第066話 地下の深淵と沈みゆく王都
孤児院の建て替えから数週間。王都では、ヴァルゼイド公爵家の公子であるユウ様が、魔法を使わずに、壊れかけていた孤児院を驚くほど頑丈に直したという話が広まり始めていた。
そんな折、俺の元へ、ある有力な伯爵家から不可解な相談が舞い込んできた。
父様は、書斎に俺を呼び寄せると、困惑した顔で一枚の手紙を差し出した 学園での演習対決以来、俺の周囲は喧騒に包まれていた。
名だたる貴族家から届けられる釣書の山、そして廊下を通るたびに差し出される無数の扇にラブレターの数々。それらすべてを筆頭助手として一手に引き受け、峻厳な態度で撥ね退けてくれたのが、フェルトン子爵家の令嬢リーゼロッテだった。
彼女が強引に既成事実化した『地下水路網の再編計画』は、周囲からは俺を独占するための口実のように囁かれていたが、俺にとっては別の意味を持っていた。
実地調査の準備を進めていた演習室に、意外な人物が姿を現したのは出発の直前だった。
「ヴァルゼイド君。……忙しいところ、すまない」
現れたのは、かつて演習で俺と競ったアルフォンス・ベルシュタイン先輩だった。かつての傲岸不遜な態度は鳴りを潜め、その表情には一人の技術者としての真摯な熱が宿っている。
「先輩、どういったご用件で?」
「君が地下水路の調査を計画していると聞いた。……頼む、私をその調査に加えてはもらえないだろうか。あの演習以来、僕は自らの無知を悟った。君の提唱する論理を、その実地で学びたいのだ。足手まといにはならぬと誓う。どうか連れて行ってくれないだろうか?」
リーゼロッテが不快げに眉を寄せようとしたが、俺はそれを手で制した。地下水路の構造は複雑怪奇だ。学園でも指折りの実力者であるアルフォンス先輩の魔導制御は、調査の助けになるはずだ。
「先輩、分かりました。ただ、僕の指示には絶対に従っていただきますよ」
「ああ、承知した。感謝する」
こうして一行にアルフォンス先輩を加え、俺たちは重い鉄の扉を開け、王都の最深部へと足を踏み入れた。
「ユウ様、足元にお気をつけください。ここは魔導灯の光も吸い込まれるほど、闇が深い場所のようですから」
暗い石造りの階段を下りながら、リーゼロッテが俺の服の袖をぎゅっと掴んで囁いた。
俺たちは現在、王都中央広場の地下深く、一般の立ち入りが厳重に禁じられた旧世代水路・第一区画に足を踏み入れている。
周囲を囲むのは、巨大な石積みの円蓋構造だ。
同行するカイルは大剣の柄に手をかけ、鋭い眼光で暗闇を警戒し、メアリは魔導書を片手に、空気中の魔素濃度を常に測定している。
「それにしても、酷い有様だな。これが王都の心臓部だなんて、冗談にもならないぜ」
カイルが顔を顰めて呟いた。
壁面からは不気味な青白い苔が発光し、鼻を突くような湿った土と、澱んだ魔力の臭いが充満しているようだった。
だが、俺の視線が釘付けになったのは、その不気味さではなく、石積みの歪みである。
「メアリ、今の地点の垂直荷重を測定してくれ。リーゼロッテ、アルフォンス先輩、壁面の魔力補強がどれだけ薄くなっているか、透視魔術と感知で確認をお願いできますか」
俺の指示に、全員が素早く動く。
アルフォンス先輩は真剣な面持ちで壁面に手を当て、繊細な手つきで魔力を流し込んでいく。
俺は持参した測定具を床に設置し、土質の検体を慎重に採取した。
指先に触れる土の感触、そして壁を這う亀裂の走り方。それらが、俺の脳内で一つの不吉な図面を形作っていく。
「馬鹿な……。ヴァルゼイド君、壁の内側の術式が完全に剥落している。これではただの古い石積みだ。これほど大規模な構造が、なぜ自重を支えられているのかすら分からん」
アルフォンス先輩が驚愕の声をあげた。
「垂直荷重、すでに限界を大幅に超えているわ!これ、いつ崩れてもおかしくないわよ!」
メアリが叫ぶ。
「ああ。想像以上に崩壊の予兆は深刻だ。今この瞬間にも、限界を迎えようとしている」
俺は測定計の数値を指し示した。
