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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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閑話 雑草という名の因果

 国立魔導学園の中庭で聖絶を叫んでいた昨日までの誇りは、冬の朝露と共に消え失せていた。


 かつて異端審問教団の隠密工作員として、闇に紛れ、数々の要人を葬ってきた男、コードネーム『黒蛇』。現在はヴァルゼイド家公爵領別邸の『見習い庭師一号』に甘んじている男は、震える手で錆び一つない剪定鋏を握りしめていた。

 彼の目の前には、見渡す限り広がる白銀のバラ園がある。このバラは、ヴァルゼイド家の末子であるユウ・ヴァルゼイドが『綺麗だ』と一度口にしただけで、公爵家が大陸中から品種をかき集め、一夜にして作り上げたという狂気の結晶だった。


 「おい、一号。手が止まっているぞ。その一枝を切り損ねれば、ユウ様の視界に不純な曲線が混じることになる。それは万死に値する重罪だと教えたはずだが?」

 背後からかけられた声に、男は心臓が跳ね上がるのを感じた。

 振り返れば、そこには公爵家の老執事、アルカイドが立っていた。昨夜、学園で影から音もなく現れ、自分たちの未来を帳簿一つで買い叩いたあの怪物だ。


 「……わ、分かっている。だが、このバラのトゲは魔力を吸い上げる呪いがかかっているじゃないか。素手で触れれば意識が飛ぶ」

 「それがどうした。貴様ら教団の連中がユウ様に向けた殺意という名のトゲに比べれば、この程度の痛みは神の慈悲にも等しい。……三号を見ろ。彼は既に悟りを開いているぞ」


 アルカイドが指差した先では、かつて教団随一の重戦士だった男が、巨大な石像を素手で磨き上げていた。

 その石像はユウを象ったものであり、少しでも表面に曇りがあれば、即座にサリアから『分解魔法』が飛んでくるという極限状態での労働だった。三号の瞳からは既に光が消え、ただひたすらに大理石を愛撫するように磨き続けている。


 「俺たちは……、教団のために命を懸ける覚悟はできていた。だが、まさか借金の形に売られて、子供の庭掃除をさせられるなんて……」

 一号は、昨夜の公爵の言葉を思い出し、吐き気を覚えた。


 『お前たちの命に価値はないが、その労働力は負債の利子程度にはなる』


 あの冷徹な宣告。

 教団が担保に入れていたあらゆる資産をヴァルゼイド家が差し押さえた結果、末端の工作員である彼らは、法的に()()として扱われることになった。

 逃亡など不可能だ。彼らの首には、逃げ出した瞬間に全財産をヴァルゼイド家に譲渡するという強制契約の呪印が刻まれており、さらには一族郎党の雇用先までが公爵家の息がかかった商会に買い占められている。


 「……一号、無駄話はそこまでだ。間もなくユウ様がこの通路を通られる。その際、貴様は『ただの背景』として存在せねばならん。もしユウ様が不快そうな顔をされたら、その瞬間に貴様の職種は『人柱』に変更されると思え」

アルカイドの言葉は冗談ではなかった。この屋敷の住人たちは、ユウのことになると文字通り正気を失う。


 「アルカイドさん、聞かせてくれ。どうしてあの子……、ユウ様のために、ここまでやるんだ?彼はただの、左腕を失った子供だろう?」

 一号が恐る恐る尋ねると、アルカイドは遠くの空を見つめ、微かに目を細めた。


 「ただの子供、か。貴様らにはそう見えるのだろうな。だが、我らにとってあの方は、この灰色の世界に唯一残された純潔な色彩なのだ。ゼノン様もサリア様も、そして旦那様もエレイン様も……あの方を守るためなら、世界を焦土にする準備ができている」

 「……それは、俺たちが言おうとした台詞だぞ」

 「教団のそれは破壊のための狂気だが、ヴァルゼイドのそれは愛という名の執着だ。どちらが深く、そして逃げ場がないか、身をもって知ることだな」


 不意に、屋敷の重厚な扉が開く音がした。

 一号と三号、そして生垣の影で震えていた他の元工作員たちは、一斉に地面に跪き、呼吸を整えた。

 通路の向こうから、数人の足音が聞こえてくる。

 中心にいるのは、小柄な少年だ。左腕は、今はゆったりとした上着の袖に隠されている。


 「……兄様、そんなに囲まなくても大丈夫だよ。ここは家の中なんだから」

 「何を言う、ユウ。家の中だからこそ死角が多い。昨日の今日だ、どこにネズミが潜んでいるか分からんからな」

 ゼノン様が、鋭い視線で周囲を射抜く。一号はその視線が自分の首筋をかすめるたびに、生きた心地がしなかった。


 「そうよ、ユウ。姉様があなたの歩く道すべてに、精神安定と肉体強化の魔陣を敷いておいたわ。この上を歩くだけで、病気とも無縁になるわよ」

 サリア様が、ユウの足元に光る不可視の紋章を愛おしげに指差す。


 一号たちは、その足元のために、昨晩から一睡もせずに土を耕し、魔石を埋め込み、芝生の一本一本をミリ単位で整えさせられたのだ。

 ユウが中庭のバラ園に差し掛かった。

 彼はふと足を止め、一号が手入れをしていた白銀のバラを見上げた。


 (頼む……何も言わないでくれ。あるいは、不快だと言ってくれ。そうすれば俺は首を撥ねられて、この過酷な労働から解放される……!)

