第038話 婚約者宣告
その日の朝、国立魔導学園の正門前を支配していたのは、清々しい登校風景とは程遠い、胃の腑を焼くような重苦しい沈黙だった。
学び舎へと続く石畳の緩やかな坂道を登り切った先。本来であれば、未来の魔導エリートたちを迎え入れるはずの壮麗な鉄門は、暴力的なまでの白銀の輝きによって完全に封鎖されていた。
正門前の広場を占拠していたのは、隣国アステリア王国の至宝とも称される名門、カスティール公爵家の紋章を刻んだ馬車の列だ。白金と純銀で飾られたその威圧的な意匠は、昇り始めた朝日を鋭く跳ね返し、登校してきた生徒たちの目を無慈悲に灼く。それを取り囲むように、アステリア王国私兵団の中でも精鋭中の精鋭とされる、純白の外套を纏った一団が整列していた。彼らが腰に帯びた魔導剣からは、抜き身の殺意に似たプレッシャーが霧のように立ち込め、周囲の空気を冬のそれよりも冷たく凍りつかせている。
「朝から随分な見世物だ。父様が昨夜、妙に静かに微笑んでいたのは、こうなることを予見したのか」
俺を乗せたヴァルゼイド公爵家の馬車が、封鎖された道の中心で、行き場を失ったかのように止まった。御者台に座る従者の恐怖に強張った呼吸が伝わってくる。
隣に座るゼノン兄様が、彫刻のように整った顔を不快そうに歪め、腰に帯びた長剣の柄に指をかけた。その指先が、怒りによって微かに白く染まっている。
「公爵家同士の均衡を無視し、他国の学園の正門を私兵で塞ぐか。カスティールの小娘、隣国の内乱で父様に救われた際の恩義を完全に狂気へと履き違えているな。品性も礼節も、妄執という名の炎で跡形もなく焼き切ってしまったらしい」
向かい合わせに座るサリア姉様も、その指先に緻密な魔力結界の糸を編み上げながら、氷のような眼差しで窓の外を睨みつけた。
「父様を英雄視するのは勝手だけれど、その息子であるユウを、自分を救った男の身代わりか偶像のように扱うその不遜さ。万死に値するわ。ユウ、私の隣から離れないで。あの女が貴方の髪一筋にでも触れようとしたら、その瞬間に彼女の周囲の空間ごと圧殺してあげるから」
カスティール公爵令嬢、セレシア。
かつて隣国アステリア王国で凄惨な内乱が起きた際、反乱軍の手に落ち、業火に包まれた館の奥底で死を待つのみだった彼女を救い出したのは、アステリア王家からの緊急要請で介入していた俺の父、ガルド・ヴァルゼイドだった。
幼き日の彼女にとって、猛火を切り裂いて自分を抱き上げた父様は、この世の誰よりも気高く、運命さえもねじ伏せる絶対的な英雄として、その魂に刻印された。だが、その純粋なはずの恩義は、時間の経過と共に歪み、黒く変質していった。
彼女は父様を神格化するあまり、その血を引く俺に対しても、父様への信仰をそのままスライドさせたような異常な執着を抱くようになった。俺を父様と同じ救い主と呼び、同時に外界の不浄から隔離し、自分だけが跪き管理すべき神体として扱いたい。それが、彼女の病的な独占欲の根源であろう。
「ユウ様、馬車を降ります。いいですか、片時も私の傍を離れないでください。たとえ天が落ちてきても、貴方をあのような身勝手な女の手に渡しはしません」
隣で俺の左腕の袖を壊れんばかりに握りしめていたリーゼロッテが、低く、湿り気を帯びた声で言った。彼女の瞳には、ヴァルゼイド家から託された『ユウの伴侶候補』としての矜持以上に、自らの聖域を侵しに来た外敵に対する、剥き出しの憎悪が渦巻いている。
俺たちが馬車のステップを降り、石畳に足をついた瞬間。
カスティール家の私兵団が一斉に踵を打ち鳴らし、規律だった動きで左右に分かれた。その列の最奥に鎮座していた、一際巨大な白金の馬車の扉が、恭しく開かれる。
「あら、おはようございます。私の愛しき、救いのお方。またこうして貴方の存在を、この瞳に映せる幸福を神に感謝いたしますわ」
銀色の髪を朝露に濡れた絹のように輝かせ、傲岸不遜な微笑を湛えたセレシアが姿を現した。彼女は私兵たちが捧げ持つ剣の橋を渡るようにして、ゆっくりと、確実な足取りで歩み寄ってくる。
