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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第058話 公爵邸の図書室

 冬の透き通った空気が王都を包み、ヴァルゼイド公爵邸の庭園に薄っすらと霜が降りる季節になっていた。

 この世界の教育体系は、驚くほど厳格だ。十歳からの『初等教育』、十一歳からの『中等教育』。そして今、俺たちは十六歳という人生の大きな分岐点を目前に控えていた。


 専門教育課程への進学を懸けた筆記試験まで、残された期間はあと三か月。

 選りすぐりの生徒たちを(ふるい)にかけるこの試験は、多くの者にとって高く険しい壁として立ちはだかっている。



 事の始まりは、学園内の図書室での一幕だった。

 学園祭でのアスレチック制作を経て、俺を取り巻く空気は劇的に変化している。魔力を持たぬ身でありながら、前世の建築士としての設計思想を見せつけた俺の姿は、級友たちの目には頼もしい指導者として映っているようだった。


 放課後の図書室。俺がリーゼロッテに数学を教えていると、一人、また一人と教えを乞う者が集まってきた。


 「ユウ、ここの図形の面積を求める計算なんだけど、どうしても誤差が出てしまうんだ。ちょっと教えてくれないか?」


 真剣な面持ちで俺の肩を叩いたのは、同学年のカイルだ。


 「カイル、そこは複雑な公式を無理に当てはめるんじゃなくて、まずは数式をバラバラにして整理してみなよ。そうすれば、数式が組み合わさっていくよ。そうすれば、自ずと答えが見えてくるはずだよ」


 俺は空いている右手で、彼の紙の端に素早く図解と計算式を書き込んだ。

 試験科目の中でも、特に受験生を苦しめているのが数学だ。魔導の基礎となる図形問題や、力の流れを読み解くための方程式。

 だが、前世で佐々木優真として構造計算を叩き込まれてきた俺にとって、これらは高校レベルの範疇であり、特に悩むようなものではない。もともと数学は得意中の得意だったし、今の俺にとっては、答えがあらかじめ決まっているクイズにしか過ぎない。


 「すごいな……。こんなに簡単な解き方があったなんて」


 カイルの感嘆の声が切っ掛けだったのか、数日のうちに俺の周りには人だかりができるようになった。ついには司書から厳重な注意を受けるほどの人数に膨れ上がってしまい、俺は苦笑するしかなかった。


 「ユウ様、これでは学園での自習は無理ですわ。皆さんの熱気がすごすぎて、本を静かに読むこともできません」


 リーゼロッテの困り顔を見て、俺は一つの決断をした。


 「それなら、放課後は僕の家に来るかい?ヴァルゼイド公爵邸の図書室なら全員入っても余裕があるし、参考になる資料も揃っているから」


 この提案に、カイルやメアリを含むクラスメイトたちは大喜びだ。

 こうして、公爵邸での大規模な入試対策勉強会が幕を開けることとなった。



――――


 場所を移した公爵邸の図書室は、今やさながら戦場のような雰囲気に包まれている。


 「ユウ、こっちの関数も見てほしいの!私、専門課程では色彩の研究を深めたいのよ」


 メアリが山積みのノートを持って近寄ってくる。


 「いいよ、メアリ。これは一見複雑に見えるけど、基準となる点を見つければ、実は単純な動きをしているんだ。色の混ざり方も、ここの比率を守ればいいよ」


 俺は前世の知識をこの世界の用語に脳内変換し、噛み砕いて説明を続ける。

 その時、左手の『パサージュの鍵』が、俺の思考の明晰さに呼応するように微かな熱を帯びた。その影響か、俺の解説を聞く者たちの集中力は異常なほどに高まり、彼らは難問を次々と撃破していった。


