第039話 前夜の波紋
静まり返った深夜の国立魔導学園。
普段なら若き魔導士たちの希望を象徴するように明かりの絶えない学生寮の窓も、今は不気味なほどに沈黙を守っていた。
夜の闇を裂いて校舎を囲むカスティール公爵家の私兵団による、一方的かつ暴力的な支配。
その威圧的な軍靴の響きは、学び舎の空気を硝煙と鉄の冷たさで染め変えてしまっていた。
本来ならば、父様の権限ですぐにでも俺を屋敷へ連れ戻し、外界と遮断された安全な地下室にでも匿うことができたはずだ。
けれど、父様はあえてそれをしなかった。
俺は窓の外で蠢く白い影を見つめながら、背後に静かに潜む確かな気配を感じた。
父様が俺の護衛として付けてくれた、ゼノン兄様とサリア姉様だ。
「カスティール側のやり方は、ちょっと強引すぎるわね。中庭にいるあの兵士たちの様子、ただの警備には見えないわ」
サリア姉様が月明かりの下で鋭い眼光を放ち、眼下を覗きながら不機嫌そうに呟く。
「ああ。精霊祭を無理やり利用して、学園全体を自分たちの思い通りにするつもりだろう。セレシア様が言っていたお屋敷での管理というのは、ユウを外の世界から完全に引き離すことらしい」
ゼノン兄様は冷静沈着に状況を確認し、手元の地図に淡々と印を付けていく。
「父様は、どうして僕を帰らせてくれないんだろう。ここにいたら、セレシアの思うツボじゃないか」
俺の問いに、ゼノン兄様が短く答えた。
「公爵家同士の正面衝突を避けるため、というのは建前だ。父様は、ユウが自らの意志で、ここが自分の居場所だと世界に示し、セレシア様の妄執を跳ね除ける姿を望んでおられる。一度逃げれば、彼女の執着は一生お前を追い続けるからな」
彼らはいつも俺の影に潜み、俺に牙を剥く不埒な輩を人知れず追い払ってくれていた。
けれど今回の相手は他国の、文字通りわがままを形にしたような公爵令嬢だ。
俺を傷つけるためではなく、自らの欲望のままに手に入れたいという独善的な理由で動いているのが、余計に質の悪さを際立たせている。
「父様からは、リーゼロッテをしっかり助けるように言われている。セレシア様が勝手なことをし始めたら、リーゼロッテがユウの心をなだめて、事態を収める。それが一番の解決策だ」
ゼノン兄様の言葉に、サリア姉様が心配そうに問い返す。
「わかっているわ。でも、あのリーゼロッテにできるかしら。セレシアの執着心は普通じゃないわよ」
セレシアは幼少期に父様に命を救われてから、俺たちの家を絶対的な神格として盲信している。
その歪んだ信仰心は、いかなる論理も倫理も通じないほどに強固な、一種の病理と化していた。
「やらせるしかないさ。リーゼロッテはそのために父様に選ばれたのだから」
部屋の中に、張り詰めた糸のような緊張感が漂う。
窓の外にはカスティール家を象徴する白いテントが軍列を成し、不気味な魔力の灯火が学園を侵食するように包み込んでいた。
「ユウ様、準備ができました。少しお背中に触れてもいいでしょうか」
リーゼロッテが静謐な声で言った。
彼女が行っていた準備というのは、父様から託されていた特別な護身用の香油と、俺の精神を安定させるための精神集中の儀式だ。
彼女は、セレシアが放つであろう苛烈な威圧感から俺を護るため、自らの意識を極限まで研ぎ澄ませてくれていた。
「ああ、いいよ。リーゼロッテ、手が震えているよ。無理はしなくていいんだ」
俺が振り返ると、彼女は力強く首を振った。
「いいえ、大丈夫です。公爵様も、エレイン様も、私に期待してくださっています。何より、あんな自分勝手な女に、ユウ様を渡すなんて絶対に嫌なのです」
リーゼロッテの手が、俺の肩にそっと置かれる。
彼女の指先から伝わる温もりが背中を通じ、ざわついていた俺の意識は不思議と凪いでいった。
それはセレシアのように相手を縛り付ける冷徹な鎖ではなく、俺の隣に寄り添い、共に歩むための柔らかな絆のように感じられた。
「ゼノン様とサリア様からも、報告が届いています。今夜、セレシア様が何かを仕掛けてくるはずです。私たちは一歩も引かずに、ここで彼女を迎え撃ちましょう」
「セレシアは、本当にそこまでやるつもりなのかな。父様も、それを知っていて黙っているんだね」
俺の冷めた呟きに、リーゼロッテは凛とした表情で応えた。
「公爵様は、ユウ様が私と一緒にこの状況を跳ね除けるのを待っておられます。ここで彼女を屈服させ、学園の平和を取り戻すこと。それができれば、カスティール家もこれ以上手出しはできません。屋敷に閉じこもるのではなく、『この学園をあなたの聖域に塗り替えてしまいなさい』。それが公爵様からの伝言です」
「相変わらず、無茶を言う人だ」
俺は少し自嘲気味に笑って、立ち上がった。
「行こう、リーゼロッテ。俺たちの場所を、あんなわがままな人に奪わせるわけにはいかない」
俺たちは静まり返った廊下を抜け、学園の中庭へと向かった。
ヴァルゼイド家の威信を背負い、正面から堂々と対峙するためだ。
