第052話 夜の東屋
成人の儀という人生の大きな節目を終え、王族や貴賓たちが去った後の公爵邸は、それまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。冬の凍てつく夜気が窓を叩くが、父の書斎で交わされた熱い告白の余韻は、今も邸内に静かに漂っている。俺は独り、月明かりが差し込む中庭の回廊を歩いていた。冷たい空気が高揚した頭を心地よく冷やしてくれる。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、そこにはリーゼロッテがいた。その手には、夜風で冷えた体を案じてか、厚手のショールが携えられていた。
「ユウ様、このような夜更けに。お疲れではございませんか」
「ああ、少し風に当たりたくてね。リーゼロッテ、君も今日は大変な一日だっただろう」
「いいえ。私はただ、ユウ様のお側にいて、その御姿を見守らせていただくだけで、これ以上の幸福はございませんもの」
彼女は手際よく俺の肩にショールをかけると、慈しむような微笑みを浮かべた。その瞳は、書斎で俺が明かした驚愕の真実を知った後も、変わらぬ親愛と深い信頼を湛えている。
俺たちは誘われるように、冬の薔薇が眠る東屋へと足を向けた。石造りのベンチに腰を下ろすと、俺は隣の席を指した。彼女は、俺の言葉に従ってその柔らかな裾を揺らして隣に座った。
「リーゼロッテ、書斎での話を聞いて、どう思った?正直、怖くはなかったかい。君がこれまで信じてきた僕が、実は遠い異世界の魂を持つ者だったなんて」
俺の問いに、彼女はゆっくりと首を振った。
「いいえ。お話を伺いながら、私はむしろ、すべての合点がいったのでございます。幼い頃の貴方様が、時折遠くを見つめて物憂げな表情をされていた理由も、誰も知らぬはずの理を語られた理由も。そして、誰に対しても分け隔てなく向けられる、あの海のように深い慈しみも。すべては、貴方様が気高く、お優しい魂を磨き続けてこられた証なのだと、確信いたしました」
彼女の声は、夜の静寂に溶け込むほどに清らかだった。
「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。実はね、家族に話したことは、あちらの世界での僕の人生の、ほんの一部に過ぎないんだ。僕は確かに建設現場で働いていたけれど、その後に飛び込んだ保育士という仕事が、僕の魂にとってどれほど大きな意味を持っていたか。あの子たちの笑顔が、僕にとってどれほどの救いだったか」
俺は視線を夜空に向けた。そこには、前世で見た星空とは異なる星座が輝いている。けれど、魂に刻まれた記憶は、今も鮮明に色づいている。
「保育士という仕事はね、ただ子供を預かるだけじゃない。彼らの小さな心の揺れを汲み取り、未来という真っさらな地図を共に描く仕事なんだよ。火災のあの日、瓦礫を突き上げた左腕は、熱くて、痛くて、千切れるかと思った。けれど、僕の心にあったのは恐怖じゃなかった。あの子たちの未来だけは、ここで断ち切らせてはいけない。その一心だったんだ」
リーゼロッテは、俺の存在しない左腕があるはずの場所に、そっと自分の手を添えた。実体のない光の残像が、彼女の掌を通じて温かな拍動を伝えている。
「ユウ様は、かつての世界でも、そしてこの世界でも、守るべき者のために命を燃やしてこられたのですね。その左腕の欠損は、私にとっては誰よりも誇り高い証に見えるのでございます」
「僕はね、リーゼロッテ。君の中に、あの子たちの面影を見ていたのかもしれない。君が僕を支えてくれたように、二度と誰かが大切なものを失わずに済むような、そんな強くて優しい場所を造りたかったんだ」
言葉にすることで、長年胸の奥に澱んでいた感情が、さらさらと砂のように流れていく。俺は前世で死を選んだわけではない。けれど、死の淵で後悔はしていなかった。ただ一つ、自分が救った子供たちがその後どう生きたのか、それだけが心残りだった。
「僕は保育士としては半人前だったかもしれない。けれど、パサージュという存在が、僕にこの『パサージュの鍵』を託してくれたのは、きっと、諦めるなと言われた気がしたんだ。守り抜いた左腕の続きを、この世界で全うしろとね」
「左腕の続き……。それは、貴方様がこれから築かれる未来そのものでございますね」
リーゼロッテの瞳に、ひとしずくの涙が浮かんだ。それは悲しみではなく、俺の壮絶な覚悟に触れたことへの、震えるような共感の証だろう。