 「おやおや、図書室がずいぶんと賑やかだと思えば、勉強会ですか」


 母様が、温かいお茶とお菓子をトレイに乗せて姿を現した。


 「母様。三か月後の試験に向けて、みんなで対策をしているんです。場所を提供してくださってありがとうございます」


 「まあ、素晴らしいわ。さぁ、皆さんも、公爵邸の自慢の茶菓子を召し上がってくださいな」


 母様の優雅な気遣いに、学生たちは恐縮しながらも、差し出された菓子を頬張る。

 自分たちの学びが公爵家にも温かく見守られている。それが、彼らの学習意欲をかき立てているようだった。


 「ユウ、俺も混ぜろ。数学なら得意だぞ!」


 そこへ、ゼノン兄様が颯爽と現れ、その後ろからサリア姉様がクスクスと笑いながら続く。


 「ゼノン、数学よりも剣術の特訓の方がお似合いでしょう?」


 「サリア、失礼な。俺だって学園では優秀な成績なんだぞ。ほら、ユウ。この複雑な図形の計算は俺が教えてやろう」


 「ありがとうございます、ゼノン兄様。でも、そこの計算はもう終わって、今は応用問題に入っています」


 「……えっ!?もうそこまで進んでたのか?」


 絶句する兄様を見て、俺は内心で冷や汗をかいた。どうやら俺の進めるペースは、この世界の標準的な秀才の域を遥かに超えていたらしい。


 「ユウは、なんだか、最初から答えを知っているかのようだわ」

 サリア姉様が感心したように俺を見つめる。


 「大げさですよ、姉様。僕はただ、数字が繋がっていくのが楽しいだけです」

 俺はそう言いながら、次の問題に挑む生徒たちの手元を覗き込んだ。

 かつての保育士時代、子供たちに数遊びを教えていた時の感覚が蘇る。理解できた瞬間の、パッと花が咲くような笑顔。今の友人たちの表情も、それと同じだった。



 勉強会は白熱し、外が暗くなるまで続いた。


 「じゃあな、ユウ!また明日、ここに集合だな!」


 カイルたちが元気に手を振って帰路につく。

 彼らを見送り、静かになった図書室でリーゼロッテと後片付けを始める。窓の外では、庭師の助手のミラが落ち葉を掃いていた。


 実は、ミラが隣国の潜入員であることは、母様や父様、そしてリーゼロッテにもすでに見抜かれているらしい。

 だが、彼女が俺の物語に涙し、自ら報告書を焼き捨てて以降、その殺気は完全に消え去ったという。今や彼女は、家族公認の(本人は俺には隠しているつもり)『影の守護者』として、誰よりも熱心に常に俺の安全を見守ってくれている。

 俺が彼女に与えた影響を尊重し、あえて正体を暴かず泳がせるという、実にヴァルゼイド家らしい過保護な判断の結果だろう。


 「ユウ様は、本当に人を惹きつける天才ですね。あのミラも、今やあんなに熱心にユウ様を見守っていますしね」

 リーゼロッテが微笑みながら庭の方をチラリと見た。


 「そうだね。ミラさんは仕事も早いし、何だか僕が外に出る時はいつも近くにいてくれる気がするんだ。親切な人だよね」


 俺は能天気に笑いながら答える。俺にとって彼女は、少し無口だが真面目な庭師の助手に過ぎないのだ。


 「うふふ、そういう欲のないところが、一番罪作りなのですよ。ユウ様、最後にもう一問だけ、この確率の問題を教えていただけますか?」


 「もちろん。これはね……」


 俺たちは再び机に向かい、ランプの灯りの下でペンを走らせた。

 十六歳から始まる専門教育。その新たな扉を開けるための試練。


 前世の知識という武器は、今や誰かを蹴落とすためではなく、仲間と共に高みを目指すためのものになっている。

 ユウ・ヴァルゼイドが描く人生の図面には、孤高の天才ではなく、多くの人々と手を繋ぎ合う温かな光景が描き込まれるのだ。

 そこには、当然、家族達も含まれる。家族の安寧こそが、俺の図面にはなくてはならないのだ。


 試験本番まで、あと九十日。

 俺たちの、そして俺自身の『国立魔導学園専門課程への挑戦』が、本格的に幕を上げた。

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