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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第040話 綻びゆく純白の執着

 セレシア・カスティールが引き連れた私兵団の、暴力的な軍靴の響きが夜の帳の向こうへと消えていく。

 学園の中庭に残されたのは、彼女が放った狂おしいまでの魔力の残滓と、不自然なほどに静まり返った夜の重苦しい沈黙だけだった。先ほどまで空間を切り裂いていた殺気は、今は冷たい霧へと形を変え、湿り気を帯びて俺たちの肌にまとわりつく。


 俺の隣で、リーゼロッテがようやく肺に溜まっていた熱い呼気を吐き出した。俺を繋ぎ止めていた彼女の指先が、わずかに緩む。だが、その掌が帯びた震えは、嵐が去った後の安堵などではなく、次なる災厄を予感した生存本能の警鐘のように思えた。


「……終わった、のでしょうか」

「いいえ。これは一度、彼女が引いただけのこと。本当の嵐は、これからだと思うわね」


 絞り出すような彼女の問いに、サリア姉様が答えた。その手には魔導杖が握られており、彼女の周囲にはまだ、不可視の殺気が渦を巻いている。

 姉様の視線は、カスティールの軍勢が消えた暗闇の奥を、射抜くように見据えていた。

 ゼノン兄様もまた、中庭に点在するカスティール家特有の白い魔力の灯火。その残滓を忌々しげに一瞥し、俺たちの元へと歩み寄ってきた。兄様の重厚な靴音が石畳を叩くたび、乱れていた周囲の魔力が強制的に秩序を取り戻していく。だが、その瞳に宿る懸念までは、拭い去れてはいなかった。


「ユウ、今の……。カスティールの秘宝で知られる『支配の銀鎖』の波動を、お前はどうやって逸らした?」


 兄様の鋭い眼光が、俺の瞳の奥を暴こうと射抜いてくる。魔力を持たぬはずの俺が、公爵令嬢の絶対的な拘束術式を、消失によって無効化した。その現象は、兄様にとって、あまりにも異質な、世界の法則を無視した現象として映ったのだろう。


「わからないんだ、兄様。ただ、彼女の執着があまりに重たくて……。絶対に触れたくない、自分の領域を侵されたくないと強く願った瞬間に、身体がふっと軽くなったような気がしたんだ」


 俺はわずかに視線を伏せ、極めて自然な体裁で「無自覚な拒絶」を装った。

 まさか、左腕に宿る『パサージュの鍵(・・・)』を回したなどとは、夢にも思われまい。


 発動した権能――『世界律の偽装ワールド・オーバーレイ』。

 それは、周囲の認識と物理的法則の隙間に、一瞬だけ『ユウ・ヴァルゼイドはここに存在しない』という偽りの真実を割り込ませる力だ。

 セレシアの放った銀鎖は、確かに俺を捉え、その魂を縛り上げようとした。だが、物理的な接触の直前、俺という対象がこの世界の座標から消失したため、鎖は空を切り、標的を失った因果は霧散した。


 この絶対的なパサージュの鍵こそが、魔力を持たぬ俺が、怪物たちの跋扈するこの世界を生き抜くための唯一の武器。そして、今はまだ、ヴァルゼイドの血族にさえ共有してはならない、俺だけの孤独なる権能である。


「……ふむ。ヴァルゼイドの血が、絶体絶命の淵で未知の拒絶を見せたということか。魔力測定器を粉砕したあの『無』の力が、防御に回ったと考えるのが妥当か」


 兄様は納得のいかない様子ながらも、それ以上の追及はしなかった。今の俺は、魔力を持たぬ代わりに魔力を拒絶するという特異な性質があると思われている。それをどう解釈するかは、周囲の勝手な想像力に委ねればいい。




 俺たちは中庭を後にし、学園の敷地内に構えられたヴァルゼイド家の別邸へと戻った。

 ここは父様が俺のために用意させた、学園の喧騒から物理的に隔離された場所だ。高い石塀と強力な結界に守られたこの別邸こそが、セレシアの干渉を拒むはずの要塞だった。しかし、今夜の彼女はそれすらも、カスティール家の私兵という、他国の法さえ無視した暴力的な数で押し通そうとした。その事実は、彼女の妄執がもはや、貴族社会の最低限のルールさえも踏み越え始めていることを示していた。


 リビングに入ると、リーゼロッテが慣れた手つきでハーブティーを淹れ始めた。だが、茶器の触れ合う繊細な音が、今夜は妙に尖って聞こえる。彼女の瞳には、セレシアという巨大な、そして救いようのない狂気に真っ向から立ち向かったことへの、隠しきれない動揺が(おり)のように沈んでいるように見える。