その瞳は、周囲で怯える野次馬や、剣を構えるゼノン兄様たちなど存在しないかのように、ただ一点、俺という存在だけを熱っぽく射抜いている。
「セレシア様、何の真似ですか。このような大軍を動かして学園の正門を塞ぐなど、ヴァルゼイド公爵家、ひいてはこの国の王家に対する明らかな宣戦布告と受け取ります。今すぐ兵を引き、その醜悪な馬車をどけてください」
リーゼロッテが俺の前に一歩踏み出し、凍りつくような声で制止をかけた。
しかしセレシアは一瞥もくれず、俺の左腕へと、恍惚とした視線を固定した。
「羽虫が朝から喧しいわね。ユウ様、安心なさって。私は既に父君であるガルド様へ、アステリア国王の親書を添えた公式な書状を認めましたわ。今日この時を以て、貴方は私の正式な婚約者として、私の管理下に置かせていただきます。これはもはや、一個人の感情ではなく、両国の絆を永遠のものとするための神聖な契約なのです」
「は?婚約者だと?何を勝手なことを……。父様がそんなものを受けるはずがない!」
俺の言葉に、セレシアは狂おしいほどの情愛を込めた微笑みを浮かべ、さらに一歩距離を詰めた。その瞬間、彼女から放たれる圧倒的な魔力の威圧が、周囲の生徒たちを悲鳴と共に退かせた。
「勝手ではありませんわ。炎の中から私を救い出したガルド様の気高い血を引く貴方を、このような誰でも入れる、汚れに満ちた学園などという場所に放置するなど、あの日救われた私への侮辱です。貴方は私の用意した、外界から完全に遮断された聖域で、一生私だけに見守られ、私だけに愛でられて過ごすべきなのです。それが貴方の幸福であり、私があの日救われたことへの、唯一の信仰の完成なのですから。不完全な貴方のその左腕も、私が一生をかけて埋めて差し上げますわ」
「ユウ様は貴女の偶像ではありませんわ!この方は、私がこの命、この魂のすべてを捧げて、地獄の底までお守りすると誓ったお方。貴女のような歪んだ独占欲の道具になどさせはしません!貴女がユウ様を奪うと言うのなら、私はその喉を掻き切ってでも、この地にお留めします。たとえそれが、王国の法に触れようとも!」
リーゼロッテが悲鳴に近い激昂を上げ、俺の手を指が食い込むほどに強く握りしめる。彼女の全身から放たれるどす黒い執着の波動が、朝の静謐な空気を物理的な衝撃となって震わせた。
対するセレシアは、その激昂を美しい賛美歌であるかのように聞き流し、不敵に笑った。
「いいわ。その程度の安っぽい愛が、私の命を賭した崇拝に勝てないことを、この三日間で思い知らせてあげる。ユウ様、貴方を必ずこの手で収穫し、精霊祭の夜、隣国へ連れて帰ります。それが、私を炎から救い、生きる意味を与えてくださった英雄ガルド様への、唯一の報恩なのですから。ふふ、あの日私を包んだ炎よりも熱い愛で、貴方を焼き尽くして差し上げますわ」
セレシアは鈴を転がすような高笑いを残して白金の馬車へと戻り、私兵を引き連れて学園の敷地内へと悠然と進んでいった。その後に残されたのは、圧倒的な物量による威圧の残響と、もはや修復不可能なほどに拗れた因縁の毒々しい残り香だけだった。
嵐が去った後の正門前で、リーゼロッテは震える手で俺の手を繋ぎ直し、俺の肩に額を押し当てるようにして囁いた。
「ユウ様を絶対に、あんな女には渡しません。公爵様が私に貴方を託した意味……。貴方を守るためなら、私は何だってしてみせます」
「ありがとう、リーゼロッテ。行こう。講義が始まる」
俺は彼女の指先の、痛いほどの熱を受け止めながら、三日後の祝祭に向けた、絶望的で歪な愛の争奪戦の幕開けを、静かに、そして確信を持って受け入れていた。
背後では、ゼノン兄様とサリア姉様が、セレシアの去った方向を殺意に満ちた眼差しで見つめ続けていた。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