「見てくれ。この床の亀裂、単なる経年劣化じゃない。地盤が不均等に沈み込む、沈下が起き始めているようだ。建物の重みに地中が耐えきれず、今まさに歪み続けている。僕の感覚からすれば、いつこの天井が落ちてきても不思議じゃない」
俺は壁面にそっと手を触れた。冷たい石の感触の裏側に、積み重なる重圧に耐えかねた都市の悲鳴が聞こえるようだった。
「ユウ様、それって……どういうことですの?」
リーゼロッテが不安げに顔を近づけてくる。
狭く暗い通路、青白い光の中、彼女との距離が物理的に近づく。
彼女の吐息が俺の頬に触れるほどの近さだったが、今の俺にはそれを意識する余裕すらなかった。
「全員、落ち着いて聞いてくれるかい。王都の地下を流れる地下水の脈動が変わっている。かつての魔導師たちが、力技で水脈を捻じ曲げた報いだな。そのせいで地層の砂が流出して、地下に巨大な空洞ができ始めている」
俺は地面を強く踏みつけた。
「このままだと、非常に近い将来……、いや、いつ起きてもおかしくないほど、王都の中心部は自重に耐えきれなくなり、地下へと崩落しそうだ。つまり、この華やかな王都は、丸ごと沈む可能性は高い」
沈黙が流れた。天井から滴る水滴の音だけが、不気味に響き渡る。
「……沈む? 王都が?」
カイルの声が震えていた。
「そんな馬鹿な。ここは五百年以上続いてきた場所なんだぞ」
「五百年続いたからこそ、限界が来てるんだよ。魔力による一時しのぎの補強が、自然の摂理という名の構造疲労に負けたんだ。今まさに瓦解しかけている」
アルフォンス先輩が、食い入るように俺の測定データを見つめ、声を震わせた。
「ヴァルゼイド君、私には今まで、この壁は永遠に強固なものに見えていた。だが、君の示す数値と論理を通してみれば、確かにこの石積みは悲鳴を上げている。天変地異の予兆などではない。これは、先代たちが犯してきた構造上の過ちなのか……」
俺はリーゼロッテの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「リーゼロッテ、君が筆頭助手を名乗り出て、この計画を立ち上げてくれなかったら、手遅れになっていたかもしれないな。これはもう、学園の演習や令嬢を追い払うための遊びじゃない。国家の存亡を賭けた、史上最大の改修事業になるぞ」
リーゼロッテは一瞬、目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。
彼女は俺の腕を強く掴み、寄り添うように立ち上がる。
「分かりました、ユウ様。貴方がそう仰るなら、それは疑いようのない真実なのでしょう。公爵様にお伝えし、魔導資産をこの調査に注ぎ込みむ必要があるでしょう。貴方の図面があれば、この都を救えますわね?」
「ああ。僕が、沈まない都に設計し直してみせる。僕なら直せる!」
地上に戻り、王都の美しい夜景を見下ろした時、俺は改めて身震いした。
この光り輝く街の真下で、巨大な砂時計の砂が最後の一粒になろうとしている。
「……ヴァルゼイド君。私は、君についていくことにするよ。この都を救うために必要な魔導制御が必要ならば、僕のすべてを動員するよ。これこそが、魔導師が真に果たすべき責任だと思う」
アルフォンス先輩が、泥に汚れた服も気にせず、深く頭を下げた。
「言葉だけじゃ信じないだろうね。だから、完璧な再現模型と、補強案を提示する。父様やゼノン兄様、サリア姉様の力も借りることになるだろう」
俺は夜風に吹かれながら、脳内で巨大な補強構造を組み立てていた。
地下深くに打ち込む魔導杭、地下水の流れを制御する流路改修、そして地盤を強化する硬化術式。
前世の技術と、この世界の魔導を融合させた、究極の土木事業。
「リーゼロッテ、明日から忙しくなるぞ。覚悟はいいか?」
「もちろんですわ、ユウ様。貴方の筆頭助手として、この国の土台を支えてみせます。……それに、二人きりの調査も、もっと必要ですわよね」
彼女はいたずらっぽく微笑んだが、その瞳には強い覚悟が宿っていた。