「ああ。父様も母様も、そして陛下も受け入れてくれた。これからはもう、隠す必要はない。僕は僕の知識をすべて使い、このヴァルゼイドを、誰もが安心して笑える国にする。リーゼロッテ、君には、僕が佐々木優真であったことの証人でいてほしい。ユウ・ヴァルゼイドとして生きる僕の隣で、僕の魂の根底にある、あの小さな保育園の記憶を、共に大切にしてほしいんだ」
俺が彼女の手を握りしめると、彼女は真っ直ぐに俺の瞳を見つめ返した。
「謹んで、お受けいたします。公爵様やエレイン様、ゼノン様やサリア様も、きっと同じ想いでございましょう。貴方様が優真様であった記憶も、今ここにいらっしゃるユウ様としての想いも、この命ある限り、私がすべてお守りいたします。ユウ様の魂が歩んでこられた全ての道程に敬意と愛を捧げます」
彼女の丁寧でありながらも確固たる言葉に、主従を超えた深い結びつきを感じた。リーゼロッテは、俺が何を明かそうと、どのような異端の力を持っていようと、俺という存在そのものを肯定してくれている。その事実が、どれほど俺の心を支えているか。
「リーゼロッテ、君がいてくれて本当に良かった。君がいなければ、僕は自分の正体に押しつぶされていたかもしれない」
「それは私の台詞にございます。貴方様が私に新しい世界を見せてくださった。あの大橋を渡る風の心地よさも、人々の歓声も、すべては貴方様がその腕で手繰り寄せた未来にございましょう。たとえ何があろうと、私は貴方様の半身として、その歩みを支え続けます」
彼女の柔らかな言葉が、冬の夜風を春のそよ風のように変えていく。
俺はふと、自分が前世で教えていた歌を口ずさんだ。それは、子供たちが明日の再会を約束する、単純で温かい歌だ。異世界の旋律が、公爵邸の庭園に静かに響く。言葉の意味は通じなくとも、その旋律に宿る情愛は、リーゼロッテに真っ直ぐに伝わっているようだった。
「優しい歌ですね。まるで陽だまりの中にいるような……」
「うん。あちらの世界の、希望の歌なんだ。リーゼロッテ、いつか僕がこの国に学校や子供たちが集まる施設を造ったら、君にも手伝ってほしい。そこを世界で一番安全な場所にしたいんだ」
「ええ、喜んで。ユウ様の描く地図に、私の居場所をくださるのなら、どこへでもお供いたしますわ。建設現場で泥にまみれたユウ様の手も、子供たちを抱き上げたその心も、すべて私が愛おしんでみせます」
夜が更けていくにつれ、俺たちの会話は前世の他愛もない思い出から、この世界で叶えたい夢へと移り変わっていった。物理学を用いた新しい街灯、冬でも温かい石造りの家、魔法と科学が融合した新しい交通網。語れば語るほど、夢は膨らみ、光の腕は青白く、それでいて力強い輝きを放つ。
「ユウ様、冷え込んできました。そろそろ、お部屋へ戻りましょうか。明日は朝から公爵様とお打ち合わせがあると伺っております」
「ああ、そうだね。父様にはだいぶ心配をかけたから、これからはしっかり働かないと。リーゼロッテ、今日は本当にありがとう」
「もったいないお言葉です。それでは、参りましょうか」
立ち上がり、歩き始めたリーゼロッテの背中を見つめながら、俺は改めて誓った。この欠損した左腕が、この世界では最強の盾となり最高の知恵となる。もう瓦礫に押しつぶされる子供はいない。俺が造るすべての建造物は、あの日の火災から逃がした子供たちの未来へと繋がっているのだ。
回廊を戻る俺たちの影は、月光に照らされて一つに重なり、明日への確かな足取りを刻んでいた。成人の儀を経て、俺は本当の意味で自分の過去を抱きしめ、この地で生きる意味を見出した。左肩に宿るパサージュの鍵が、カチリと音を立てて、新しい時代の扉を開く音が聞こえたような気がした。
部屋の前まで来ると、リーゼロッテは優しく微笑み、扉を開けた。
「おやすみなさいませ、ユウ様。素晴らしい夢を」
「おやすみ、リーゼロッテ。また明日」
「ええ、また明日」
当たり前のようなその挨拶が、どれほど贅沢で尊いものか。俺はそれを、誰よりも知っている。
扉が閉まる音と共に、俺は深い安らぎに包まれ、泥のように深い眠りへと落ちていった。
夢の中に現れたのは、あの日助けた五人の子供たちが、太陽の下で元気に駆け回る、眩しいばかりの未来の光景だった。それを見守る俺の左腕は、光ではなく、柔らかな温もりを持って彼らの背中を支えていた。
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