広場の中央には、一人の少女が立っていた。
銀色の髪を夜風になびかせたセレシアだ。
月光を浴びるその姿は、一見すれば絵画のような美しさだが、その眼窩に宿る光は常軌を逸した熱を帯びている。
「あら、逃げ出さずに会いに来てくれるなんて。やはり私の用意した聖域が待ちきれなかったのかしら」
セレシアの声は、水晶のように透き通っているが、芯まで凍りつくような冷気が宿っている。
彼女が指先をかざすと、周囲の空気が瞬時に凝固したかのように重苦しく変貌した。
「セレシア様、いい加減にしてください。今すぐ兵士たちを引かせてください」
リーゼロッテが俺の前に立ち、毅然と言い放つ。
「関係ないわ。ユウ様、貴方もそう思いませんか。この世界は貴方にとって寂しい場所だったはず。でも、もう大丈夫。私の愛で貴方を守ってあげるわ」
セレシアの手が、ゆっくりと、しかし確実に俺の方へ伸びてくる。
その時、暗闇からゼノン兄様とサリア姉様が姿を現した。
「そこまでだ、お嬢さん。ここはヴァルゼイドの領内だ」
ゼノン兄様が鋭利な刃物のような視線を向けると、周囲の空気が爆発せんばかりに張り詰めた。
けれどセレシアは余裕の笑みを崩さない。
「ふふ、邪魔者が来たわね。でも無駄よ。私の計画は、もう始まっているのだから」
彼女が冷酷に合図を送ると、周囲を包囲していた兵士たちが一斉に動き出し、まばゆい魔力の光を放つ灯火を掲げた。
圧倒的なまでの数の暴力によって、俺たちは完全に包囲された。
「ユウ様、私の後ろへ!」
リーゼロッテが悲鳴に近い声を上げ、俺を護る盾になろうとする。
「ユウ様、見て。これが私の愛よ。貴方を縛る嫌な思い出を、全部消してあげる」
セレシアは片手に銀色のネックレスを俺の方へと掲げる。
その顔は、誰の言葉も理屈も届かない狂乱の域にいた。
リーゼロッテは歯を食いしばり、俺の手を壊れるほどに強く握りしめている。
セレシアから放たれた鋭いプレッシャーが、物理的な衝撃となって押し寄せる。
危ない、そう直感した瞬間、俺は自ら一歩前へと踏み出した。
「もういいよ、リーゼロッテ。俺も戦うよ」
「ですが、ユウ様!」
「信じて。君が隣にいてくれるなら、俺は誰にも負けない」
俺は胸の奥底で、パサージュの鍵を回す。
その瞬間、世界から一切の音が消失し、景色がほんの一瞬だけ反転するような奇妙な感覚に包まれた。
発動したパサージュの鍵ひとつは、世界律の偽装という特異権能だ。
この力は『認識の置換』を司る。
それは、周囲の認識と物理的法則の隙間に、一瞬だけ『ユウ・ヴァルゼイドはここに存在しない』という偽りの真実を割り込ませる力だ。
セレシアの放つ魔力も、兵士たちの重層的な包囲網も、俺の意識にとっては単なる存在しない景色として処理され、一切の接触を許さない。
「……っ、何をしたの?私の『支配の銀鎖』が、すり抜けていく……?」
「支配の銀鎖だと!?ユウを隷属させる気だったのか!」
ゼノン兄様が思わず、大声を出すのだが、セレシアはぼうぜんとした顔になっていた。
そして……、セレシアの顔から余裕の笑みが消え失せた。
彼女の目には、俺が何を行ったのか理解できていない。
ただ、必勝を確信していた拘束の魔道具の波動が虚空へと虚しく消え去り、目の前の俺という存在が、決して手の届かない彼方の境界へと去ってしまったかのような根源的な恐怖に、彼女の肩が小さく震えている。
「悪いけど、俺は君の人形になるつもりはないんだ。父様も、君のような一方的な押し付けは望んでいないはずだよ」
「ユウ様の言う通りです。私たちは、自分たちの足でここに立っています」
リーゼロッテが俺の隣に並び、力強く勝利を宣言する。
セレシアは泣きそうな絶望の声を上げて叫び、自ら俺に詰め寄ろうと狂奔した。
けれど、その狂行を阻むようにゼノン兄様とサリア姉様が鉄壁の陣を敷いた。
「お下がりください、お嬢様。これ以上は、取り返しのつかない不利益を招くだけです」
ゼノン兄様が氷のように冷たく告げると、セレシアは悔しさに美貌を歪ませながらも、その場に立ち尽くすしかなかった。
「……精霊祭は三日後よ。その時こそ、必ず貴方を手に入れるわ」
セレシアは怨嗟と執念の混じった視線を闇に残し、私兵を引き連れて夜の帳へと退いていった。
嵐のような時間が過ぎ去り、リーゼロッテは安堵からか、俺の手を再びぎゅっと握りしめた。
「ユウ様……本当に、よく頑張ってくださいました」
「ありがとう、リーゼロッテ。君がいてくれたから、一歩も引かずに済んだんだ」
俺は彼女の指先の震えを受け止めながら、夜の静寂を取り戻した中庭を見渡した。
今夜の衝突は、過酷な祝祭の幕開けに過ぎない。
三日後の精霊祭、そこで真実の決着がつくことになる。
背後では、ゼノン兄様とサリア姉様が静かに、そして頼もしく頷いていた。
夜明け前の学園に、新たな決意を秘めた冷たい風が吹き抜けていった。
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