第036話 神の懐よりも深い帳簿
「笑うがいい。これですら、壮大なる聖絶の序曲に過ぎん。貴様という悪魔を滅ぼすためなら、この学園ごと焦土にしても構わんと、主はおっしゃっているのだ!」
捕らえられた工作員が、喉を引き裂かんばかりの絶叫を上げた。その瞳には狂信という名の毒が濁っており、彼が口にした焦土という言葉が単なる虚勢ではないことを物語っていた。
俺は、空中で静止した巨大な精霊灯の影から、その狂態を冷ややかに見つめていた。俺の左腕に宿るパサージュの鍵が、鉄塊を重力の理から切り離し、静寂の中に固定している。
だが、工作員の叫びが夜風に溶け切るよりも早く、その場に場違いな音が響いた。
それは空間を切り裂くような転移魔法の駆動音ではなく、また軍靴の足音でもない。カチリ、という。精密な機械が噛み合うような、あるいは高級な万年筆のキャップを閉じるような、ひどく理性的で冷徹な音だった。
「焦土だと?ほざけ。無能の分際で、随分と高くつく寝言を抜かしたものだな」
中庭の中央、何もない空間からその声は響いた。
俺やゼノン兄様、サリア姉様が驚きに目を見開く中、空気が万華鏡のように揺らぎ、一人の男が姿を現した。
有無を言わせぬ威圧感と共に現れたその人物は、ヴァルゼイド公爵家の当主――俺の父様だった。
「……父様!?どうしてここに」
俺の声に、父様は鋭い視線を一度だけ向けたが、すぐさま忌々しそうに工作員を睨みつけた。
「ユウ、下がっていろ。不純物の掃除が遅れたのは私の不手際だが、これ以上こんなクズの喚き声を聞く必要はない」
「父様、工作員の始末は我らにお任せを!今すぐこの塵どもを根絶やしにします!」
ゼノン兄様が剣を構え直すが、父様はそれを一瞥し、鼻で笑った。
「黙っていろ、ゼノン。暴力など最低限のコストで済ませるものだ。もっと効率的に、こやつらの存在を根底から叩き潰す方法を既に完了させてきた。よく、見ておくがいい」
父様は工作員に歩み寄り、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには教団の紋章と、王国の財務管理局の刻印が重なるように捺されている。
「貴様らが今から行おうとしている儀式には、膨大な魔力媒体が必要だろう。具体的には、教団が裏領地で秘密裏に採掘していた聖金石の触媒だ。だが、残念ながらそれはもうゴミ同然だぞ」
工作員の顔から血の気が引いていく。
「な、何を言っている……。あれは我ら教団の聖域で厳重に……」
「厳重だと?抜かすな。お前たちの教団は、先月の大規模な異端審問軍の遠征費用をどこから引っ張ってきたか忘れたのか。複数の商人ギルドを経由した多額の借入だ。その債権を、本日付で我がヴァルゼイド公爵家がすべて買い取らせてもらった」
父様の声は、氷のように冷たく、刃のような殺気を孕んでいた。
「教団が担保に入れていた聖域の土地、修道院の建物、さらには信者から集められた寄付金の口座。そのすべてが現在、私の管理下にある。つまり、教団は今この瞬間、物理的に一文無しだ」
「そんな……馬鹿なことが……!」
「さらに付け加えるなら、お前が隠し持っているその緊急転移符の維持費用も、私が凍結した口座から引き落とされる仕組みだったはずだ。試してみろ。動くか?」
工作員が焦燥に駆られて懐の護符に魔力を込めるが、護符は鈍い音を立てて灰へと変わった。魔力の供給源が、契約解除によって断たれたのだ。
「焦土にすると言ったな。だが、その魔法を発動するための触媒を、お前たちはもう買うことができない。それどころか、お前たちが今着ているその法衣すら、法的には私の所有物だ。不法占拠で即座に首を撥ねても構わんが、どうする?」