 一号の願いとは裏腹に、ユウは優しく微笑んだ。


 「綺麗だね。昨日より、もっと色が鮮やかになった気がする。庭師の人たちが、頑張ってくれたのかな」

 その一言が、中庭に響いた。


 一瞬、アルカイドの眼鏡が鋭く光り、ゼノン様の殺気が霧散し、サリア様の表情が歓喜に染まった。

 「……聞こえたか、一号。ユウ様が、貴様の仕事を『綺麗だ』とおっしゃったぞ」

 アルカイドが耳元で囁く。

 その声には、先ほどまでの冷徹さとは異なる、狂気じみた感謝が混じっていた。

 「これでお前の寿命は一週間延びた。そして同時に、このバラの輝きを永久に維持する義務が生じた。もし一輪でも枯らしてみろ。その時は、お前の血液を肥料にして、このバラをさらに赤く染め上げてやる」

 「……ひっ」

 一号は絶望した。褒められたことが救いではなく、さらなる地獄への契約書へのサインとなったのだ。


 ユウたちはそのまま、何事もなかったかのように屋敷の奥へと消えていった。

 少年の背中は小さく、どこか危うげで、それでいて周囲の狂気をすべて吸い込んで浄化してしまうような、不思議な静謐さを湛えていた。


 「……三号。俺たち、もう教団には戻れないな」

 一号が呟くと、石像を磨いていた三号が、涙を流しながら頷いた。

 「ああ。教団の神は天にいるが、ヴァルゼイドの神は……あの少年の姿をして、この地上を歩いているんだ。そしてその神の機嫌一つで、俺たちの命は羽毛よりも軽くなるんだ」



 その日の午後、元工作員たちに与えられた昼食は、公爵家の使用人が食べるものと同じ、豪華なものだった。

 だが、その味を楽しむ余裕は誰にもなかった。


 食堂の壁には、ユウが幼い頃に書いたという『みんな仲良く』という文字が額装されて飾られており、その前では、武装した侍女たちが『ユウ様のお言葉を蔑ろにする者は死あるのみ』と唱和しながら、ナイフを研いでいるからだ。


 「……一号、午後からは庭の噴水の清掃だ。ユウ様が、水音が少し大きいと仰っていた。水圧を魔力で制御し、少しの狂いもなく調整しろ。失敗すれば、お前自身が噴水の石材になる」

 アルカイドの指示が飛ぶ。


 「……了解しました、ヴァルゼイド家に栄光あれ……」

 一号は、もう自分が誰のスパイだったのかも忘却しつつあった。



 教団が計画した聖絶は、確かにここで行われていた。

 ただし、滅ぼされたのは学園でもユウでもなく、彼ら工作員たちの自我だったのだ。

 不完全な正義を掲げた者たちが、過剰な愛を原動力とする怪物たちに飲み込まれ、ただの部品へと作り替えられていく。

 一号は再び剪定鋏を握り、白銀のバラに向き直った。


 「……綺麗だ、なんて。あんな顔で言われたら、逆らえるわけないだろ」

 独り言のように漏らした言葉は、バラのトゲに吸い込まれて消えた。



 屋敷の窓から、そんな庭の様子を眺めていたリーゼロッテが、ふと公爵に問いかけた。

 「公爵様、あの者たち……教団の残党をこれほど近くに置いて、本当に宜しいのですか?万が一、ユウ様に牙を剥くようなことがあれば……」

 「問題ない、リーゼロッテ。牙を剥くための意志そのものを、私は既に買収した。彼らは今、自分が生きるためにユウの平穏を願うしかない。自らの生存本能をユウの幸福に直結させる。これほど確実な忠誠はないのだよ」

 公爵は、ユウが使っていたティーカップを愛おしそうに眺めながら答えた。

 「それに、ユウはああ見えて、あのような『不純なもの』を飼い慣らすのが上手い。……彼が左腕で何を掴もうとしているのか、私はそれが楽しみで仕方ないのだ」



 ヴァルゼイド家の別邸は、今日も平穏だった。

 その平穏を維持するために、庭の隅では元工作員たちが血反吐を吐きながら草を毟り取っている。

 

 そして家族たちは、その中心にいる少年のために、世界という名の檻を今日も少しずつ、強固に作り替えていく。

 一号が次にバラの枝を切る時、その手にはもう、かつての暗殺者の面影はなかった。

 彼はただ、少年に再び『綺麗だ』と言ってもらうためだけに、自らのすべてを捧げるヴァルゼイドの庭師へと、完全に変貌を遂げていたのである。



 「……おい、三号。石像の左耳の裏に、わずかな煤が残っているぞ」

 「な、何だと!?急いで磨き直さなければ……サリア様が来る前に……!」


 必死に大理石に齧り付く男たちの背中を、冬の陽光が冷たく照らし出していた。

 それは、教団が夢見た救済よりも、はるかに過酷で、そして奇妙なほどに満たされた、新しい人生の始まりだった。

 神の懐よりも深いヴァルゼイド家の帳簿には、彼らの名前が『()()』として、永遠に刻まれ続けることになるのだから。

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