「ユウ様……先ほど、セレシア様が掲げたネックレス。あれはカスティール家に伝わる禁忌の魔道具『支配の銀鎖』に間違いありません。触れた者の魔力系統を強制的に書き換え、術者の意思に従わせる呪い。あれこそ、人格を消し去るための鎖なのですね」


 彼女が淹れてくれた温かい茶を啜りながら、俺は自分の左腕のパサージュを意識する。


「リーゼロッテ。セレシアは言った。精霊祭で必ず僕を手に入れる、と。彼女の言う計画が、ただの暴力的な連れ去りだとは思えない。もっと逃げ場のない網を張るつもりだと思う」


「ええ、ユウ様。三日後の精霊祭の夜、学園を囲む古代の結界は、大気中の精霊を循環させるために一時的にその門を開放します。彼女はその一瞬の隙を狙って、学園全体の仕組みを、カスティール家の色に染め変えるつもりでしょう。そうなれば、たとえゼノン様やサリア様がいらしても、空間そのものが彼女の支配下に落ちてしまいます」


 「そこまでさせはしないさ」


 窓際で、外の闇を監視していたゼノン兄様が冷徹に遮った。兄様の背中は、カスティール側のいかなる接近も許さないという鋼の意志を体現している。


「父様は、リーゼロッテに『ユウの心をなだめ、事態を収めろ』と命じた。サリア、お前も聞いているだろう。これはただの警護命令じゃない。リーゼロッテが、セレシアの『歪んだ信仰』を上書きするほどの、真実の絆を示せという意味だ。それができなければ、ヴァルゼイドはカスティールを完全に排除する口実を失う」


 兄様の鋭い視線が、リーゼロッテを射抜く。彼女は息を呑み、そして俺の手元を見つめた。

 父様、ガルド・ヴァルゼイド。あの覇王は、最初からこの結末を、少女たちの情念が激突するこの光景を予見していたのだ。


 俺という存在を巡る、二人の少女の意志の激突。

 セレシアの()()という名の愛。

 リーゼロッテの()()という名の絆。

 どちらがこの学園の、そして俺の隣に立つのにふさわしい正解なのか。父様は、精霊祭という舞台を用意し、そこで俺を囲む因果を選り分けようとしている。


 だが、父様。貴方は一つだけ計算を間違えている。


 俺は、誰にも選ばれない。俺が、この世界の進むべき道を俺自身で選ぶのだ。

 セレシアの妄執も、父様の深謀遠慮も、すべてを『パサージュの鍵』で丁寧に解体し、俺の望む形に作り変えてやる。


「ユウ様。私は……私は、セレシア様のように強くはありません。魔力も、家柄も、彼女には遠く及びません。彼女が白鳥だというのなら、私はまだ、土にまみれた種でしかありません。ですが……」


 リーゼロッテが、俺の膝の上にそっと手を重ねた。

 彼女の掌は小さく、まだ震えている。だが、その瞳からは、先ほどまでの怯えが完全に消え去っていた。そこにあるのは、静かな、けれど決して折れることのない、ヴァルゼイドの風土で鍛え上げられた強靭な光だった。


「ユウ様を人形として愛でようとする彼女に、負けるわけにはいきません。私にとってのユウ様は、共に泥にまみれ、共に花を育てる、世界でたった一人の大切な……、私の光なのですから」


 彼女の言葉が、部屋の空気を優しく、けれど鉛のように重厚に変えていく。

 俺は、彼女の指先に自分の指を絡め、その熱を確かめた。


 セレシア・カスティール。君の愛が、世界を自分色に塗り替えるための独善だというのなら、俺は君の認識そのものを塗り替えてあげよう。君が信じている完璧な支配という虚構を、音もなく崩壊させてやる。

 誰も知らない、俺だけの鍵の音と共に。


「三日後だね。リーゼロッテ、君の力を貸してほしい。僕たちの場所を、僕たちのやり方で守り抜くために」


 俺の言葉に、リーゼロッテは深く、決意を込めて頷いた。

 背後でサリア姉様が満足げに唇を吊り上げ、ゼノン兄様が剣の柄を静かに叩いた。


 窓の外では、夜明けを告げる前の最も深い闇が、別邸を包み込んでいる。

 静寂の中で、カスティール家の私兵たちが放つ白い魔力の揺らぎが、遠くの方で見え隠れしていた。

 だが、俺の胸の中では、次なる鍵が回るための静かな熱量が、確実に高まり始めていた。


 精霊祭。それは、祝祭の名を借りた、カスティールとヴァルゼイド、誠に勝手ながら俺とセレシアの存在を賭けた最終決戦。


 三日後、この学園に吹き荒れるのは、誰の意志による風か。

 俺は、リーゼロッテの手の温もりを感じながら、まだ見ぬ祝祭の惨劇と、その先にある平穏を、冷徹な思考で考え始めていた。

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