の公式行事への出席のために不在となったその日の放課後。
商家の子であるトマスは、胸元に抱えた木箱を落とさないよう、必死に足早に歩いていた。中に入っているのは、彼が実家の商会の伝手を使い、帝国の裏市場まで手を伸ばしてようやく手に入れた高純度の特殊結合剤だ。これがあれば、アルフォンス先輩が頭を抱えていた接合部の強度不足を、理論上ゼロに近づけることができる筈だ。
(これを見せれば、きっと皆、驚くだろうな……!)
そう期待に胸を膨らませていたトマスの足が、不意に止まった。行く手を阻むように立ちはだかったのは、見覚えのある制服を着た三人の男子生徒だった。彼らは『建築設計研究会』の面接にて、アルフォンスから論理の欠片もない無能と切り捨てられ、落ちた者たちだった。
「おやおや、どこへ行くんだい?ヴァルゼイドの腰巾着、平民のトマス君」
先頭に立つ男、バド侯爵の嫡男が、歪んだ笑みを浮かべてトマスの肩を突いた。トマスはよろめき、壁に背中を打ち付けた。
「あ……これは、研究会で使う大切な資材なんです。すみませんが、どいてください」
「資材?ほう、ドブネズミがゴミを拾ってきたというわけか。平民が三家の嫡子方やヴァルゼイド家のユウ様に近づくなど、この帝国の秩序に対する冒涜だと思わないのか?貴様のような不純物が隣に座っているだけで、あの高貴な部室は腐るんだよ!」
バドの取り巻きたちが、トマスの腕を掴んでねじり上げた。苦痛に顔を歪めるトマスの腕から、木箱が奪い取られる。
「返してください!それはアルフォンス先輩が待っているものなんです!」
「アルフォンス先輩だと?貴様のような下賤な者が、ベルシュタインの名を軽々しく呼ぶな!」
一方的に蹴られるが、その素材の入っている木箱だけは胸に抱え込んでいた。
「なぁ、大事そうに抱えてるのはなんだ?おい、取り上げろ!」
バドは持っていた木箱を取り上げられ、低呼応しようとすると顔面を蹴りつけられてしまった。
「ほらよっと」
木箱が地面に叩きつけられる。
パリンという硬質な音が響き、木箱の隙間から粘土状の結合剤が廊下の石床にぶちまけられる。トマスの血の気が引く。それは、彼が数週間かけて東奔西走し、何とかして手に入れた結晶だったのだ。
「あぁ……なんてこと……。あれを揃えるのに、どれだけの人とお金が……」
「ははは!ドブには泥がお似合いだ。ほうら、床を舐めて掃除しろよ。それが平民に相応しい役割だろう?」
バドが嘲笑い、床に散った結合剤を靴の先で踏みにじろうとした、その時だった。
「その足を少しでも動かしてみろ。貴様の家門ごと、歴史から抹消してやるぞ!」
廊下の温度が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
バドたちが弾かれたように振り返ると、そこには三人の怪物が立っていた。
中心に立つアルフォンス・ベルシュタインは、眼鏡の奥の瞳を、蛇のような冷徹さで細めている。彼の周囲では、怒りに呼応するように微細な魔力の圧が起き、ミシミシと壁の石材が鳴る音が聞こえ始める。一学年上の先輩として、彼は常に冷静沈着であろうとするが、今の彼は誰の目にも明らかな怒りを滲ませている。
「ア、アルフォンス先輩……!これは、その、この平民が不敬な振る舞いを――」
「黙れ!無能!」
アルフォンスの静かな一喝が、物理的な衝撃となってバドの喉を塞いだ。
アルフォンスは一歩、また一歩と歩み寄る。
「貴様、自分の立場を理解しているのか?我がベルシュタインは侯爵家、カイルのロドリックも伯爵家、メアリのヴァレンタインは子爵家だ。だが、我らが、どこの家門と血を分かつ誓いを交わしているか忘れたわけではあるまいな?」
アルフォンスの言葉に、バドの顔が急速に青ざめていく。
帝国の重鎮中の重鎮、ヴァルゼイド公爵家。王弟である。
