第073話 恩義という名の楔
祝宴の喧騒は、夜が更けるにつれて熱を帯び、どこか狂気じみた陶酔へと変わっていった。
王宮の主賓舞踏会場からテラスへと滑り込む夜風は、火照った肌には心地よいが、室内の甘ったるい香料と高価な酒、そして権力者たちの熱気が混ざり合った独特の匂いを完全に拭い去ることはできない。
俺は手にしたグラスの中で揺れる黄金色の液体を眺め、独り、夜空に消えていく花火の残光を追っていた。
そこへ、複数の足音が近づいてくる。
重厚な軍靴の響き、軽やかな絹の擦れる音、そして落ち着いた歩調。
それは訓練された戦士の鋭さと、高貴な教育を受けた者の優雅さを併せ持つ、聞き慣れたリズムだった。
「……ここにいたのか、ユウ」
背後からかけられた声に振り向くと、そこにはアルフォンス先輩、カイル、そしてメアリの三人が立っていた。
つい数時間前、客室で家族と再会し、一族の破滅という悪夢から解放された彼らの瞳には、絶望の淵から生還した者特有の生気が宿っているように見えた。
「三人とも、こんなところで油を売っていていいの?会場では、君たちと知己を得ようと、目ざとい高位貴族たちが列をなして待ち構えていたはずだけど?」
俺がいつものように少し揶揄を込めて笑いかけると、彼らは顔を見合わせ、そして誰からともなく深く深く俺に向かって頭を下げた。
それは、学園の友人としての気安い挨拶ではない。明確な臣下が主君へ捧げる、絶対的な敬意と忠誠を孕んだ儀礼の形だった。
彼らの背中が描く曲線は、自らの意思でその身を俺に差し出したことを証明している。
「ヴァルゼイド君、改めて感謝させてくれ。先ほど客室で、あの厳格な父上が君に対してあんなにも深く頭を下げ、震える声で感謝を述べる姿を、俺は生まれて初めて見た」
アルフォンス先輩が、喉の奥から絞り出すような声で言った。
彼はゆっくりと顔を上げると、迷いのない瞳で俺を見据えた。
「君が陛下へ奏上したあの言葉、そして父上の肩を叩いて謝意を示した公爵閣下の振る舞い。それらすべてが、ベルシュタインという枯れかけた木に、二度と枯れることのない生命の息吹を与えてくれたんだ。俺の槍、俺の未来、そしてベルシュタインの名に連なるすべては、これより君の歩む道を切り拓くために捧げると誓おう」
続いて、カイルが瞳を鋭く光らせながら一歩前へ出た。
「俺はアルフォンス先輩のように情緒的なことは言わない。だが、ユウが陛下に奏上した新設流路の設計思想と、それに付随する利権の分配案。あれは、もはや神業に近いと言わざるを得ない」
ロドリック伯爵家を蝕んでいた火の車の窮状を、俺が事前に調べ上げ、最も急所となる利権を陛下に認めさせたこと。それが彼らにとってどれほどの救いになったか、カイルの引き締まった表情が雄弁に物語っていた。
彼は深く息を吐き、まるで敗北を認めるかのように手を挙げ、首を振る。
「ロドリック家は実務を重んじる。そして実力主義を貫く我が一族の歴史において、これほどまでに緻密で、完璧な勝利の布石を打てる者を、俺は君以上に知らない。ユウ、君がこの国をどう作り変えようとしているのか、その最前列で俺に兵站を担わせてくれ。君を支える揺るぎなき基盤として、俺の生涯を賭けよう」
最後に、メアリ・ヴァレンタインが静かに歩み寄ってきた。
彼女の目元は少し赤くなっていたが、その表情は驚くほど晴れやかだった。彼女は俺の言葉を待たずに、そっと俺の手に、自身の震える手を重ねた。
「ユウ。父上も、先ほど涙を流しながら私に言ってきたわ。これからは、ヴァルゼイド家とユウ様のために命を使いなさい、と。私、家門を乗っ取ろうとする者たちの道具になることが、死ぬよりも怖かった。でも、今、あなたのためにこの技術を使えると思うと、誇らしくて、嬉しくて堪らないのよ。あなたのためなら、たとえ、人の道から外れるような魔導具の開発であってもやり遂げてみせるわ」
彼女たちの言葉は、一点の曇りもない善意と、救われた喜びからくる純粋な忠誠に満ちていた。
俺は、彼らを助けた。それは揺るぎない事実だ。
だが、その動機は彼らが信じるような高潔な慈愛などではない。
ロドリックの軍事力、ベルシュタインの武威、そしてヴァレンタインの精緻な魔導技術。それらをヴァルゼイドの傘下に、つまり俺の個人資産として完璧な形で囲い込むための計算の結果に過ぎないからである。
彼らの純粋な瞳が、俺を射抜く。
彼らが俺を信じれば信じるほど、俺という人間を聖者や名君という枠組みに固定していく。
この絆は、外から見れば美しい友情の結晶だろう。だが俺にとっては、一度結べば二度と解くことのできない、呪いにも似た強固な枷である。
俺が彼らを裏切れば、彼らの人生は再び崩壊する。つまり、俺はもう、彼らを裏切る自由さえ失い、彼ら自身の善意によって逃げ道を完全に塞がれたのと同意だ。
「大袈裟だよ。僕はただ、友人が困っているのを放っておけなかっただけだよ」
俺が吐いたその嘘は、あまりにも優しく、彼らの心に深く深く染み渡っていくようだった。
三人が感極まった表情で再び頭を下げる。その光景を、テラスの入り口で静かに見守っている影があった。
三人が去った後、夜闇から溶け出すようにして父様が姿を現した。
「素晴らしい光景だとは思わないか、ユウ」
父様は、まるで自慢の傑作を眺める芸術家のような、陶酔と慈愛の入り混じった眼差しで俺を見つめていた。
「彼らは一生、お前のために尽くすだろう。ユウ、お前は無意識のうちに、支配の本質を理解しているようだ。恩義によって縛られた忠誠こそが、恐怖や脅迫で縛るよりも遥かに強く、永く、裏切りの余地を排除することをな」
父様は俺の側に立つと、その大きな手で俺の頭を優しく撫でた。
その手のひらの熱が、俺の思考を麻痺させるように伝わってくる。
「お前を支える良き友、お前を敬う忠実な臣下、そしてお前を愛する私。ユウ、お前の周りは今、完璧な幸福で満たされている。これ以上の楽園が、この世界のどこにあるというのかな?」
父様の言葉に、俺は反論する術を持たなかった。
視界の先では、祝宴の明かりが黄金の海のように揺れている。
そして最後に、リーゼロッテが俺の前に跪いた。
「陛下から授かった監察権、『不届き者を処断する全権』……。ユウ様、これは私が貴方の側に在ることが、王家や公爵家にとっても当然の事実として認められていた証なのですね。貴方の身辺を脅かす不浄は、たとえ名門であろうと、私が残らず掃除してみせましょう」
常に俺の側にいるリーゼロッテ、仲の良い友人たち、慈悲深い父、輝かしい名声。
それらすべてが組み合わさり、俺を逃がさないための黄金の檻の格子が、今、最後の一本まで完璧に嵌められたと理解した。
俺は、震える指先を隠すようにグラスを握り直し、ただ静かに会場を見渡したのだった。
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