俺は一人、静かに王都の地面を見つめる。
かつての俺は、ただの建築家だった。だが今は、この世界の構造そのものを設計し直す権利と責任がある。
「見てろ!この都は、俺が絶対に落とさせない!」
学園での平和な日々は終わりを告げ、俺たちは歴史の分岐点に立たされていた。
リーゼロッテが俺の手を握り直し、俺もまたその温もりを力に変えて、夜の王都を歩き出した。
「ユウ。ラングレー伯爵からだ。彼の屋敷で、夜な夜な不気味な震動と異音が響いて、家族が怯えているらしい。既に何人もの祈祷師が招かれ、呪いや悪霊の類として除霊や浄化魔法を繰り返したが、一向に収まらないそうだ。伯爵はお前の話を聞き、建物の造りに問題があるのではないかと疑っている。もう、それだけが一縷の望みらしい」
「震動と音……。一度見に行った方がいいでしょうね」
俺はリーゼロッテを連れ、伯爵家の屋敷へと向かった。当然、俺達には公爵家の精鋭騎士が護衛としてついてきている。
迎えてくれたラングレー伯爵は、寝不足からか深い隈を作り、疲れ切った様子だった。
「公子ユウ様、よくぞお越しくださいました。ほらほら、今も聞こえるのです。壁の奥で、何かが唸っているような不気味な声が……」
案内された広間の中央では、数人の祈祷師たちが仰々しく杖を振り、香を焚き染めていた。そのリーダー格と思われる、長く白い髭を蓄えた老祈祷師が、俺の姿を見るなり眉をひそめた。
「これはこれは、公爵家の若君。このような呪われた場所へ、何の用ですかな?ここは今、我ら浄化の徒が、大地に深く根を張った地縛霊と対話をしている最中です。子供の遊び場ではありませんぞ。我らは命をかけているのですぞっ!」
「地縛霊ですか。具体的にどのようなお話をしているのですか?」
俺が努めて穏やかに問いかけると、老祈祷師は鼻で笑った。
「愚問ですな。この屋敷が震えるのは、霊が怒りに震えているからですな。壁の奥から響く唸り声は、この地に沈んだ者の怨嗟。魔法の理を知らぬ者には、この霊的な波動の意味など分かりますまい」
「そうですか。ですが、僕には別の原因があるように思えるんです。少し、調べさせてもらってもよろしいでしょうか」
俺がそう言って、屋敷の壁に右手を当てようとすると、別の若い祈祷師が割って入った。
「やめなさいっ!今、結界を張っているのです。素人がむやみに壁に触れれば、霊の怒りが貴方様にまで及ぶ。見てください。この部屋の隅にあるロウソクの火を。不自然に揺れているでしょう?これこそが、目に見えぬ力に空間が支配されている証なのです」
俺は彼が指差したロウソクの火をじっと見つめ、それから傍らのテーブルにあった水差しに目を止めた。
「確かに、火は揺れていますね。でも、それは空間が支配されているからではなく、単なる風のせいですよ。リーゼロッテ、その水差しとコップをここへ」
「はい、ユウ様」
リーゼロッテが手際よくコップに水を満たし、俺の前に差し出した。俺はそのコップを、震動が一番激しいと思われる床の中央にそっと置いた。
「皆さん、この水面を見てください。何度も、規則正しく波紋が広がっています。もし霊の怒りなら、もっと不規則で荒々しいはずです。これは、どこかで何かが規則正しく動いている証拠なんですよ」
「ふん、詭弁を!波紋など、我らの祈祷が空気を震わせている証に過ぎん。伯爵、このような若造のたわ言に耳を貸してはなりません!さて、これよりは上級魔石を用いた大規模な浄化が必要ですぞ」
焦り始めた祈祷師たちの言葉を背に、俺は伯爵へ向き直った。
「伯爵、半年前に裏庭に作った噴水ですが、その水の通り道は、この広間の地下を通っていませんか?」
「え、ええ。確かに、最短距離で繋ぐために地下を掘り進め、古い貯水槽の脇を通り抜けるように配管したはずですが……」
「それが原因です」
俺は断言した。
「祈祷師さん、あなたの言う通り、ロウソクの火は揺れています。でもそれは、地下を流れる大量の水が、古い貯水槽に残っていた空気を押し出し、壁の隙間から吹き出しているからなんです。その風が特定の空間で反響して、唸り声になっている。これを、共振現象と言います。大きな笛が鳴るのと同じ仕組みですよ」