その絶対的な信を得ている三家は、たとえ相手が侯爵家であろうと、その気になれば一夜で領地の設計図さえ塗り替える力を持っている。
「その素材が、どれほどの弾性率を要求し、私の設計を実現するためにどれだけの価値を持つものか……。脳にクソしか詰まっていない貴様らには、一生かかっても理解できまい。トマスが用意したそれは、貴様らのような愚か者の一生を積み上げても購えぬ至宝なのだぞ」
「アルフォンス先輩の言う通りだぜ」
カイル・ロドリックが愛用の大剣を肩に担ぎ、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「おい、バド。お前、自分が俺より爵位が上だからって、俺に勝てると思ってんのか?悪いが、俺の後方にはヴァルゼイド家がいるんだよ。お前の家なんて、俺が本気で噛みつけば、公爵様たちは笑って見逃してくださるに決まってるぜ。トマスがどれだけ辛い交渉をして、俺の設計の堅牢さを確保するための素材を揃えてきたか。それを台無しにした罪、そのツラを床に叩きつけても足りねえなぁ。なぁ、かかって来いよ!」
カイルの暴力的なまでの圧力に、貴族の子息たちは悲鳴すら上げられない。
そして最後の一人、メアリ・ヴァレンタインが、扇子で口元を隠しながら、氷のような微笑を浮かべて歩み寄った。
「あら……わたくしたちが精魂込めて作り上げている物を、このような不浄な振る舞いで汚してくださるなんて。格下の子爵家と侮ってくださっても結構ですわよ。ですが、ヴァルゼイド公爵家を通じて、貴方の家を社交界から本日中に抹消して差し上げます。お父様がどのような顔をして破産宣告を受けるか、楽しみにしていてちょうだいな?」
三家の嫡子たちから放たれる、絶望的な圧力。
バドたちは、自分たちがゴミと切り捨てた平民のトマスが、帝国最強の公爵家の懐にいるこの三家にとって、いかに代わりの効かない守るべき仲間であるかを思い知らされる。
「ひ、ひぃぃ……っ!」
バドたちは這いずりながら、脱兎のごとく逃げ出していった。その惨めな背中を一瞥もせず、アルフォンス先輩は床に膝をつき、呆然としているトマスの前に立った。
「逃げ足だけは早いな。おい、トマス。素材の六割はまだ回収可能だ。何を呆けている。少しでも早く部室に戻って、調合を開始するぞ。今日の設計予定を狂わせるな!」
アルフォンスは同情の言葉一つかけない。だが、その手は床に散った結合剤を、緻密な魔術で丁寧に、一欠片も残さず集めている。カイルもまた、トマスの肩を無造作に叩き、彼を無理やり助け起こす。
「立て、トマス!お前がいなきゃ、あの頑固なアルフォンス先輩の図面を形にできる奴がいねえんだ。次は俺もついてってやる。あんな雑魚ども、まとめて捻じ伏せてやるよ」
「……あ、ありがとうございます、皆さん。……すみません、素材を汚してしまって」
トマスが服の汚れを払いながら頭を下げると、メアリが優雅に歩き出した。
「謝る暇があるなら、新しい外装を考えなさい。トマス、貴方の持ってきた素材、汚れてもなお独特の光沢を放っていましたわね。さあ、行くわよ。ユウとリーゼロッテが戻る前に、最高の結果を用意しておかなければ」
尊敬する先輩、そして頼もしい仲間たちの背中を追い、トマスは再び前を向くことができた。
家柄も、身分も、爵位の上下さえも。
ヴァルゼイドの影の下、この研究会という狂気的な熱量の中では、それらは何の意味も持たない。ただ、真理に挑む意志の強さだけが、彼らを対等な技術屋として繋ぎ止めていた。
「はい!今すぐ、準備に取り掛かります!」
夕陽が差し込む廊下を、設計狂たちが力強く駆け抜けていった。
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