第057話 潜入者
ラングレー伯爵邸での騒動、そして親睦茶会。立て続けに巻き起こった旋風は、ユウ・ヴァルゼイドという少年の名を、王都の社交界だけでなく、帝国にも知れ渡り始めた。
私は今、ヴァルゼイド公爵邸の庭園で、剪定鋏を握っている。
北方に位置する軍事大国、ガルヴァニア帝国が送り込んだ潜入工作員。それが私の正体なのだ。
潜入任務は容易だった。庭師の助手という地味な立場は、邸宅の隅々を観察するのにこれ以上ない隠れ蓑になる。
目的はただ一つ。帝国の脅威となり得る『ユウ・ヴァルゼイドの知恵』の正体を探り、可能であればその身を奪取、最悪の場合は――抹殺すること。
(成人を境に異能を現した恐ろしい策士……か)
帝国情報部が私に叩き込んだユウ・ヴァルゼイドの分析結果を思い出す。
彼は、自らの異常な魔導建築の才能や、精霊祭で放たれた謎の衝撃を、王家や公爵家という巨大な権力の影に隠し続けてきた。己の目的のために家族の愛すらも計算に組み込み、周囲を欺き続ける、冷酷なまでに賢明な子供。それが、私に与えられた標的だった。
低木に身を潜め、私は窓越しにユウの自室を伺う。
(ヴァルゼイド家の次男……。一体、どれほど冷酷な瞳で、自分を愛する家族を駒のように見下ろしている?その無垢な顔の裏で、どれほど傲慢に人々を操っているのかしら)
私は幼少期から帝国の育成機関で、人殺しの道具として育てられた。愛や情けなどという感情は、とうの昔に切り捨てた。私が知る世界に、強大な力を持ちながら私欲なしに他人へ捧げる人間など絶対に存在しない。愛や情けは常に、誰かを支配し、利用するための毒でしかないのだから。
だが、その日、窓越しに見た光景は、私の予測を根底から裏切るものだった。
「ユウ、今日はそんなに根を詰めて図面を引かなくてもいいのよ。少しはお休みなさい」
母親である公爵夫人が、慈しみに満ちた手つきで少年の肩に手を置く。それに応える少年の声は、あまりに穏やかだった。
「母様、大丈夫です。この新しい橋を完成させれば、増水で孤立してしまう村の人たちが、安心して暮らせるようになりますから」
振り向いた少年の微笑み。その瞳に宿る純粋な瞳。
暗殺者として数多の修羅場を潜り抜けてきた私ですら、一瞬、息を呑んで気圧されてしまうほどの光を、その子は放っていた。
(何なの、これは。報告書にある『危険な支配者』とは、どうしても一致しないじゃないの)
少年が時折、何もない空中に左手を伸ばすような、奇妙な仕草を見せる。私には何も見えない。ただ、彼の周囲の空間が、陽炎のように微かに歪んでいるように感じられるだけだ。
――――
数日後、私に絶好の機会が訪れた。
庭園で、近隣の貴族や平民の子供たちを集めた小さな物語会が開かれることになったのだ。
私は木陰に潜み、指の間に毒針を忍ばせる。
兄のゼノンやの姉のサリアが周囲を警戒しているが、子供たちに囲まれて無防備になる瞬間こそが、唯一のチャンスだ。
だが、ユウが手際よく木枠の箱を設置し、自作の絵が描かれた厚紙を差し込んだ瞬間、庭の空気が、物理的な質量を持って一変した。
「みんな、お待たせ。今日は、空を飛ぶことを夢見た小さなドラゴンの子の物語をしようか」
響き渡る声。それは単なる朗読ではない。何かが、私の肌を震わせる。
「ドラゴン君は、自分の翼が小さいことを悲しんでいました。周りの大きなドラゴンたちは、力強く空を飛んでいきます。でも、ドラゴン君は何度羽ばたいても、地面から浮き上がることができません。みんななら、こんな時、どうしてあげるかな?」
「頑張れ!」「大丈夫だよ!」
集まった子供たちが、身を乗り出して純粋な声を上げる。そこには貴族や平民の垣根は存在しない。子供たち全員が物語に引き込まれている。
私は、激しい動揺に襲われていた。私自身も物語に引き込まれていたからだった。
毒針を投じるべき指先が、石のように固まって動かない。
ユウが紙を横へ引き抜くたびに、描かれた絵がまるで命を吹き込まれたかのように動き出す。信じられないほど緻密な絵。
「ドラゴン君はある日、崖っぷちで泣いている一人の少女に出会いました。少女は独りぼっちで、誰からも助けてもらえず、寒さに震えていました。ドラゴン君は思いました。自分は空を飛べないけれど、この小さな羽で、彼女を包んで温めてあげることならできるかもしれない……って」
物語を紡ぐ彼の声が、冷え切った私の心にまで届いてくる。
物語の少女は、まるで自分のようじゃないか……。
気づけば、私の視界は涙で滲んでいた。
今まで、ずっと奪うことが正解だと教えられてきた。
強い者が弱い者から搾取し、利用価値のない者はゴミのように捨てる。
それが、私の世界のすべてだった。
(守りたい……という、想い……)
私はそれを、弱さだと、呪いだと、断じてきた。今まで、そう信じてきた。
なのに、この少年はなぜ、これほどまでに誰かの幸せのためにその力を使えるのか。
指先から力が抜け、毒針が音もなく地面に落ちた。ユウが紙を一枚めくるたびに、私の暗殺者としての矜持が、薄皮を剥ぐように剥がれ落ちていく。
物語が終わる頃、ユウが不意に、こちらを向いた。
私が隠れている、その木陰を。
「庭師さん。君も、もしよかったらこっちにおいで」
心臓が跳ね上がる。正体がバレたのか、と全身に緊張が走った。
「母様が用意してくれたお菓子が、まだ残っているよ。仕事の合間の休憩は大事だよ」
向けられたのは、誰よりも柔らかな微笑みだった。
そこには敵意も、疑念も、微塵も存在しない。
ただ、独りで震えている迷子を見つけた時のような、飾らない優しさがそこにあった。
彼にとって、私は『少し疲れた顔をした、一人の若い女性』に過ぎないのだ。
だが、その無自覚な光が、私の魂を根底から打ち砕いてしまった。
その日の夜。
私は公爵邸を離れた森の中で、帝国への報告書を焼き払っていた。
(……馬鹿ね、私は。本当に馬鹿だわ)
燃える報告書を前にして、自嘲気味に笑ってしまった。
帝国を裏切った。もう二度と戻ることは叶わない。裏切りが知れれば、私を消すために、あるいはあの少年を殺すために、次なる暗殺者が送り込まれるだろう。
「……それなら、私が守る」
私は、夜の静寂に誓った。
ユウが語ったドラゴンのように、私もこの小さな羽で、あの太陽のような少年を守り抜こう。
彼の影になり、降りかかる火の粉をすべて闇に葬る守護者になろう。
公爵邸の窓の外。
私は誰よりも鋭い目で、主君となるユウの平和な日常を守るべく、影の中から目を光らせる。
誰も死なない、誰も泣かない。誰も嘆かない。
ユウ・ヴァルゼイドが歩くその先に、新しい時代の幕が開くのだ。
その影の中に、私の居場所は、確かにあった。
やっと見つけた私だけの居場所を。
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