「共振……?笛……?巫山戯るな!この歴史ある伯爵邸が笛だというのか!この侮辱、断じて許せん!」
老祈祷師が激昂し、杖を突き出すのだが、俺には、他人が伯爵邸に対して怒るのが理解できない。
その時、屋敷全体を『ズ、ズズ……』という、これまでで最も大きな地鳴りが襲った。
祈祷師たちは「霊の怒りだ!」と叫んで慌てて呪文を唱え始めたが、俺は冷静にリーゼロッテを見た。
「リーゼロッテ、今だ。裏庭の噴水の給水栓を完全に閉めてきて。それから、地下の点検口を大きく開けて、空気を逃がしてやってくれ」
「かしこまりました、ユウ様!」
リーゼロッテが弾かれたように部屋を飛び出していった。
祈祷師たちは必死に「鎮まれ、鎮まれ!」と壁に向かって香を投げつけていたが……。
数分後、ピタリと。
それまで屋敷を包んでいた不気味な震動と唸り声が、嘘のように消え去った。
静寂が広間を支配する。ロウソクの火は真っ直ぐに伸び、水面の波紋も消えて鏡のようになった。
「……止まった。……本当に、音が消えたぞ……」
伯爵が呆然と呟いた。俺は、杖を握ったまま固まっている老祈祷師に向かって言った。
「霊の怒りが静まったのではありません。ただ、原因となっていた水の流れを止めただけです。伯爵、浄化の儀式なんかはもう必要ありません。必要なのはお祈りではなく、水の通り道を少しずらすための、簡単な土木工事です」
祈祷師たちは顔を真っ赤にしたり、青くしたりして、言葉を失っていた。老祈祷師は震える手で杖を握り直し、絞り出すような声で言った。
「我らが何日もかけて解けなかった呪いを、ただの水路の問題だと言い切るのか。ヴァルゼイドの若君。貴方様は、この世界の神秘を、そんな無機質な理屈で塗りつぶすおつもりか!」
「理屈ではありませんし、神秘を否定するつもりもありません。でも、建物に起きる不都合には、必ず理由があります。僕はただ、建物の苦しんでいる場所を、正しく見つけてあげただけなんです」
その毅然とした態度に、伯爵は深く頷く。
彼は鋭い眼光を祈祷師たちに向けると、冷徹な声で告げた。
「もうよい。皆、今すぐこの館から立ち去るがいい。ユウ様が証明された通り、必要なのは呪文ではなく、正しき知恵であった。無駄な浄化を繰り返し、いたずらに私の家族を怯えさせ、あまつさえ高価な魔石を要求し続けた無能に、これ以上払う報酬はない。衛兵、この者たちを門の外へ!」
「は、伯爵!お待ちを!霊がいつ再燃するか……!」
縋り付こうとする祈祷師たちは、屋敷の衛兵たちによって引き立てられ、乱暴に広間から追い出されていった。遠ざかっていく老祈祷師の呪詛のような叫び声も、今の静かな屋敷の中ではひどく滑稽に響いた。
伯爵は俺の手を握りしめ、何度も感謝の言葉を口にした。
「ユウ様がいなければ、私は家を捨てるか、莫大な額を祈祷に払い続けるところでした。本当にありがとうございます」
俺は保育士だった頃、泣きやまない子供の背中をさすりながら、原因を一つずつ探っていた。オムツか、お腹か、それとも寂しいのか。建物も同じだ。震えているなら、何かが嫌だと言っている。
帰り際、馬車の中でリーゼロッテがポツリと言った。
「ユウ様。あの祈祷師の方々の顔、忘れられませんわ。きっと明日には、王都中の祈祷師や魔導士たちの間で、ユウ様の名前が悪魔のように恐れられることになるでしょうね」
「困ったな。僕はただ、安心して眠れる家を守りたいだけなんだけど」
この事件は、瞬く間に貴族たちの間で広まった。
――ユウ・ヴァルゼイドは、壁の向こう側を見通し、霊さえも理屈で追い出す――と。
そんな噂が独り歩きを始め、俺の元にはさらに難解な、そして時には不穏な依頼が舞い込むようになってしまったのだった。
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