第033話 理の対価
嵐の去った後の学園は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
つい先刻まで空を焼き尽くさんばかりに荒れ狂っていた審問軍の光は、今は見る影もない。中庭に降り積もった魔力の灰は、風に吹かれてキラキラと銀色の残光を放ちながら、実体のない夢のように消えていく。審問軍の軍靴が刻んだ無数の足跡と、破壊された石畳だけが、ここが戦場の一歩手前であったという凄惨な事実を無言で物語っていた。
「ひとまず、落ち着ける場所へ移動しようか。ここは……少し、ユウを休ませるには騒がしすぎる」
父様のその一言で、俺たちは学園の特別応接室へと移動することになった。
重厚な革張りのソファが並ぶその部屋に、父様、母様、ゼノン兄様、サリア姉様、そして俺の隣には、未だに震えが止まらない様子で心配そうな顔をするリーゼロッテが座っている。
テーブルの上には、王室御用達の茶葉で淹れたての紅茶の香りが漂っていたが、その湯気を楽しもうとする者は誰一人としていなかった。
「ユウ、怪我はないの?どこか痛むところはない?ああ、顔色が少し青いわ……」
母様がソファを詰め、身を乗り出すようにして俺の全身をくまなく点検する。その指先は、俺に触れるたびに小刻みに震えていた。
「大丈夫だよ、母様。どこも悪くない。むしろ、少し体が軽いくらいなんだ」
「本当に?あんな、世界の終焉かと思うような恐ろしい光を浴びたのに……。信じられないわ」
サリア姉様が俺の無傷な左腕の袖を、まるで壊れ物を扱うような手つきでそっと撫でた。
「……ユウ。単刀直入に聞く」
父様が、鋭い、だが底知れぬ慈愛に満ちた瞳で俺を真正面から見据えた。
「お前が先ほど見せた力。あれは一体何だ。我がヴァルゼイド家に代々伝わる魔術体系にも、あのような事象そのものを消滅させる力は存在しない。数千人の詠唱を霧散させるなど、通常ならば神に等しい魔力量が必要なはずだ。お前の内側で、何が起きている」
室内の空気がぴりりと張り詰め、時計の刻む音さえも止まったかのように感じられた。
俺は、意識の底に静かに鎮座する、銀色のパサージュの鍵に意識を向けた。
父様たちの鋭い追求。このまま論理的に説明しようとすれば、必ずどこかで綻びが出る。俺は、パサージュの鍵の権能の一つである『忘却の残滓』を極微弱に、対話の声に乗せて励起させた。
彼らの記憶を消すのではない。ただ、俺の力に対する違和感や分析しようとする冷徹な思考を、俺への同情という霧で希釈するのだ。
俺は視線を落とし、芝居がかった弱々しい吐息をつきながら口を開いた。
「……特別な魔法を使っているわけじゃないんだ、父様。ただ、僕は少しだけ、この世界の不公平に敏感なだけなんだよ」
「不公平だと?」
父様が怪訝そうに眉を寄せた。
「そう。僕は、生まれながらに左腕という大切なものを失っている。自分がこれまで支払ってきた欠落の重さは、誰よりも理解しているつもりだよ。だから……、あの瞬間、僕には見えたんだ。彼らの放った光が、あまりにも不当で、不公平な暴力であることが」
俺はパサージュの鍵が生み出す銀色の霧を、言葉の端々に滲ませる。それは思考を鈍らせ、感情を増幅させる。
「世界には、常に保たれるべき均衡があると思うんだ。何かを失えば、その分だけ、理不尽を拒絶する権利が生まれる。僕は、すでにこの左腕を代償として世界に前払いをしている。だから、あの時……、ただ願ったんだ。僕はもう十分に支払った。だから、これ以上は受け取らない、と。そうしたら、光が勝手に、行き場を失って消えてしまったんだ」
俺の説明は、具体的な手法を何一つ明かしていない。しかし、鍵の干渉を受けた父様たちの思考は、『どうやったのか』という技術的な疑念を通り越し、『なぜそこまで悲しい理に辿り着いたのか』という情緒的な確信へと流されていく。
「……そうか。お前は、失った左腕の代わりに、運命を拒む権利を得たというのだな。お前の悲しみが、奇跡を呼んだというのか」
父様が声を震わせながら、俺の細い肩を抱き寄せた。その瞳からは、先ほどまでの鋭い探究心は消え失せ、代わりに深い自責と愛惜が溢れ出していた。
「そんな悲しい力があるなんて……。ユウ、貴方はどれほどの孤独の中で、その答えに辿り着いたの」
母様がハンカチで目元を抑え、押し殺した嗚咽を漏らした。パサージュの鍵による事象の希釈が、彼女の論理的な疑念を完全に『ユウの不幸への憐憫』へと変換しきった。
「あんなに幼い頃から、左腕がないことを恨みもせず、ただ静かに微笑んでいたのは……自分の中で、世界への支払いを黙々と続けていたからだったのね」
サリア姉様も同じように涙ぐむ。彼女の魔力知覚ですら、俺が放った銀色の粒子の正体を掴むことはできず、ただ『ユウの魂の叫び』として認識してしまっている。
「ユウ……、すまない。兄でありながら、お前がそんな過酷な理を背負わされていることに気づけなかった。お前の力は、お前の欠損そのものだったんだな」
ゼノン兄様が悔しそうに拳を握りしめた。
パサージュの鍵の真実、すなわち俺が世界を支配し得る絶対者であるという事実は、この欠損による代償という美しい嘘の霧の中に完全に隠蔽された。
彼らにとって、俺の力は究極の魔法ではなく、究極の悲劇が生んだ一過性の守りとして完結した。分析の対象ではなく、ただ愛し、守るべき尊い傷跡。
リーゼロッテに至っては、俺の手を握りしめたまま、ポロポロと大粒の涙を流している。
「ユウ様……。私、もっともっと、貴方をお守りします。そんな悲しい理、もう二度と使わなくてもいいくらいに」
「いや、リーゼロッテ、そんなに泣かなくても……」
俺の苦笑いも、今の家族には悲劇を耐え忍ぶ健気な強がりにしか見えなかったらしい。
サリア姉様が俺を力いっぱい抱きしめ、耳元で執着に近い熱を帯びた声で囁いた。
「決めたわ。これから学園の生活は、私たちヴァルゼイド家が二十四時間、一秒の隙もなく管理するから。教団の連中に二度とユウの対価を使わせるような真似はさせない。ユウはただ、そこで私たちが用意した安全な世界で、笑っていればいいのよ」
「あっ、姉様、それは流石に過剰だよ」
「過剰なものか!父さんも今、確信した。学園の警備をすべてヴァルゼイド家の私兵で固め、教団の入る隙など微塵も残さん。ユウ、お前は我が家の、そしてこの国の至宝だ。お前の欠損を、これ以上世界の都合で利用させてたまるか」
パサージュの鍵による誘導は、期待以上の効果を発揮してしまったようだった。
核心に迫る追求をかわし、家族を納得させることには成功したが、その引き換えに俺の自由は、これまで以上の凄まじい過保護という名の黄金の檻の中に閉じ込められようとしていた。
俺は窓の外の、何事もなかったかのように広がる青い空を見上げ、遠くでまた何かが動き出す予感に、小さく、誰にも聞こえない溜息をついた。
パサージュの鍵は、俺の秘密を隠したまま、家族の愛という名の重力をより一層強固に、そして絶対的なものへと変えていくのだった。
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