圧倒的な現実。宗教的な狂信すらも、父様が突きつけた数字という暴力の前では、砂の城のように脆く崩れ去っていく。
「ユウ、これが大人の戦い方だ。相手が神に祈るなら、私はその神殿の土地代を請求する。相手が奇跡を謳うなら、私はその奇跡の著作権を差し押さえる」
父様は俺の側に歩み寄り、一切の感情を排した無機質な手つきで俺の頭を撫でた。
「父様、それじゃあ教団は……」
「ああ。今頃本部の幹部たちは、神への祈りよりも、私への弁済計画書を書くのに必死だろうよ。彼らはもう、我が家という巨大な負債の奴隷だ。二度と君の前に、敵として現れることはない」
サリア姉様が呆然と呟く。
「流石は父様。物理的な殲滅よりも、精神的に追い詰めるのがお上手ですわ」
「買い被るな、サリア。私はただ、ヴァルゼイドの資産を守るために、最も効率的な投資を行ったに過ぎない。アルカイドはいるか?」
「……御前に」
父様の影から、音もなく一人の老執事が姿を現した。
「教団が所有していた学園近郊の別荘地も、すべて我が家の管理下に入った。そこをユウ専用の資金にする計画を進めろ。もちろん、教団から徴収した工作員たちを、終身雇用で庭掃除として働かせても構わん。逃げ出そうとするなら、相応の違約金をその身に刻んでやれ」
「畏まりました、旦那様。彼らには、不浄を清めるよりも、床の泥を拭き取る喜びを徹底的に教育いたします」
執事アルカイドの瞳に、冷ややかな、しかし忠誠心に満ちた光が宿った。
俺は、事態が魔法の決闘ではなく、政治と経済の力で解決されたことに、言いようのない安堵と、それ以上の恐ろしさを感じていた。俺の左腕が引き寄せた因果は、教団という巨悪を、父様の帳簿の中に飲み込ませてしまったのだ。
「さあ、ユウ。もう夜風が冷たい。残りの不審者はゼノンに任せて、私たちは馬車で帰るぞ。エレインもユウの無事を確認するために、最高級の料理を用意して待っている」
父様の大きな手が、俺の肩を抱く。空中には、まだ俺の権能によって静止した精霊灯が浮いている。父様はそれを見上げ、満足げに頷いた。
「この精霊灯も、後で我が家の記念品として持ち帰るとしよう。未完成の美?というやつかな。」
「うん。父様」
俺は、左腕の熱が引いていくのを感じながら、父様の言葉に従った。教団の脅威は去った。だが、俺を包囲する家族という名の、より強固で逃げ場のない檻は、今この瞬間、世界のどの聖域よりも鉄壁なものへと作り替えられた。
馬車へと向かう俺の背後で、ゼノン兄様の「さて、掃除を始めるか」という低い声と、サリア姉様の「どんな結界で監禁しましょうか」という楽しげな独り言が響いていた。
学園を焦土にしようとした工作員たちは、もはや絶望する気力すら奪われ、ただ地面に突っ伏していた。神を信じていた彼らは今、この世に神よりも恐ろしい公爵という絶対者が存在することを知ったのだろう。
夜空に浮かぶ月は、相変わらず冷たく、しかしどこか俺を祝福するように輝いているように見えた。不完全な救いと、完璧すぎる保護。その狭間で、俺はまた一歩、家族という名の深い帳簿の奥底へと踏み出していく。
俺の物語は、悲劇としても、聖典としても終わらせてもらえない。それは、ヴァルゼイド家が買い取った、最も高価な愛という名の負債だった。
馬車がゆっくりと走り出し、学園の門を抜ける。
俺を狙う者がいなくなっても、俺を守る者たちが、この世界を俺の色に塗り替え続けていく。それが、左腕を失った俺に与えられた、本当のお釣りなのかもしれなかった。
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